流行り廃り

世の中には、流行り廃りがあります。人は感情がありますから目新しいことに興味を持ち、周囲がそれに取り組むのに乗り遅れないように流行りを追いかけていきます。そしてある程度、流行ったらそれが飽きられて廃ります。もっと良いものがあると、また目新しいものが出てそれが流行ります。

普遍的かどうかではなく、流行り廃り的であるということです。

人間の本質とは何かということを考えると、普遍的なことがわかります。誰しもが幸福になりたいと思うし、健康であることも、心の平安も等しく必要なものです。しかし普遍的であることよりも、何よりも消費することや欲望を満たすことに意識が向けられると普遍的であることよりも流行り廃り的であることが優先されていくものです。

だからブームの去った後に残ったものを見つめると、ゴミが散乱したかのような廃墟が残ります。人間の浅ましさや短期的に奪い合った場所のように乱れ汚いものがあります。

現在、テクノロジーも似たようなことが起こっていないでしょうか。

核兵器にしても持った方がいいと世界には14000発以上の核ミサイルがあるといいます。また新たな核よりも良いという兵器が出たら、流行になって今までの核が廃れるのでしょう。しかし、その廃れた核はいったいどうするのか。責任も持たないままにわれ先にと流行を追いかけた先に人類の未来はありません。

かつて、先人たちはその責任において正しくテクノロジーと向き合ってきました。短期的な目線で短絡的な流行には目もくれず、普遍的であること、時代が変わっても価値が変わらない大切なものを優先してきました。

その御蔭さまで、今の私も時代が変わっても大切なことを伝承され徳に恵まれ生きていくことができます。

そもそもブロックチェーンのテクノロジーも、流行り廃りが出ているのがわかります。web3なども同様です。そのうち、we4,web5,web10など出てきてはその前のテクノロジーは廃れます。それが流行りであれば、さきほどのような廃れはやってきます。

先日、ある方と技術史について話をしてきました。私の住む筑豊というエリアは古代から銅や鉄の技術が誕生し発展してきた場所です。現在も、工業が盛んなのは先人の伝統が今も普遍的に受け継がれているからです。

私たちが取り組んでいるのは、流行りではないのですが世間ではどうしても流行りとして取り上げられます。流行りが悪いといっているのではなく、流行りだけではなく普遍的であることに関心があまりないと思うことです。その証拠に、文章や動画だけで分かった気になり確かめに来ることもありません。流行りそうなことには興味があっても、廃れることには興味がありません。廃れることを先に考えて、何をすべきかをよく見定めてから流行をコントロールすることもまた政治の役割だと私は思います。

本質から改善することや根源的に治癒していくためには、人間そのものと向き合う必要があります。そんなことはお坊さんやお医者さんがすればいいと思うのかもしれませんが、本来は一人一人に責任があるように思います。それは世界はつながっているからです。

流行は感情を伴いますが、日々に修養し、心を落ち着けて本来のあるべき姿を追い求めていきたいと思います。