いのちの本体

昨日は、自然農の畑をととのえて堀池高菜の種を蒔く準備をしました。最初にこの固定種の種を受け継いでから12年目になりますが年々、高菜も風土に合わせて変化を続けています。

自分たちのいのちを守ることと種を守ることは同じことですからお互いに循環のスパンに入って助け合うことができたことが有難いと思っています。

そもそもこの循環というのは、みんなで助け合い生きるということです。つまり共生=循環ということです。何か巡ることの方ばかりがフォーカスされますが、本来はそうではなくみんなでいのちを分かち合うことや活かしあうことを保つことが循環です。

循環を止めるというのは、共生を止めるということです。自分だけ生き残るために周りを利用するということです。そういう存在は循環を止めますからいつか天敵が出て滅ぼされる存在になります。理由もとても明瞭で、その天敵は自分自身でもあります。

よく文明が滅んだりする理由もまたこの循環して分かち合い共生することをやめると加速します。分け合えば余り、奪えあえば足りないのです。ずっと足りないと奪い続けるのは分け合うことをやめているからです。

資本主義とか新資本主義とか言っていますが、実はその辺はどうでもいいことです。問題は、自然の全体と分かち合いながら助け合い生きる道をとるか自分たちだけで奪い合い生きていく道でいくのかを決めるということです。

人類はもう随分前に、資源を奪い合う生き方を選んできました。今居る場所に資源がなくなれば、もっと遠くにいって奪っていく。地球もそろそろ資源がなくなるので、宇宙に出ていこうとします。実際に科学を進歩させていけば、そのうち食糧問題をはじめあらゆる問題も解決していくでしょう。しかし、それは豊かで仕合せかといえばそうではないことはすぐに予想できます。

助け合い分かち合う美しさや喜び、仕合せがない世の中にいのちは存在していないかです。私たちが本来、認識するいのちは心臓が躍動して脳が働く生命のことではありません。この助け合いの結びつきや分かち合いのご縁の循環とともに存在しているものです。

この世のすべは羅もうのようにつながっていて、いのちはその全体で構成されています。宇宙も同様に、目に見えないもので結びつきあっているのです。だからこそいのちは助け合い、分かち合い、活かしあうことを歓びます。それがいのちの本体だからです。

いのちの本体は、共生しているなかで実感できます。子どもたちにも共生や循環の生き方を譲り遺していきたいと思います。

便利さの副産物

消費文明の中では、使うことや捨てることがよいことをされています。特に利便性というのは、便利であること。便利は誰にとって都合がいいかということ。それは使う人にとってメリットがあるということです。しかしなんでもそうですが、誰かにとって都合のいいことは誰かにとって都合が悪いことがあります。それが自然でいえば、人間にとって都合のいいことは自然にとっては都合が悪いものです。しかし自然は文句を言いませんから、人間が好き勝手に便利に走っても誰からも非難されることはありません。

つまり非難されず文句を言えない相手なら便利であることは最善とも思うことがあるということです。子どもも同じく、大人の便利に左右されて色々なことに困っています。この逆に不便さというものは悪のようにいわれます。不便というのは、役に立たないことや都合よくないときに使われます。

世の中の不便を解消するためにビジネスを発展させるというのがこの前の時代の価値観でした。しかしよく眺めてみたら、これだけ便利になってもなおさらに便利になるように追及しています。これは確かに間違いとはいいませんが、その便利さによって発生する副産物によって私たちは大切なものを失います。

その一つは、時間というものです。時間を稼ぐためにスピードを上げる。そして便利なものを使う。しかしそれで時間が産まれるかというと消費されていきます。本来の時間はゆったりと充実して味わうものでかけがえのないものです。それは便利さと共に失われていくのです。

そして次に場です。便利であるがゆえに場がととのうことがありません。面倒なことを取り払い、場を磨き上げることを怠ることで自他がととのい、穏やかで豊かな関係が築けるご縁をも失います。

他にも健康というものがあります。便利になって健康が失われます。本来、不便というものは心身をバランスよく使い、丁寧に身体の声を聴きながら一つ一つの五感を活用して味わうものです。それを時間がないから、関係を重ねる暇もないからと便利に走っては健康まで失います。

もう少し不便を取り入れていこうとはなぜしないのか。

それは不便であることをよくないことだを刷り込まれているからです。私は暮らしフルネスの中で多くの不便を取り入れています。もちろん便利さも善いところもありますが同じくらい不便を取り入れます。それが喜びや豊かさ、古くて新しく、柔軟で謙虚でいられるからです。

時代は色々と問題をかかえているのはすぐにわかります。先ほどのことを大きくすれば、因果の法則で環境問題、自然災害。そして人災として戦争、飢饉。感染症や精神病もです。これは先ほどの便利さの副産物であるのです。

気づいた人から日々の暮らしを換えていくのが解決の近道です。次の時代の生き方、子どもが大切にされるような時代にしていきたいと思います。

ふるさとの徳

日本人とは何か、そして日本の心とは何か、これは世界に出るとよく感じるものです。海外の美しい文化に触れている時、それを味わうのに私たちは自分の体験や感性を使って共感できるものです。

例えば、自分がふるさとの美しい自然、そして水に触れて育ったとします。すると、その自然の美しさや水の澄んだ様子に心は次第につながります。それだけ環境の影響を受けて自分の感性は育ちます。心にふるさとというものとのつながりは一生をかけてその人に影響を与えます。

この懐かしさというものは、故郷とつながっているということに気づきます。この故郷は自分が生まれ育った場所、安心基地です。遠く離れたときにこそ、自分には心にふるさとがあることが大切になります。それは生まれてすぐから必要で、私たちは本当はこのふるさとの安心があって自由に豊かに育つことができるように思います。

一人で生きているのではなく、みんなに支えられて見守られて生きているということ。そういうことを私たちは感得することによって自分というものを確立して社会で助け合い貢献しあって自分を立てていくことができるからです。

子どもが自立していくうえで、陰の存在でありながらもっとも偉大な存在こそがこのふるさとなのです。

私が子ども第一義の理念を掲げ、社業に取り組むなかでなぜふるさとに帰りふるさととのつながりをつくるような暮らしフルネスを実践するようになったのか。もちろん自分を育ててくださっている日本の大切な風土に御恩返ししたいということもあります。しかし同時に子どもたちの未来のためにこの懐かしさを真摯に伝承していくことの重要性も気づいたからです。

なぜ三つ子の魂百までというのか、その真理に気づいたからです。子どもが育つというのは、この育つうえで何がもっとも養分になるのか。心と何を結べば無限の見守りを感じられるのかということです。

人間は実際は目に見えるものでささえられていると思いがちですが、実際には目には観えていない御蔭様や裏方のハタラキによって活かされています。それを徳ともいいます。その徳の存在を如何に循環させていくかというのは、甦生の中心であり私の生き方の目指すところです。

太陽と月、そして地球、この3つの持つ徳は子どもが育つ原点であり根源です。

知恵を活かして、懐かしい未来を心をつないでいきたいと思います。

知恵の伝道

現在は、様々な法律があります。その法律は人々を守るためでもありますが、むかしから行われている目には見えませんが非常に効果がある伝統や仕組みに対しては効果を失わせてしまうものもあります。

私は古民家を甦生していますが、建築基準法の法律に合わせることでかえって古民家の善さを破壊してしまうという現場をたくさん見てきました。現代の建築に合わせた法律であるがゆえに新築が基準になっており伝統的な古民家には合わないつくりになっているからです。

例えば、今はべた基礎といってセメントをいれるのが当たり前ですが古民家は土の上に石が乗っているだけです。これを全部セメントすると場所によっては湿気がかえって溜まりやすくなったり風水を度外視したことで様々な家に問題が発生することもあります。部分最適ではなく、全体最適でむかしの人は家を建てたのでそれを法律に合わせたことでかえって家の健康を損なってしまうという具合です。

他にも薬事法によって民間療法で効果があるものが禁止されたり、衛生法などで発酵や酵母菌などが使えなくなったり、その地域の文化や祭祀、宗教や祈祷なども法律がありできなくなったところもあります。

本来は、全国一律で一斉に同じことをして守るということに無理があります。それぞれの地域にはそれぞれの風土で発見されたり発明されたものがあり、それを尊重しながら善いものを口伝あるいは実践によって伝承されてきました。

さらには、いまだ科学で証明されていないような不思議なものなどもむかしは当たり前に善いものは善いと取り入れていましたから自然に取り組んできた文化もあります。そのうち量子力学をはじめ新たな科学でその存在が実証されたとき、あれを遺しておけばよかったとか、捨てなければよかったとか、法律を書き直すなどということも出てくるのでしょう。

大事なのは、尊重していくことで本物だとわかるものをみんなで学び気づきそこから選択をできるようにしていくことだと私は思います。

もともと徳積循環の中には、そうやって目には見えないものでも効果があるというものをみんなで守っていこうというもんがあります。英彦山でいえば、薬草の知恵であったり、山での修行の知恵であったり、他にも座禅や祈り、暮らしの知恵もあります。こういうものは法律で認められないからと禁止するのではなく、それぞれが自分で体験していいと思えばそれをみんなで守っていこうとするのは伝承の知恵です。

伝承の知恵をつかうために、徳積帳もありそれをみんなで活用することでさらに知恵が積み重なり徳も弘がります。

時代的に難しいものもありますが、むかしから大切だといわれたことはそのまま守りながら新しい時代のテクノロジーの力を借りて子どもたちに知恵を伝道していきたいと思います。

和楽の世

昨夜から台風対策で色々と家の周辺の片づけや窓関係の対策を行いました。年々猛威をふるう自然現象に畏れを感じます。地球環境が人間が適応できなくなってくるのは、今だけではなく過去に何度も発生してきました。むしろ安定していた方が少なく、ほとんどは今よりも過酷な環境で生きてきました。

遺伝子は過酷な環境下で生き延びることができるようにスイッチが入るといいます。使わなければ使えませんが、一度そのスイッチが入ればかなりの過酷な環境下でも生き延びることができます。

何度も滅びそうな体験をしてきて、そうならないようにと慎重に暮らしをととのえてきたのが先人たちの知恵です。人間はどのような時がもっとも危険なのか、それは危機のときではなく裕福なときです。成功している時です。そして欲求が満足している時です。これは会社の経営でも個人の体調管理でも同じです。人間は、上手くいっているときこそ謙虚に慎むことで生き延びてきました。

古典を読むと文明が滅亡する理由が分かってきます。歴史には、いつも同じように人間が同じ轍を踏んで文明を滅ぼしていきます。これは人間というものが持っている元来の性ということになります。その性をどう修め磨くのか、人格をみんなで整えて協力して滅ばないように取り組んでいくことが本来の政治の根本だったのかもしれません。

それが時間と共に集合的な無責任になるのも、みんな周囲をみては自分というものを埋没させていくからでもあります。人間がどのように教育されたかで未来が変わりますから教育者は文明が滅ぶことにおいての大きな責任を持っているということです。私も社会に関わる教育者の一人ですから、責任を痛感して今の暮らしフルネスを実践しているともいえます。

文明の衰退期にどのように処していくのか、大局を観てどう生きるのかを決めることが必要になります。時代が変わっても、変えることができないことが私たちのいのちにはあります。

自然の猛威を観て、如何に謙虚に反省して生き方をととのえていくか。自然というものの先生に従い、他の生き物たちと共に助け合い生きていく道をみいだしていくなかに和楽の世もあります。

子どもたちにこれから生きていくための知恵を少しでも譲り遺していきたいと思います。

暮らしの本質

現代は利便性を追求していく世の中でもあります。便利を追及すればするほどに、奥深いもののことを考える意識が消えていくものです。本来は、どのようなハタラキがあるのかや、全体にどのように循環しているのかといったことは考えず、目の前に起きる現象だけをみてそれで結果を求めます。

しかし本来、この世はすべて繋がっていますからそう簡単に便利に事は運びません。事が運ぶには、全体を配慮しながらみんなが喜び合う関係を築いていく必要があります。それはどちらかといえば、不便です。不便を喜び合うというのは、不便でも全体のためにちょうどいいということに気づくということでもあります。

物事には、表層で行われている事象と共に深層で行われる事象があります。目に見えるものが動いているというのは、水面下で目に見えないものも同時に動いているということになります。

原因を持てば、その原因によって因果の法則が発生しそれを中和するのに何かの事象が発生します。それは目に見えるところの循環もあれば、目に見えないところの循環もあります。同時に発生する循環をどう調和させていくか、それを観えていた先祖たちはいのり、ハタラキ、実践をして暮らしをととのえていきました。

不便な暮らしといって現代の人が捨てていったものには、捨ててはいけない見えない世界の循環を喜ばす仕組みもありました。仕合せや豊かさというものもまた、不便だと思う側の方にもあります。つまり物心の両面を豊かにしていくには、物心が豊かになるように丁寧に不便なプロセスを味わう必要があります。現実世界でいくら便利で幸福だと思っても、目に見えない深い世界では不便なことが幸福であることもあります。幸福の両輪でもあります。同時に、現実で幸福なことは目に見えない世界では不幸なこともあります。人間万事塞翁が馬の故事のように、深遠微妙な世界や神秘幽玄の意識では目に見えて善い結果だけがいいとは限らないのです。

時間をかけてご縁が循環していく世界では、御蔭様の存在を感じて生きているかどうかというのはとても大切な生き方の基準になると思います。自分だけの力でなんとかしようとするのではなく、偉大な他力といったような全体のお力の御蔭様にお任せしていくという生き方。

いのちの世界に身をおくことの大切さを先人たちは子孫へ結んできたのが暮らしの本質だったのでしょう。

暮らしフルネスの場は、その本質を学ぶ場所でもあります。時間と空間、横軸と縦軸をよく磨き直して本来の在り方に触れることですべてがととのってきます。水の徳を感じることで、循環を邪魔しないことが素晴らしいとわかるように暮らしの徳を磨くことで同じく循環を尊重し仕合せを味わえます。

これからも実践を通して知恵を伝承していきたいと思います。

水鏡の徳

鏡のことを深めていると最初はどうだったのかということに思いを馳せます。水鏡というようにむかしは水たまりをみてたのでしょう。鏡の由来は、影見という自分の蔭がうつるというものであったり、輝見というように光がうつるというものであったりもあったようです。

よく考えてみると、浸透することや透明なものになにかがうつるというものはそのものが何かと結合しているということです。うつるという広義の意味においては、水の中に何かがうつっているということになります。それが自分であるのなら、その瞬間に水に自分がうつるのです。

こんなことを書くと、ワープの世界とかテレポーテーションの世界とか、あるいは次元の話とかSFっぽくなってきます。しかし、実際に「うつる」ということを一つの性質としてとらえてみたら物とも人でも空間でも場でも、うつりこみながらそれぞれに定着しているという考え方もできるのです。

ものづくりでいえば、そのものをつくる人の想いや心がものにうつります。すると、そのものはそのうつりこんだものの一つとして同じ世界に同化します。つまり、自分の観ている世界にうつりこむのです。そして同時に相手の世界にもうつりこみます。うつりこんだものは、存在として認識します。

何がうつりこんでいるのか、それは人間であればご縁の記憶であったり、何かの出来事の絆であったりします。うつりこんだものをととのえていけば自分自身の深いところもまた磨かれていきます。

物を磨いていくことは自分を磨いていくというのは、自分のいるこの世界を如何に調和させていくかということでもあります。調和して丸くしていくというのは、地球の生命をはじめ宇宙が取り組んでいることと同じです。自分というものがミクロの一つの宇宙や地球でもありますから自分がよく調和すれば世界もまた調和していくことです。暮らしフルネスの実践で徳を磨く理由もまたここにあります。

日本人はお水の偉大な徳を享受されています。そのお水に学び、お水を尊び、お水と感謝で暮らしてきた民族です。子どもたちと、その恩恵への感謝と共に未来へ向けての挑戦をしてきたいと思います。

水の知恵

水という存在はむかしからとても不思議です。いのちそのものであり地球を包んで循環しているものでもあります。この世の中は水が浸透し、水が巡ることで多くの生き物たちを育て助けています。つまり陰の立役者でもあり、欠かすことができないもっとも偉大な存在が水です。

しかも水というのは、目に見えるものもあれば空気中の湿度のように目には見えないものもあります。しかし明らかに私たちはこの水が通過しあうことでいのちを分け合っているのです。

例えば、雲が山に来て雨を降らします。その雨は山から流れ出て川になり海になります。そしてまた雲になり山にもどってきます。問題は、そういう水の流れを邪魔してしまうことが様々な問題を発生させます。

その代表的なものがダムです。水は本来は非常にシンプルで本質的な循環を産み出します。山から最初に流れ出てくる水が清らからで新鮮な水として流れ出します、山の麓ではその水を好む生物たちがその水の恩恵でいきいきと活動します。川エビやカニ、ヤマメやアユなどもいますし他にもその周辺には清流を好む存在がいます。そこから川に流れていきますがまずここにダムをつくればその周辺の生態系が変わっていきます。

水はすべての生命を通り、その生命を通る過程で必要ないのちを透過しながら次の養分へと結びます。水には、他のいのちと結合するという徳目がありそのすべてを通ることでいのち全体の流れを結ぶのです。

この結び目には、それぞれが水と共に生きる記憶があります。水がその記憶の間を伝いながら悠久の時間をかけて活動しているともいえます。つまり水は言い換えれば偉大な記憶装置のようなものです。記憶を留めて記憶を循環させていくことで、私たちはご縁の世界を生き、すべてを中和させていきます。

水には不思議な力がありますが私たちはまだその一端を知っているだけです。当たり前すぎてわからなくなっていますが、本来は水は神秘の塊です。

今回、鏡師と一緒に過ごしていくなかで改めて水の持つ神秘的な力を実感することができました。水にうつるあらゆる真実を深めて、子どもたちにその恩恵の偉大さを伝承していきたいと思います。

鏡の世界

ここ数日、鏡師と共に暮らすなかで鏡について深める機会をいただいています。よく考えてみると、私が如何に鏡のことを知らなかったかということを学んでいます。

人が鏡と最初に認識したのはいつだったのか、それはきっと水たまりや水面にうつる水鏡だったように思います。その後、技術的に石や金属を鏡にしていきます。現代では、メッキをつかって鏡は容易につくられています。

むかしから私も水面と奥の水中の景色をみるのが好きでこの世界がいくつかの層に分かれている感覚というものを持っていました。光に影があるように、表と裏もあります。他にも、水や火や風や雲もまた何かの変化とあわせて別の変化が上空と地上と海中で行われます。

子どもの頃、何かのテレビで鏡の中の自分が別の動きをしている映像をみたことがありました。そういう世界の見方もあるのかなと思ったことを覚えています。別のものでは影だけが別の動きをするという具合です。そんなことは常識的にはありませんが、これは目には見えないところでということであれば当たり前の話にもなります。

自分というものを認識するのも、顕在的な意識の自分と潜在的な意識の自分があります。例えば、心というものです。目にはみえている表層の意識と心の中にある意識があります。海でいえば、波立っている上層の水と海底の深いところに沈んでいる水があるようなものです。

私たちは平面と思っていても、そこに深さがあります。その深いところが沈んでいる水は奥が観えません。しかしそこには別のハタラキがあるものです。コップの水と、湖の深い水、表面は同じように観えても質量も深さも異なります。

私たちがこの世界を観るとき、深い奥に沈んだ何かを観るのか、それとも置きている現象だけを観るのか。それによって世界に観える層が変わります。私たちがどの層を観ているのか、そしてどのように自分を観るかにも関わってくるのです。

自分というものを深く観ると、自分の心の奥底にある水に気づきます。そして日ごろは表面にある水が揺らいでいることにも気づきます。鏡を観るとき、どの自分をうつす鏡であるのかは自分の磨き方によって左右するように思うのです。

自分を磨いていくのは、自分の世界を広げ深めていくためでもあります。そうやって自分というものを深く知り、自分というものを形成していくと、如何に私たちのいのちが深いところから、そして遠いところから訪れたかということにも気づきます。

子どもたちにも、この世の仕組みや道理、そして生き方を自然物から伝承していきたいと思います。

水の本質

昨日から鏡師の方が来て色々とお話をお伺いしています。どの話も新鮮で目から鱗のことばかりです。そもそもの存在が何のハタラキの支えがあって生きているのか。そして水がどのように結合し変化してこの世を循環するのか。水を知り尽くしておられる方のお話をお聴きし、私が好きな炭の話に通じる物ばかりで得心がありました。

もともと磨くという行為は、掃除を通して学びます。掃除をしているのは自分ですが、その掃除する対象や関係において磨かれているのが自分という体験をします。どの深さで掃除をするのか、どの高みを志して磨き合うのかでその行為の持つ密度も内容も変化してきます。

不思議ですが、自分の心のありよう、そして実践の純粋さや想いの透明さによってその結果が変わってくるというのがこの世の真実かもしれません。目に見えない世界と目に見える世界は常に表裏一体でこの世とあの世を融和しています。

その融和した世界において現代の私たちは常にその表面上のことでしか理解しないという仕組みになっています。しかし必ずそこには、裏でまた蔭で働く存在がありその隠れた存在のハタラキこそが表を創っているのです。また言い換えるのなら、表のハタラキで裏を支えることもできるのです。

これは私の目指している徳積み循環の道徳経済の話と一致しています。そもそも徳は陰徳といわれます。陰でハタライテくださっているから徳は陰徳です。そして表面に出てきているのは恩ともいいます。恩に報いることで徳を積むこともできます。

私たちの先祖は、常に知識や目に見えるだけで判断せずにそれが長い時間をかけてどのように循環していくのかを観ていました。つまりいのちの流れ、そのものが循環していく時にどのように全体を支えていくのかという徳の好循環を邪魔していないかを確認していたように思います。

例えば、自然循環でいえばダムをつくり堤防を用意し川をセメントで固め、汚水などを洗剤で洗えばどうなるか。生き物たちは水の恩恵を享受されることなく海に流れます。すると海が循環しない死んだ水を処理しなければならず、あっという間に海が弱っていきます。海が弱れば雲も弱り、水全体がいのちを失っていくのです。

水の浄化力というものの、増幅させ元氣にしていく循環と病気にさせ弱体化させていく循環があります。水があらゆるものを許容して受容し、それを全体がよくなるように繋ぐ役割です。水がどのような性質を持っているのかを知り、水をどのように活かすのかを考えたのが本来の治水ということでしょう。

ただの水害対策ではなく、お水を尊重し尊敬してその陰のハタラキに感謝していたからこそ人は謙虚でいられたのかもしれません。まさに今の時代、絶滅という言葉がよく飛び交います。なぜ絶滅したのか、それを掘り下げれば必ず水の問題にいきつくように私は思います。

子どもたちのためにも水を学び直し、自ら変えていきたいと思います。