知恵の甦生

歴史というものを語る時、そこには知識と知恵があることが分かります。例えば、何かの事実を突き止めて歴史の事実を科学的に調査し証明するとします。そうすることで知識は増えて整理され、歴史を学ぶということの知識の豊かさがあります。もう一つは、歴史の中で伝承されている生きた人たちの間で用いられている知恵というものです。古代から今までその知恵を伝承することで人々は仕合せを得ることができました。今の私たちに繋がっているものは知識の歴史ではなく、知恵の歴史であることは間違いないことです。

現代は、歴史は知識としての認識がほとんどで知恵とはなっていません。なぜなら教科書で教える歴史の中では伝承されにくいからです。ほとんどの人が、頭で分かるものだと認識して実際に自分で伝承していこうとはしないからです。本来の歴史を学ぶというのは、自分で伝承してみてはじめてその価値を感じるものです。その結果として、どうやって人類は今までその仕合せを文化にまで昇華させてきたのかがわかります。

世界には様々な文化があります。その文化は歴史が築いてきたものです。この文化を机上で学べば年号や地理、出来事などは暗記できますが文化を習得したわけではありません。実際の文化の習得は、知恵の伝承ですから真摯に歴史を実践していく必要があります。

歴史の実践というものは、知恵を学び先人と同じように知恵を用い幸福になることです。つまり私たちの先祖たちはどのように幸福な暮らしを実現してきたか。それを学ぶのが歴史の実践です。

例えば、伝統的な暮らしの中には知恵が溢れています。私は室礼や年中行事を実践していますが、ここにはまさに知恵の宝庫です。どのように日本人が代々、家庭教育をしてきたか。また連綿と続くいのちのバトンをつないできたか。あるいは、その土地を豊かにして永続できる環境や場をととのえてきたか。それが日々の暮らしの実践の中に溢れています。

特に私は炭を使いますが、この炭の暮らしを実践するだけでもあらゆる知恵が入ってきます。こうやって知恵を生活の中で活かしている人は、仕合せであり真の豊かさを知ります。つまり徳を積むのです。

徳を積むというのは、人類が幸福になる唯一の道です。

だからこそ、本来の歴史を学び直す必要を私は感じています。世の中が終末期、人類は過酷な時代に入っていけばいくほどに歴史の必要性を感じます。全人類が平和でなければ、平和はない。身の回りの小さな知恵の実践でみんなで力を合わせなければ、不幸や不満は増大する一方だからです。

子どもたちのためにも、知恵を甦生し未来へバトンをつないでいきたいと思います。

日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

流域を見つめ直す

昨日、友人が流域を改善する必要性について話をする機会がありました。この流域とは何か、世界大百科事典大2典によれば「地上に降った雨や雪は,一部は蒸発や蒸散により大気中に戻されるが,残りは地表面や土壌中を流下し,場合によっては地下水を涵養した後に,河川水となって海に排水される。ある河川の河口に着目したときに,その河口から排水される河川水のもとになっている降水のもたらされる範囲を流域という。流域は河口についてだけ定義されるものではなく,河川のある1地点(たとえば,合流点,ダムの建設地点,架橋地点)をとった場合には,その地点に流下してくる降水のもたらされる範囲が,その地点からみた流域となる。」と記されます。

つまり河口から河川で海まで流れ辿り着くまでの範囲のことを指しています。この流域を再思考し観察することで自然災害と自然との共生を考えようとするということの話でした。

そもそも人類というか、すべてのいのちは水よりはじまり水に終わります。私たちは水を循環していのちを分け合い、いのちは水と共に移動してすべての生命を潤し身体も支えます。小さな微生物から昆虫、動物、植物、すべての生きとし生けるもの、無生物と人間が思っているものに至るまで水がなければ活動することはできません。水がすべての活動の根源です。人間であれば、すべての細胞は水を必要とします。その細胞一つ一つは生命があり、その生命を支えるものも水です。そう考えてみると、この流域で考えるというのは真に理に叶ったものであることはわかります。

そこから考えてみると、今の人間社会はどうなっているのか。

水などすべて無視して経済活動だけを優先しています。古代から大切にしていた水は、当たり前に水道を開けばどの家にも流れこみますしその水がどのように海に流れているかなどは考えることはありません。

以前、高島市にある里山の針江生水の郷を見学したことがあります。水路を中心にあらゆる生き物たちがその生活を循環できるように配慮されていて人間の食べ物のカスなどは魚が食べ、その魚もまた食べと小さな循環で生活を営んでいました。私も家で烏骨鶏を飼っており、野菜くずや虫たち、玄米を食べて一緒に暮らしをすると卵をいただきそれがまたお互いの共生を助けます。卵を産まなくても、一緒に暮らしていますから朝の鳴き声で眼を覚まし、日々の緩やかに安心して過ごしている姿に心も満たされます。

この小さな循環というのは、私たちが日々に実践できるものです。それを私は暮らしフルネスの中でも提案しています。人類は人口が増えて、今、宇宙にいこうとか、削減しようとか、バーチャルで乗り切ろうなどといっていますが古代の人はこれを聴いてどう思うでしょうか?知恵は使っていない知識の欲望に呑まれた人類を悲しく思うかもしれません。

本来は、人類の知恵は今でも私たちは先祖たちの御蔭で使うことができます。その知恵を使うことで、私たちは永続する未来を約束されていました。今、水の問題が地球から人類の進む方向へ警告がはじまっています。地球の声をどう聴くかは、知恵のある人たち次第です。

子どもたちの未来のためにも、今、できることから取り組んでいきたいと思います。

 

当たり前のこと

裏方というものはあまり表に出る事はありません。しかし場をととのえ、全体を支える大切な役割を持っています。表で活躍している人の背景には、裏方で支えてくれている人があってのものです。これは家というものも同じです。当たり前に私たちは家に住んでいますが、家があるというのは本当に有難いことです。

家というものを考えてみると、自分を支えて守ってくれるすべてがととのっています。雨風や寒さ暑さ、虫や動物、他にも精神的なものまで守ります。居場所があり、守ってくれて支えてくれています。自分の身体を安全安心に保ってくれるのも家があってのことです。そういう家の存在に感謝しているかといえば、気が付くと当たり前になってしまいお手入れやお掃除もしなくなっているものです。

年末は、改めて色々な今までの御礼を思い出し感謝を忘れずに丁寧にお手入れしていくことで労をねぎらう時間はとても豊かなものです。

私たちの会社は、よく有難うと言い合う文化があります。ちょっとしたことでも有難うといいます。これはお互いに当たり前ではないことに感謝し合う姿でいようと取り組んできたからかもしれません。

最近は、離れていることが多くオンラインになっているのですが家と同じく家族のように支え合っていますから同様に有難うの言葉が交わされます。家にいて、有難いなとどれだけ思えているか。家族にどれだけ有難いと感じているか。心の豊かさというのは、当たり前のことを深く味わえる生き方のことをいうようにも思います。

心が豊かな人は、心がわかります。

忙しい人は、心のことがわかりません。それがもっとも貧しいことではないかと最近は感じます。忙しいことを平気で自慢する人のなかには、心の疲れを隠して誤魔化し、楽観的であろうとしているような人もいます。本来の豊かさは、穏やか、そして静かさの中にあります。

心静かに一人で内省する時間は、格別な豊かさです。

子どもたちにもそういうお手本になれるよう実践を楽しみ味わっていきたいと思います。

野生の感覚~いのちの間~

私たちは本来、古代から野生というものを持って誕生してきました。地球と共生する地球の一部としての本能というか、いのちが繋がっている存在でもあります。その野生は、大人になっていくにつれ減退し人工的なものになって都会化していきます。

そのうちにもともと使っていた能力や機能にも蓋をして野生であったことを忘れていきました。そうすると、本来のいのちの感覚や、身体の感覚、精神の状態なども含め、何が本当のニュートラルであるのかも忘れてしまいます。

目で見て知識が増えて、限りなく増幅させていくような幸福に魅せられては足し算や掛け算ばかりでモノを増やして消費してきます。しかし実際には、真の豊かさはその逆で足るを知り、削り取っていく余計なものを減らしていくような引き算のなかにあったりするものです。

野生に戻るには、足し算ではなく引き算のように自分がもっているものを減らしていく必要も感じます。

食べることであれば、たくさんを贅沢に食べるのではなく一つのものを丁寧に味わい、時間をかけてじっくりをいのちをいただく。品数も量も少なくても、その一つから生まれる有難さや喜び、味わいを感じ尽くすことで全身心が野生の感覚になり仕合せになります。まさに足るを知り喜びが満ちるのです。

私も暮らしフルネスのなかで、大切なご縁のものをいつまでもお手入れして味わったり、炭のぬくもりを最後まで味わったり、お水のもつ有難さを感じきったりして喜びが満ちることが何度もあります。

人工的に信じ込んだ増やす事ばかり、やることばかり、スケジュールに追われてお金儲けばかりしている知性のコントロールをしていかないと真に豊かさを感じることもできなくなっていくように私は思います。

必要な分だけということに人類が目覚めれば、人類は永続することができます。地球はその必要な分は用意しているから今までも暮らしてこれたのです。しかし必要以上に、誰かが集めようとしたり、必要ではないものまで獲ろうとすればそのツケは因果応報に自分に返ってきてしまいます。

一人一人がどのように目覚めていくのか、それが試される時代です。

子どもたちのためにも、先人の知恵を頼りながら新たな道を拓いていきたいと思います。

いのちの充実

食べ物には「いのち」というものがあります。いのちは充実することで溌溂とするものです。いのちが元氣な人は、いつもこのいのちが充実するような暮らしを行っています。いのちは、あらゆるものを体験し、さらに輝きを増していきます。そのためには、そのいのちの元氣を支えるための食は必要です。

例えば、いのちが元氣なものというのは自然に育成されたものです。その生のすべてを全うして存在しているものです。生を全うしたいのちであれば、そのいのちは充実し溌溂としますから元氣です。

この元氣溌溂としたものをいただくことで自分自身も元氣が甦生していきます。

今はこのいのちが充実する時間を食べ物に与えません。早く、効率よく、さらには便利に表面上の味わいだけを味付けしたものを食べさせています。元氣のないものを食べるから、さらに元氣はなくなっていきます。

植物でいえば、土が元氣なものはいのちが充実します。植物は土が化けたものであり、私たちは土を食べて元氣をいただているともいえます。海であれば、海が元氣なもの、山であれば山が元氣なものがいのちが充実するのです。

いのちの充実というものは、人間であれば何か。

人間であれば、自分の初心や目的に真摯にいのちを輝かせて生き切っている人たちが充実して元氣溌溂としています。その逆に、日々に流され初心や目的を見失ってしまうといのちは輝きません。人間は主人公として、独立自尊し自立するときに元氣が甦生します。

子どもも同様に、発達を見守りその自由に生きる喜びに生きるときにいのちは充実します。

生き方というのは、その人のあらゆるものに出てきます。どのような生き方を志すかはその人人の自由ですが、その生き方を通していのちを分け合い、尊重し合い、いのちを繋いでいくのです。

子どもたちのためにもいのちの充実する暮らしを紡いでいきたいと思います。

ただ坐ること

先日、「普勧坐禅儀」という書に触れる機会がありました。これは曹洞宗の祖である道元禅師が中国より帰国して最初に書き留めた書物であるといいます。日本の世相の価値観、時代の流れとともにくすんできた真理を甦生すべくその当時に座禅というものの価値を用いて真実の目を開き直させようとした取り組みのように思います。

私もオランダで学び、帰国して一円対話を考案して今に至りますが時代は変われど同じ問題意識であったのではないかと深く共感します。

やり方ではなくあり方、そして本来はどのような仕組みであったのかを探求したのです。つまり教えるのではなく、救うためにどうするべきかを突き詰めたということだと私は思います。

いくら世の中で便利な道具を用いて、あの技法やこの技術などを指導してそれが広がっても救われていなければ意味がありません。今の時代も同様に、これだけの情報が氾濫している世の中でも知っていても救われない、教えているけれど救えないということが往々にして発生していることに気づきます。

そんな世の中に嫌気がさして、どうすれば救い救われるのかと真摯に向き合われていたのが道元禅師ではないかと私は感じました。それがこの座禅の書、普勧坐禅儀の中に詳しく記されていたからです。

あまりにもこの世の嘘に触れていたり偽物ばかりの環境の中にいると、本物であることが分からないだけでなく本物や真実を恐れるようになっていきます。きっと、あらゆる便利なものが増えてきてあれもこれもとやり方が複雑になっていくなかで元が何かもわからなくなっていたのでしょう。元を尋ねて元本を知り、元々に回帰してみるととてもシンプルなものだったということでしょう。

それは例えれば、いのちの源流が水であったり、循環とは遍くすべてを通過することであったり、光も闇も一体であったように、或いは身も心もそもそもは一つであったりと、辿り着けばはじまりを知るという具合です。そこからもっともシンプルな仕組みを取り入れることで時代の価値観に流されず普遍的な生き方を保とうとしたものかもしれません。

あの手この手で悟りを語る宗教者の前に、只坐れというのはその時代はとてもセンセーショナルなものだったように思います。しかし、坐ればわかるとし実際に坐った人たちが感覚が変わる体験をして気づき目覚めていきましたから今でもその道統は燦然と輝き続けているようにも思います。

時代を超えても、坐れば道元禅師の目覚めに気づけるというのはとても有難いことです。場の道場では、目覚めをテーマにしていますからこれらの目覚めの仕組みを色々と探求し、本来の生き方、本質をシンプルに顕現させていきたいと思います。

一期一会の素晴らしい機会になりました、ありがとうございます。

煤払いの暮らし

昨日は、聴福庵と和楽のすす払いを行いました。この煤払いは一般的には12月13日に行います。もともと旧暦12月13日は、婚礼以外は万事に大吉とされる鬼宿日(きしゅくにち)とのことで江戸時代に江戸城で煤払いが広がったからといいます。

もともと神聖な歳神さまをお迎えする神事として厄払いを兼ねて丁寧に準備をして待つという意味でも行われてきました。この後は、正月に向けて門松やお餅つきなども行い新年にむけて清浄な場をととのえていきます。

有難いことに今年は、ご縁のあった曹洞宗の和尚さんに来ていただき家祈祷を行いました。この一年の道具たちや暮らしのあらゆる場に対して御供養していただきました。思い返せば、今年も竈や囲炉裏をはじめ火の神様と共に歩んだ一年でした。当たり前ではなく、この火があることの有難さ、尊さ、そしていつも豊かな人生を助けてくれる暮らしのあらゆるものへと感謝する機会になります。

和尚さんと共に数日間を暮らしていると、朝は日が昇る前に起き座禅をしお参りをします。そして元氣よくご挨拶をしてお掃除をします。一緒に朝食を食べ、一日を合掌と共に過ごします。心豊かに保ち、どんなこともご縁であり学びであるとよく聴きよく観て手を合わせます。夜になれば湯あみをして穢れを払い、またお経を唱えてはお参りをしてお休みします。

丁寧な生き方が暮らしを支えています。

もともと私たちは宇宙の運行や自然の循環とともに丁寧に和合する暮らしを営んできました。その時々の季節のめぐりと身体と心を一致させ感情をととのえて豊かに生きてきました。健康であることの有難さ、静かに過ごすことの仕合せ、太古の昔から足るを知り、幸福を味わって一生を終えていきました。

現代は、人間の都合で経済活動を中心とした時間とお金に管理されて暮らしが消失していきました。季節感もあまりなく、毎日は人間同士の活動で忙しくしています。太古からの暮らしは今では遠いむかしの過去の出来事です。

私は煤払いをはじめてから、懐かしいふるさとを感じる機会が増えたように思います。年末まで色々とあったことを振り返り、一年が豊かで恵まれていたことに感謝するのです。その感謝は、煤を払ったときに美しくその場にととのうものです。

大掃除という言い方ではなく、煤払いという言葉の中にその意味を感じます。積もった雪のような灰も煤も、暮らしの余韻であり仕合せの宝。それを綺麗にふき取って磨いていきまた元の状態を確認していくこと。私たちの日々は、払い、拭いて磨いてお手入れをしていくなかで味わい深いものになり心は安心するものです。

安心できる日々は、生きている深い味わいと実感を得られる日々です。

子どもたちに安心できる豊かな日々を共に創造していきたいと思います。

便利さを手放す

便利さというものは、本来の大切なものを失わせていくものです。便利さがなぜ必要かというのは、それだけ効率を優先したり誰かの都合に合わせていこうとするときに用いられていきます。

現代は、時間を切り売りして消費することや税金の回収に余念がなく便利さはさも素晴らしく必要不可欠なものということになっています。しかしその便利さの背景にあった、不便だけれども大切なもの、不便でなければならなかったものまで失われていきました。

気が付くと、便利さによって得られるもの以上に失われてしまった方が大きくなり取り返しがつかないようになってきています。不便であることを優先する人を、蔑んだり、変人扱いするというのはどうしたものかと感じます。

例えば、不便なものとして代表的なものは「手間暇」というものです。丹精を籠めて時間をかけてじっくりと丁寧に取り組んできたものは今の時代は、それは良いことはわかっているけれどと言いながら誰もやらなくなってきました。その理由は、時間がない、お金がない、人がいないという理由です。そうしているうちにロボットやITが広がり、人も必要なく、お金もかけず時間もかからないものを選択するようになってきました。

経営も経済も効率化してその分、利益は出しましたがその便利な利益によってさらに便利なものを産み出す方へと投資されていきます。すると先ほどの不便なものは悪となり、気が付くと手間暇をかけることが良くないことのような価値観になっていきます。

自然界の循環の仕組みに合わせるというのは、時間も効率も良くないということで人間が無理に循環を促進していきます。そうしているうちに、最初は時間もお金も人も要らないといっていたものが経年劣化しているうちに大量の時間もお金も人も必要になります。人間は、目先の損得に心を奪われ便利さを追求すると本末転倒していきます。

長い時間をかけて、丁寧にじっくりとというのは伝統のことです。そしてそれを正しく伝承することでその知恵は永続的に子孫へと受け継がれていきます。これを途絶えさせるような政策や生き方、そして暮らしが失われていくというのは人類が知恵を捨てていくということに似ています。

そろそろ本気で、便利さを手放す勇気や知恵、そして聖賢たちが目指した徳の世の中へと転換していく時機にきているように私は感じます。子どもたちをみていたら、未来があります。私たちが勇気を出して変わるという意識と行動が必要です。

暮らしフルネスをさらに磨いて伝道していきたいと思います。

真の欲

「大欲は無欲に似たり」という諺があります。故事ことわざ辞典を調べると「これは大きな望みをもつ者は、小さな利益など問題にしないから、一見して欲がないのではないかと思われることをいい、あるいは逆に、欲の深い人間は、欲深が災いして、一銭の利益も得られない結果になることにたとえる。」とあります。

同じ似たものに、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」というものがあります。これは西郷隆盛によく例えられるものです。その西郷は、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。」とし、敬天愛人という言葉を実践します。

天を相手にする人は、次第に大欲となりそして無私の人になっていくのでしょう。人間には我があり、その我によって自利や利己心にのまれます。本来の自分の誇りを忘れ、他人軸の自信にしがみつくと気が付くと大欲が強欲になり執着に陥るものです。

果たして今やっていることは自分がやったことなのか、それとも偉大な存在によって守られてやらせていただいたものか。自分という小我ではなく、自己という大我に気づくことで万物を自然界のように活かすことができるようにも思います。

そういう意味でも、日々の修養は己克の実践の連続なのでしょう。どれだけ自然のように万物を活かそう、みんなを喜ばせようと思って実践しているかが欲も活かすということになるのでしょう。

そう考えてみると、欲というものは単に善悪良否などはありません。これは自然に万物は活かそうとするということを意味します。私たちは本能があり、この身体を活かそうとします。そして心があり先人からの遺志や真心を守ろうとします。これも一つの欲です。豊かになりたい、仕合せになりたいというものも一つの欲。だからこそ、そこから大志を抱いて大欲にし、徳に報いたいというところまで昇華させていく必要を感じます。

最後に、「推倒一世之智勇 開拓萬古之心胸」という言葉があります。これは南宋の儒学者、陳龍川の言葉です。西郷隆盛の座右でもあります。この和訳は、「一世の智勇などは払いのけ、万世の人々の心まで拓くことだ」となります。私の意訳では、この一生のなかで、他人の評価や褒められたりすることなどは押しのけ張り倒せ、それよりも普遍的で永遠なことに人生を貫き、古の聖人たちと同じ志で生きよという意味だと感じています。

つまりは、天を相手にせよ、徳を相手にせよ、聖人たちと同じ道を同じ心で実践せよという励ましの言葉であり惑わされないように、迷わないようにと真心や至誠で見守っている言葉です。

これは本当に励みになる言葉です。

欲をみて悲しくなるのも小さくなるのも情けなくなるものまだまだその境地に達せていないとし、自己を励まし、自己を錬磨し、境地の体得にむけて日々を丁寧に取り組んでいきたいと思います。