初心伝承の道

久しぶりに京都の鞍馬山に来ています。お山に登りましたが空気が澄み切っており、美しい夕日に心地よい風が吹いていました。時折、鹿の鳴き声が聴こえ落ち葉が躍っていました。

私にとってはとても懐かしいお山で心の故郷でもあります。

人生というものは、誰と出会い、どのような時間を共に過ごしていくかで心の故郷が形成されていきます。これは旅に似ています。旅は、いつまでも続きます。何回も何回も同じように廻りますが、同じものはありません。人も出会いも、経験も感覚もすべて甦り新たになります。初心は変わりませんが、環境は変わります。その都度、今を確認しながらある時は、休み休み、ある時は走り、またある時は眠ります。

出会い別れもまた旅そのものです。そのまま旅は続きます。旅は生死を度外視しているものであり、ご縁そのものとして存在し続けています。人間をはじめいのちははじめから旅そのものの存在です。物理的に終焉であるように思えても、旅は永遠に終わることはありません。

それが旅の本質であり、旅の意味です。

私は旅において大きな勘違いをしていました。あまりにも大好きであったり偉大で尊敬していたり、素晴らしい仲間や同志があったりするとその人たちとの出会いは躍動し、また別れは悲しみに暮れ節目は消えていくように感じていました。しかし実際には、その道を託された存在であるという自覚はあまり強く思っていませんでした。

代わりに歩いていく友が続きを歩んでいくことや、自分が新しい役割を担い、いただいたご縁を結び、その徳や恩恵をつないでいくこと。旅というものは、そうやって道を紡いでいきます。

道統は、旅によって顕現します。

はじまるずっと前から存在している道、それは旅そのものです。道中は初心を伝承する経糸の甦生です。

自分の役目、役割は何だろうかと丹誠を籠めた一日を生き切ること。

新たなスタートをきる一日になることに心から感謝しています。

自然体の道

昨日は、久しぶりに奈良県桜井市にある自然農の川口先生と畑へのご挨拶にお伺いしました。畑には、いつも通りに元氣なお米たちや大豆、それに蓮根や綿など多種多様に美しく共生していました。

私はこの川口自然農の畑が大好きで、いつも理想にしています。どのように自然と向き合って独り立ちしていくのか。自然の生き方とは何か、畑から声なき声が聴こえてきます。

思い返せば、実際に農業をしたかったから自然農を学んだのではなく自然の生き方とは何かということを深く学んだように思います。自然体の中に謙虚があるということを自覚するのも10年以上かかりました。今もまだ、何が自然であるのかということは深め続けていますが終わりもなく、はじまりもない、存在そのものとの向き合いは日々の道を歩んでいく中に存在します。

想念実現という言葉があります。人間の人生は思い通りに生きているという言葉です。想った通りが人生になっていきます。しかし、本来の自然体が分からず、本当の自分が分からず、真に自立しなければ自分の道に気づかないのもまた人間です。

生きていく上で、純粋な思いがありその道に向かって歩んでいくなかで色々な出会いがあります。しかしその中でも自分の道かどうかは自分が本当は一番よくわかっているのです。

欲望や他人との比較、そして流行や環境に影響を受けますが実際には想いはほとんど影響なく純粋なままに自分の中に存在しています。その存在を尊重し、信じて歩んでいくなかで人は同志に出会い、共に道を歩んでいく喜びに触れ懐かしい時間を過ごすことができます。

自然体の道、これは私が人生の最大の課題にしているものです。いつの日か、同じように巡り歳月を経て、同じような境地に達する日がくるのでしょうか。最期まで自分の道を自立して歩んでいく先生に心を励まされてばかりです。

これからも子どもたちのために、自然体の道を謙虚に丹誠を籠めて歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

徳の共生圏

昨日は、宗像国際環境会議で「自然とのかかわり」のセッションではは、「おりあいをつける」こと。また「資本主義と環境問題」のところは、「真の豊かさをもつ」ことを話してきました。

そもそも自然というのは、単に山や川、里や海だけのことを自然というのではありません。もともと私たちが誕生するずっと以前から存在していたものという自然があります。つまり平面にみる横軸と、つながっているという縦軸、その横糸と経糸といったものが織りなすことによって自然ははじめて自然となります。経糸の自然には、ご先祖様というような先人から今につながるものがあります。そういうのを丸ごとご先祖様ともいい、そのご先祖様を大切にすることで自然を守るということにもなるのです。

私は折り合いというのは、織りなす方の「織り合い」であると思っています。自然とどう織り合うかはご先祖様を尊重しながら今の自分たちがどう生きるかということをみんなで考えるとき、はじめて自然とのかかわりが正常に回帰すると思っているのです。

もう一つの真の豊かさですが、今の資本主義も元をただせば豊かになりたいという人間の本能から来ています。環境問題は、それがあまり豊かではない状態になっていrことが問題だともいえます。決して資本主義を否定せず、環境の問題にせず、古代、本来の人類は今までどのような真の豊かさを手にしていたのかをもう一度、そこを深めて近づいていこうと言っているのです。

例えば、便利さ合理性、お金でなんでも買えることは真の豊かなことかというとそうではないことはすぐにわかります。豊かではありますが、それは思いやりや慈愛が心に深くしみわたるようなものはもっと自然との深い関わりのなかで得られます。むかしの暮らしをみてみると、自然とのリズムと一体になった年中行事であったり、日々の深い健康やいのちへの感動であったりの中に豊かさがあります。資本主義では生産や消費が中心になりますがもともとあるものを分けていただけることへの喜びや全体が幸福になるなかで得られる仕合せは代えがたいほどの豊かさがあるのです。

どちらかがいい、わるいなどという善悪で裁くのではなくもっと真の豊かさに気づいていこうとするのがいいと私はおもっているのです。今を肯定し、新旧の世代が協力し合って真の豊かな地球になっていけるように取り組んでいくこと。

まさに今、私たち一人一人の意識や暮らしの改善が時代をつくり未来へとバトンを渡していくのです。どんなに大企業であっても、大きな国家、人口があっても、大事なのはそこにいる一人一人の意識や行動でしか世の中は変わりません。

まずが自分から実践でその境地へと近づく挑戦と精進をしていきたいと思います。

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

道中学

今の私のことを振り返ってみると、過去に出会った人の影響を受けて形成されていることがわかります。素晴らしい生き方をしていた憧れの方々、あるいは反面教師にした方々、自分がどう生きたいかということを思いここまで来ました。

思い返せば、生き方というものが人生を決めるもっとも大切なものであることに気づきます。そのわりにあまり語られることがないのもこの生き方というものです。そして生き方が決まれば、次はあり方が決まり、そして働き方なども決まります。最後は死に方というものも決まるのです。

私たちは産まれてきて死ぬまで日々にどう生きるかということを問われ続けています。未来のことを憂うばかり、過去のことを後悔するばかりでは今に集中することはできません。今とは、日々のどう生きるかの答えです。その答えを日々に生きていくのだから、一生懸命である以外はありません。

一生懸命とは何かということを考えていると、全身全霊という言葉が浮かびます。全神経、五感総動員して全集中するという具合です。直観も働かせ、イキイキと青春の今に存在するのです。

サミュエルウルマンの誌にあるように、心の若さを持ち続けて学び続けて已まない人生が一つの一生懸命というものでしょう。どうしても日々の目先のことに流されていると、次第に流されて大切な初志や理念、初心を忘れてしまうものです。

そうならないようにと振り返りをして、また今日を再スタートする。いつも新鮮で創造する一日であるのなら、人生は常に青春そのものということでしょう。

私の尊敬してきた人たちはみんなそんな日々を生きてきました。どんな日々も自分の志を磨き高め、そして夢に前進していると学び続けておられました。亡くなるその時まで、感謝と青春の学びの日々です。

憧れた人たちのように今を生きる。

先人も同じような日々を送ってきたと思うと、今も一緒に心の中で歩んでくださっていることを思います。道中の出会いやご縁をいつまでも大切にしていきたいと思います。道を歩む日々に心から感謝しています。

古代の心

先日、ある方からハワイのアロハの意味を聴く機会がありました。少し調べてみると、これは単に挨拶の言葉ではなく古代ポリネシアの深い思想が込められているものであることが様々に紹介されています。

確かに一つの言葉に一つの意味であるものはほとんどありません。私たちの心は複雑で深く、ありとあらゆるものはその言葉だけではなく五感で理解し合えます。

思いやりや真心というものもまた、深い思想が入ったものです。私たちは言葉を便利に道具として使うようになってからあまり言葉そのものを大切にすることがなくなってきました。古代のポリネシア人たちは、言葉そのものをとても大切に使ってきたことがここからもわかります。正直であること、素直であることは、言葉を大切にしていくことです。これは生き方のことであろうと思います。

日本にも、有難うなどの言葉があります。

これは奇跡のようなこと、滅多にはない貴重なこと、それだけあり得ないほどの偶然をいただいたという意味にもなります。当たり前ではないよという心のことです。

私たちは本当に偉大な御恩をいただいているなかで、それをどれだけ当たり前ではないかということに気づけるかということを思います。別の言い方では、足るを知る心であり、感謝を磨いていく生き方です。

仏教の影響を受け、その他にもご縁も同じようにあり得ないほどの結びということです。それもまた感謝の心です。私たちが手を合わせて合掌をするのも、ご縁や有難いものへの心を示しています。

挨拶というものもまた、本来はその生き方の交流であり日々にどうありたいかというお互いの心の姿勢を顕しているものです。そうやって魂を通わせることで、同じ生き方をしていこうとする同志、仲間であるということもわかります。

生き方を同じくするものたちが自分への自戒を持ち、お互いに接していく。見返りを求めずに徳を積み、磨き合う関係としてのつながりや結びつき。永遠の平和を保ち、感謝のなかで仕合せであることを優先する古代の心が観えてきます。

今は第三次世界大戦の真っただ中に入っています。だからこそ原点回帰して、古代の心から学び直していきたいと思います。

子どもたちに希望を譲り、未来を古代の歴史の徳が伝承されるように学び続けていきたいと思います。

掃除の功徳

昨日は、英彦山の守静坊の庭池の掃除を仲間たちと一緒に行いました。いつも思うのですが、みんなで一生懸命に協力して取り組んでいると知恵もでて作業もはかどります。

作業のあと、みんなで食べるご飯が美味しくいつも清々しい気持ちになります。今回は、畑で収穫したさつまいもを私が炭焼き芋にしてエバレットさんはお手製のお味噌汁を振る舞ってくれました。

秋晴れで紅葉づいた青い空の下でみんなで囲み団欒をする喜びは格別でした。

釈迦に掃除の功徳というものがあるといいます。

1. 自身清浄(自分の心が清められる)
2. 他心清浄(他人の心まで清めることが出来る)
3. 諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)
4. 端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)
5. 命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)

というものです。まさにこれは徳の循環であり、功徳の本質が記されます。

どのようなものを磨いているのか、何のためにやっているのか、そしてこれがどんな意味があるのか、それは磨いている人が気づくものです。自らの人生の一つの道を歩む心得としての魂を磨いていくという実践。

いつの時代も同じように生きた人たちがまさにここに挑み、人格を高め、世の中の大切な役割を担ってきました。誰もがやることではなく、誰もやらないこと、誰も気づかないからこそ人知れず磨くのです。

仕合せというものは、足元の宝に気づくかどうかです。その宝は、足元を磨くかどうかともいえます。掃除の有難さは、足元に気づく機会を与えてくれることです。遠くばかりをみて、周囲ばかりをみて、自分のことばかりを気にしていたら足元の宝に気づけません。

池の掃除をしながら、長い時間をかけてきたあらゆる歴史が綺麗に流されていくのを感じました。またもう使えなくなって役目を終えた道具たちが燃えていくのを見て、そこに一つの歴史が終焉し新たなものが誕生したことも憶えました。

掃除はあらゆることを甦生するための大切な実践徳目です。

これからも暮らしフルネスやお手入れを通して、子孫へ徳を顕現させていきたいと思います。

英彦山への道

昨日から英彦山の宿坊、守静坊に泊まり込みお庭のお手入れをしています。昨年の今頃に、ちょうど工事をスタートして振り返れば一年になります。建物の方はある程度、落ち着いてきましたがお庭の方はほとんど片づけができていませんでした。

気が付けば、この山での暮らしというものも少しずつ観えてきています。綺麗な空気と風、山の鳥が鳴き、せせらぎの音が聴こえ、清らかな夕陽、静かな星空があります。

山は自然のリズムを生きていて人間のスケジュールのこと、喧騒を忘れさせてくれます。

思い返せば、この一年間、どれだけ英彦山と自宅を往復したのだろうかと。途中、英彦山の三山の風景が訪れるたびに心に染み入る憧憬がありました。縁あって、私は英彦山にずっと見守られてきた人生でした。

幼い頃、名前をつけていただいたのも英彦山の霊泉寺。祖父が何度も何度も英彦山に連れてきて遊んでくれました。両親とも正月には参拝し、大人になってからもできる限り時間があるときに子どもたちを連れて英彦山に来ていました。京都の鞍馬寺とのご縁から九州の天狗とのご縁も深まり、毎月のように英彦山と京都の往復する十数年も送りました。そして今では宿坊のお手入れに毎週のように来ています。

こうやって英彦山に関われることが何よりも有難く、仕合せを感じます。

今では法螺貝もはじめ、薬草をはじめ滝行など修験道も学び始め山の文化を学び始めています。

いつからこうなっていたのか、こうなるとわかっていたのか。

守られているというのは、身近な存在に何度も気づき直すことかもしれません。当たり前ではない当たり前に気づく時、人は自分の人生で関係の深いご縁の存在を自覚します。

そして守られている存在に感謝できるとき、その徳に報いたい、ご恩返ししたいという真心に気づきます。感謝はつながりの中にあり、いつまでも人伝えに循環していくのです。

なぜ英彦山にとはもう思いません。英彦山に大切に守られてきたからその恩返しになると思うから今の私の行動があります。この先も、こうやって愛し愛された英彦山と共に歩めることに真の喜びを感じます。

いつまでもこの静けさを保つ荘厳で慈愛に満ちた英彦山と一緒に喜びを分かち合っていきたいと思います。

やまとの徳

大和魂と大和心というものがあります。他にも大和のイメージとして大和なでしこというものもあります。もともとこの「大和」という字は、元明天皇のときに倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるようになったといいます。

この「やまと」は、地名であったという説があります。世界には、その地名がそのまま国の名前になったというのは数多くあるものです。山の在る処、山の門などもやまとと呼びます。邪馬台国というのも中国語の当て字です。やまとこくとしたのが当て字になります。日本は、もともとやまとが倭になりそれが和となりクニが纏まり大和となったということでしょう。

ではこの「やまと」にあった原初の心や魂とは何かということです。

和歌を調べていくと、日本人の心を詠んだ言霊から古来のやまとの心を洞察していくこともできます。平安時代には和魂漢才といって、中国から漢字が入ってきました。外国文化が入ってくる中で、もともと「やまと」は何かということもはっきりしてきたのでしょう。そして明治に入り、和魂洋才となりました。しかし和魂というものが戦争に使われ洋魂に対して和魂になっていきました。

本来の和魂とは何かということ、自分たちのルーツを知ることはとても大切でそれが根と繋がり養分をいただき杜となります。

私なりにやまと魂ややまと心を直観してみました。

私がやまとと感じるものは、童心です。子ども心のことです。赤ちゃんの赤心のことです。やまとなでしこというものもまた、自然の中で可憐にかわいい存在、なでしこの花というのはイメージも合います。

そして純粋で素直、子どものような無邪気で自然に親しい愛くるし存在です。そういう心を持っている、その魂を受け継いでいるというのが私は「やまと」だと思っています。

人間が成熟していくというのは、知識を学び規律正しく理性を帯びた文明人になるというイメージがあります。しかし本来の成熟とは、赤ちゃんのままで大人になることをいうと私は思っています。つまり赤心や童心を忘れずに、素直なままで謙虚に生きていく大人になるということです。

やまとは、私たちの心の故郷でもあります。

私なりに、やまとの徳を磨いてその真心を顕現させ子孫へと伝承していきたいと思います。