自然教育の本質

ここ数日、自然災害のことについてもう一度深く見つめています。この美しい自然が突然の猛威によって荒れ狂い人間の生活を破壊することがある。これは歴史の事実でもあります。

地球は何度も凍ったり、津波で陸が失われたり、隕石で燃え氷河期がきたりを繰り返しました。私たちはその自然災害の合間に、ひと時の安定した状態で生活を営みます。生き物たちは恐竜にみるかのように何度も絶滅の危機に遭遇し、その都度、地下に住み、あるいは氷山の中に隠れ、冬眠し、時折、大変過酷な環境下でも生き延びてまた甦ってきたともいえます。

どうしようもないほどの災害、まさに自然の猛威に人間はなすすべもありません。いくら月に逃げても、火星に住居をつくっても、生き延びる過酷さからいえば似たようなものです。如何に、今の環境が恵まれていることに感謝して大切に生きていくか。そういう危機を忘れずに今を見つめることで人間が暮らしをどうしていけばいいのかという原点にも回帰することができます。

また現代の災害の教育は、自然の猛威をあまり意識せず身近な数日間を乗り越えるものしかありません。その間に、物資が届き、経済力や科学力で乗り越えられるという算段です。しかし、もしもですが日本の半分が沈没するような大津波がきたり、日本の国土のほとんどが壊れるほどの地震が来たり、あるいは火山があちこちで噴火したりすればどうするでしょうか。

そうなったときにはきっと一巻の終わりで諦めるというのでしょう。しかし実際に生きている私たちは、家族を守り子どもを助けるために最後まで諦めずに藻掻くはずです。史上最悪の事態に備える、そういうところから本来は日々の防災は産まれるはずです。現在の防災は、あるいみ人間の知識や科学に頼るものであり自然の知恵を活かすものではありません。

むかしの人たちは人間の知識や対処療法では自然に太刀打ちできないことを自覚していました。その証拠に、自然に勝ったような知恵はなく自然の偉大さに対してそれを尊重して対応するという意識を持っていました。沈み橋や、建築の抜き工法、他にも発酵技術なども同じです。自然を征服する人間の科学に頼らずに、そのまま自然の知恵を活用したのです。

生き乗るために必要なのは、人間の知識や科学ではありません。知恵です。この知恵をどれだけ重んじているかで、この先訪れずであろう人災の巨大さを思い知ります。

人間は目先の欲望のために危機を見失います。本当の危機を感じる力を捨てて、危機を過小評価して無視します。その無視したものがある時、自然の猛威によって目が覚めます。何をしていたのかと。しかし、現実は目先のお金の方が重要で人間社会での生き残りの方がいつやってくるかもわからない自然のことは後でいいと片づけます。戦争も似たようなもので、地球規模の災害が来たら誰も戦争している場合ではなくなります。

そうやって自然は畏敬をもって謙虚に生きるように生き物たちを導いてきました。人災が拡大していくと、非常に恐ろしい人災に巻き込まれます。日本人は長い時間をかけて自然災害の多いこの日本で自然に教育されてきました。まさに自然教育こそが日本人を育成して見守ってきたともいえます。

私たちの遺伝子には、自然に「徳」という意識が具わっています。これは災害によって得た教訓を反省し、思いやり助け合うことで災害を最小化させる知恵を持っているということでもあります。

本来の自然教育は、別に山に入ることでも川に遊ぶことでもありません。「自然への畏敬を忘れない」ことです。

子どもたちには自然の教育を通して、自然の猛威に対してどう生き抜いていけばいいか、今の時代、極端だと笑われてオオカミ少年かと非難されることもあるかもしれませんが生き延びる戦略、本質的ないのちの守り方について伝承していきたいと思います。