伝承を磨く

伝承の力というものがあります。これは代々に守られてきたものによって子孫が守られるというものです。先人が子孫のためと真心を籠めて遺したものを、子孫が先人の真心を大切に守っていこうとする実践のことです。

これは形を遺そうというものもありますが、本来は心を遺していくことのことをいうように思います。先祖たちは、形を守るために子孫が非常につらい思いをしてほしいなどとは思わないはずです。

例えば、子どもには幸福になってほしいと願うものです。時代が変わってもそれは普遍的なものです。ある時代の価値観で幸福だと思っても、それは時代が変われば不幸になることもあります。だからこそどうすることが普遍的な幸福なのかと考え抜いて家訓や理念などを譲り遺していくのです。

特に老舗などは、時代が変わるたびに変化によって価値観に揺さぶられ幸不幸や辛酸をなめてきたからこそ伝承していくことの大切さに気付いたように思います。

祈りや信仰また同様です。

しかし、今の時代は受け継ぐ力を持っている人が減ってきています。歪んだ個人主義を教育され、次第に利己的になり自分の代のことだけで精一杯になっています。自分を守ることに意識がでれば、守られていることに気づかず、守っていこうともできなくなっていきます。

本来は、守られていることに気づいて守っていこうとするからこそ伝承していこうという実践が産まれます。今の自分があるのは先人たちの御蔭であり、その連綿で続いてきた心が今の自分たちに宿しているという感覚があれば伝承を守ることの大切に気づけるように思います。

私は、英彦山の守静坊や聴福庵をはじめ他にも土地や歴史的な遺産や文化、暮らしの知恵などを伝承する機会に恵まれました。これは先祖や先人たちへの感謝、そして守ってくださっていることへの御恩返しで徳積財団を設立し取り組んでいます。

時代が変わっても、変わらないものがある。

だからこそ、その普遍的なものを優先する生き方の中に本来の感謝や謙虚さ、素直さを磨く砥石があるように思います。子どもたちのためにも、子孫のためにも、伝承を磨いていきたいと思います。

時代を歩む

人はみんなそれぞれに道を求めて旅をします。旅のなかで自分の出会いたいもの、自分と同じように実践する人を求めては訪ねていきます。それが短い間でも長い間でも、求めているものを探してはご縁を辿ります。

そうやって心を交わし、魂を混ぜ、共鳴して自分自身の人生の道の一つに組み込んでいくものです。出会いによって人生は変わり、道を歩き旅をすることによってその味わいは深まっていきます。

よく考えてみると、仲間というものや同志というものは同じ道を求めているから旅を伴にします。旅をしながら道を辿り、その時々の出会いや発見によって自分の道を深めていきます。時に助け合い、或いは時には支え合い、切磋琢磨、激励し合いながら目指している目的地に向かってそれぞれの場所で挑戦していきます。

気が付けば、旅のあちこちに仲間がいることに気づいて感動もし元氣も養えます。

むかしから同じように旅をしてきた人たちによって今の私たちの時代があります。いつまでも今も人は旅をしながら道を歩み、みんなで一緒に時代を歩んでいるのです。

大きな意味で、人間は意識の旅をしています。

その意識の旅は、時代の旅です。

この時代に生まれてきたこと、出会ったことに深く感謝して私も旅をより美しく味わい深く歩いていきたいと思います。

 

いのち輝く日々

自分というものを突き詰めて芸術活動を創作している方々は世界中に存在するものです。世間一般的な評価などをお構いもなく、自分の理想や目指すものに真剣に打ち込んでおられます。大変な困難に遭っても、その苦労をバネにさらに新たな境地へと挑戦を続けておられます。

本来、地球に生まれてきた私たちは好きなことを存分に取り組んでいい存在です。いのちあるすべてのものは平等にその生を享受されています。まさに自然に生きて素直にいることはそのいのちが輝くものです。

あの星々のように輝いて生きている人たちは、星のようなきらめきを夜空に与えます。

それぞれにそれぞれの生き方があるようにそれぞれにはそれぞれの輝き方があります。そういう星を見守る存在があることで星はさらにきらめきを発揮していくようにも思います。

夜というのは心の世界に似ています。夜になれば心がよく映ります。そして星空や月が出てきます。もともとは昼間は明々として太陽以外はほとんど見えません。しかし実際には、星はあり月もあります。心はもともと常にあるのですが、眩い光で心の眼が少し眩さで影ってしまうのです。

眼を閉じてみると、静かに心が映ります。

心は常にあると信じることで、心の眼を通して世の中を観察していくことができるのです。真剣に生きて、理想を貫き情熱を持ち青春をする人生を送る人はいつの時も心の眼で世の中をみつめて行動を続けているように思います。

そういう人たちを見つめ、そういう人たちを支えるなかで私たちは暗闇の真の豊かさに気づくのでしょう。愛も平和もまた、その暗闇の中に燦然と輝くものです。

いのちを見つめ、いのち輝かせるような日々を味わっていきたいと思います。

変化の本質

時代の変化というのは人々の意識の変化ともいえます。意識が変わっていくことで価値観も変化し、それまでの常識というものが変わります。同じような日々を歩んでいるようでも、新しい出来事が発生しその中で新たな意識が誕生します。意識というものは目には見えませんが、人々の間でいつも往来していて育っているものです。

10年前に通用したことが、今では全く通じなくなる。自分の強みがかえって負けになっていくということは歴史を見ても往々にしてあることです。それだけ変化というものにどれだけ自分の意識が磨かれているかは重要になります。

本来、普遍的なものや根源的なものは変わることはありません。本質はいつまでも変化はしません。しかしその本質に対しての理解の仕方、やり方などは意識の変化に応じて変え続ける必要があります。その理由は、普遍的なものが次第にくすんでいくからです。まるで塵が積もっていくように、あるいは手入れを怠ることで色あせていくように隠れていくのです。

その隠れているものをどのように磨き直すか。それが掃除であり、お手入れであることは間違いありません。意識というものが増えていくことは、普遍的なものを覆い隠していくのと似ているのです。

そういうものを常に取り払うためには、普遍的な砥石によって磨いて研ぎ澄ませ続ける実践が必要になるのです。私が甦生をするなかで特に大切にしているのはその部分であり、今でも普遍的なものや本質からブレずに丁寧にお手入れを続けているから意識の変化に応じて今を調和していくことを精進しています。

最も危険なことは意識の変化に気づかなくなることです。正解を求めてはあの手この手でやり方ばかりを変えていくことを変化だと勘違いすることです。そうではなく、その時々の味わい方や感じ方、そして正解ではなくすべてのことに一理あるとし一円観で丸ごと受け止めていくことから内省し謙虚で素直であり続けることです。

それはいつも理念や初心に立ち返ること、目的を忘れないで自らと今をさらに善いものにしていこうと努力を怠らず変え続けること。これは中国の古典、殷の湯王の自戒、「苟日新、日日新、又日新」の境地で実践することであろうと思います。

本来、何をやるべきかを他人に委ねてはならないように思います。自らの主人、自らの心に問いかけ、私も日々に新たに聴福人の生き方をする聴福人であることを忘れないでいたいと思います。

1000年の暮らし

私たちが自立という言葉を使う時は、社会の中でということが前提になっています。自然界ではそもそも自立していないものはなく、すべてにいのちを精いっぱい輝かせて活かしあい生きています。これは循環のことを指しています。私たちが自立するには、循環の中にいる必要があるからです。

しかし実際の人間の社会では分断の連続で循環しなくなってきています。そうなると自立ではなく、依存や孤立、特に今の個人主義という思想による利己や自利によって本来の自立とは程遠くなってきています。

自分を大切にの意味も本来の意味とは異なってきています。他にも自己管理の意味も自分を閉鎖し、無理をし我慢することのようにもなっています。

自由の意味も拘束の中の自由となり、鎖に繋がれた範囲での自由を目指して結局は本来の自由を知りません。

自然界の持っている開放感は、何をやっても許されるという安心感です。そこには、自立というルールがあり協力し合うことで喜びを感じ合えるという仕合せに満ちています。

本来の循環は水のようなものです。すべての生き物、いのちを通って海に流れそして雲になりまた雨となって山に降り注ぎます。その途中も経過もすべて水はそのいのちを透過していきます。それを遮断するとどうなるか、ダムなどを見ても明らかです。水が澱めばいのちの循環途切れます。途切れれば、不自然なことが様々に発生します。例えば、その分何かの生物だけが無理を強いられたり元氣をいただくことができず弱っていきます。

つまり真の循環というのは遍くすべてと分け合うときに実現するものなのです。空気も同じく、海も同じく、遍くものに循環をしてはじめて真の豊かな自然は実現するのです。

人間の言う循環は、本来の循環ではありません。特に資本主義の循環などは循環とはもっとも程遠いものです。しかしだとしても人間が長い年月で暮らしてきた歴史は、真の循環の時もあります。これは人間の心の循環も同じです。何度も途切れたり繋いだりしながら3歩進んで2歩下がるような一進一退ですがそれでも人格が磨かれ徳が積まれていけばいつの日か、真の循環に近づいていくと信じてもいます。時代の流行もまた真実ですから、どちらかを否定するのではなく今あるものを使いどう徳を磨くかということが大切だと私も感じています。

子どもたちのお手本になるような生き方、人生の味わい方をバトンとしてさらに善いものにして渡していけるように1000年先を祈り実践していきたいと思います。

生き方と働き方

人生には生き方というものがあります。いろいろな人がいるようにいろいろな生き方があるなかで、それを自分で決めることができます。生き方を換えて人生が変わった人もたくさんお会いしてきました。今の自分をどのように変化させていくのか、それは生き方次第です。

しかし生き方を換えようとして様々な事例に取り組んでもなかなか思うようにはいかないものです。その人の生き方の癖があり、なかなかその癖が抜けないからです。人間は、幼い頃より持っている習慣、それは環境においてや、生まれつきのもの、あとは我などの欲、トラウマなども関係します。そういうものが邪魔をするので、楽な方へ、慣れている方へと引き戻されます。

これを頭で考えて無理にやらせようとするとその反動でますます嫌になってしまいます。何でも無理にやろうとすると壊れますから時間をかけてじっくりとゆっくりと変えていくのが自然です。

ではそれをどのようにしていけばいいのか、そこには意識で味わうというような全身全霊を使った行為が効果があります。例えば、一日の暮らしの過ごし方の中にあります。

朝起きて、夜寝るまでの一日にどれだけ今を味わうような暮らし方をしたかということです。私は暮らしフルネスの実践をしていますが、自分自身も生き方の癖があり周囲や環境、流されることがよくあります。心も疲れ、身体も疲れます。するとそこにまた癖が出ています。そうなると静かに瞑想をしたり、一人で向き合う時間、このブログもですが毎日を内省して自分の心をととのえていきます。

しかし実際には暮らしは日々の食べるという行為、お掃除というお手入れ、祈りという実践、一期一会のご縁を味わうことなど他にも多種多様にあります。そういうものを大切にして、初心を忘れず、何のために取り組むのかを学ぶことで人は次第に生き方を味わうことを楽しむことができてきます。

楽な方に流されるのではなく、楽しむように精進すること。

人生は一度キリですから、如何に大変なことでも正対して味わうかということに尽きるようにも思います。味わい尽くすことは、生きている実感になるものです。生き方は生きている実感、働き方もまた働いている実感を得られるということでしょう。

どの時代にも環境に流されずに大切なことを忘れないように日々を過ごしていきたいと思います。

 

仙人の知恵を学ぶ

この一年は、音を扱う芸術家や波動を学ぶ方、知恵を持っている人たちにたくさん出会いました。倍音の持つ魅力や、波動が持つ不思議な力、また仙人のような暮らしの中で得てきたセンスなどを磨いている人たちです。

そういう人たちが集まると、自然に会話も似たような話になります。その話その物が倍音であり波動であり、知恵になります。

仙人苦楽部をはじめて4ヶ月くらい経ちましたが、とても学びが多く毎回、新たな発見ばかりです。

世の中というものはよくよく深めてみると不思議で神秘的なものしかありません。私たちが生活するために得ている知識というものはほんのその一端に過ぎず、ほぼすべてのことはまだまだ解明されていません。

なぜ貝があの形になっているのか、なぜ炭が浄化するのか、科学的にはほんの少しだけこうではないかという事実を突き止めますがそれはほんのちょっとの真実に触れただけです。

人間の社会の中では、知っていればいいという知識と知らなくても実践できるという知恵があります。知識は知っていても、それができなかったら知恵になりません。知恵を先に得た人たちが、その知識を語ればその知識は知恵に転換するための材料にもなります。

人生の中で、自分の人生に知恵を得たいと思えば、実際に生活で知恵を活かす人たちに倣い、それを真似るなかで近づいていけるものです。

私たちは太古の時代から、そうやって知恵を伝承して子孫へと学びを活かしてきたように思います。この時代、情報や知識は無尽蔵に入ってきます。しかし知恵はといえば、ほとんど触れることがありません。コンピューターに任せきりです。

だからこそ人間として人間にしかできないものを磨いていくことが大切だと私は思います。仙人の知恵を磨いている人たちが集まる場を増やして、さらに子孫へとその願いや祈りを伝承していきたいと思います。

むかしの人々

英彦山のむかしの山伏の道を歩いていると、岩窟や仏像、墓石などが谷の深いところにたくさんあります。今は木々が鬱蒼としていて、廃墟のようになっている場所にも石垣があったり石板があったりとむかしは宿坊だった気配があります。むかしはどのような景色だったのだろうかと思うと、色々と感じるものがあります。

守静坊の甦生をするときに、2階からむかしの山伏たちの道具がたくさん出てきました。薬研であったり、お札をつくる木版であったり、陶器や漆器、他にも山の暮らしで使うものが出てきました。

その道具たちを見ていたら、むかしはたくさんの人たちが往来していたのだろうと感じるものばかりです。食器の数も、お膳もお札の数も、薬研の大きさも関わる方々のために用意されたものです。

英彦山は3000人の山伏と800の宿坊があったといいます。この山では谷も深くお米もできませんから、食べ物はどうしていたのだろうかと感じます。これだけの宿坊があり、家族もいますから山の中だけでは食べ物は確保できません。実際に、宿坊にいるとそんなに作物が育てられるような場所も畑もありません。きっと、里の方々、檀家の方々をお守りしお布施として成り立っていたのでしょう。

宿坊には、他にも立派な御神鏡や扁額、欄間などがあります。貧しくもなく、そして派手でもない。しかしとても裕福な暮らし、仕合せをつくるお仕事をなさっていたことを感じます。

庭には、柿の木やゆずの木があります。そして220年の枝垂れ桜があります。足るを知る暮らしを静かに営み、祈りと里の人々の平安を見守るような日々を感じます。

英彦山、お山という存在は人々にとってどのような場所であったのか。

日々に疲れやすい心を癒し、身体を健康にしていくための故郷だったのではないか。今ではそう感じます。お山は誰かのものではなく、みんなのものです。そのみんなのものを大切に守ろうとされてきた方々によってみんなの故郷も守られてきました。今ではほとんど宿坊もなくなり、山伏もいませんがその精神や心、魂はお山の中に遺っています。

この遺ったものを感じ、自分なりにお手入れをしながらむかしの人々の生き方を学んでみたいと思います。

イワの信仰

先日、国東の両子寺にお伺いするご縁がありました。美しい参道とあわせて、岩窟があり両子権現がお祀りされていました。英彦山に関わってから、たくさんの岩窟に巡り会いました。この岩窟とは何なのか、少し深めてみようと思います。

そもそも岩(イワ)という言葉を調べてみると少し見えてきます。この岩は、山が連なったという象形文字です。ヤマという言葉もまた、山の上に岩々が連なった様子のことを指します。つまり石で連なった場所のことを岩(イワ)と呼んだのがはじまりではないかと思います。

そしてこのイワは、一説によれば「イワ」は、神を意味するヘブライ語の子音 (yhwh)に任意の母音をつけて、日本流の「神」の呼び名「イワ」となったともあります。つまり巨石で連なったものを古代の人たちは、何者か偉大な神が宿っていると直観しそこから岩の信仰がはじまったのではないかと感じています。これは古代においては、仏教や神道、道教などあらゆる信仰が始まる前からあった日本の源流の信仰のカタチだったように思います。修験道のはじまりではないかと私は感じます。

このイワには、「イワクラ(磐座・石位・石坐・岩座)」「イワヤ(石屋・岩屋)」「イワサカ(磐境)」「イシガミ・イワガミ(石神・岩神)」というものがあります。「イワクラ」は「神が依りつき宿る岩石への信仰」といい、「イワヤ」は「神が依りつき、籠る岩窟への信仰」といい、「イワサカ」は「神を迎え、祀るための区切られた岩石空間への信仰」といい、「イシガミ・イワガミ」は「岩石そのものを神として祀る信仰」といいます。

イワを中心に、神様が依り代になる場所と信じられそこで信仰が行われました。世界にはストーンヘンジやピラミッドをはじめ、岩が中心になった信仰の形跡があちこちに遺っています。

むかしはイワの力で病を治していたのでしょう。岩窟に入ると、とても静かであり不思議なぬくもりを感じます。同時に、偉大な何かが繋がっている感じもします。最近では、岩窟から出てくる湧き水にシリカやケイ素という成分がありそれが寿命を伸ばしたり健康を保つ薬になったということもいわれています。他にも精神疾患や、心の状態を穏やかにする、あるいは穢れを祓う力もあったと思います。

そもそも信仰の原点は、私は病を治すことだと直観しています。そして修験者たちは、本来はその病を癒すための道を示したものです。心身を健康に保つためには、自分のことを深く理解する必要があります。自己との対話を通して、身体や心を深く学びます。そうして学んだ知恵をもって、人々を救う仕組みが産まれたのです。

現代は、物理的、科学的に病気を捉えていますがそもそも病気になるような生活をしていますから健康というものもわからなくなってきています。だからこそ、本来はどうだったのか、古代はどうだったのかと温故知新することの大事さを感じています。

子どもたちのためにも、古代から続く知恵を甦生し未来のために伝承していきたいと思います。

道徳の実践

現代は、子どものためといいながら自分たち大人の都合のことをいい、未来の社会ためといいながらお金を増やすためにやっていることなども混在してより本当のことが分からなくなってきています。そのほかにも社員のためにといいながら、社長だけが利益を享受されるようになっていたり、国民のためといいながら一部の政治家たちが得をするということが当たり前になっています。

それが当たり前のような環境になって気づかなくなってくると、正直者が馬鹿をみるかのような風潮になっていきます。だからといって、みんながずる賢くなってしまうと道徳が乱れ、その結果社会が住みにくくなり豊かさや喜び、仕合せも失われていきます。みんなで仕合せに豊かになるには、みんなが助け合いそしてみんなで喜び合うような社会にしていかなければなりません。

そのためには、本来の目的というもの、私はこれを初心といいますがそれをまず定めてみんながその目的や初心を振り返りながらそれぞれが自立して協力していくような主体的な風土を醸成していく必要があります。

私もむかしは、世間のルールに従って比較競争社会、消費文明のなかで自分を守ろう、自分たちを守ろうと取り組んできました。そのうちこれは本当に子孫のためになるのだろうか、これは真に豊かなことなのかと疑問を感じるようになり働き方と生き方を一致させる経営に舵をきり今に至ります。

何でも一致させていこうとするのは、そこに誤魔化しもできず正直で素直でないと成り立ちませんから実際には苦労の連続です。特に今の時代は、そうではない会社や社会が当たり前ですから似て非なるものとの比較にあってなかなか本質が伝わらないことも多くなります。

本物といえば、それ以外は偽物なのかとなるし、本当だといえばでは何が嘘なのかとなります。正義とか悪とか、二元論ではなく大切なのは目的や初心に対して一致させること。つまり言行一致、知行合一、実践するということだと感じて取り組んできました。

実践というのは、目的や初心を行うことです。何のためにこれをやるのかということを忘れないで行動し続けることです。最初は、簡単には一致できずに改善の連続です。しかし次第に、働き方が改善されていくと同時に生き方も改善されていきます。

経営論やテクニックでやっていくのではなく、まさに思想と現実を一致させ経営文化に昇華していけばみんなでその社会を創造していくことができるからです。そのような社会を目指していくうちに、安心した暮らしはととのっていきます。

これは今私が発明したものではなく、日本でいえば三浦梅園、石田梅岩、二宮尊徳、中江藤樹、上杉鷹山などみんな実践により顕現させてきたものです。

その時代もまた同様に誤解されたり理解されなかったりしたでしょう。しかし後世の人たちが後で冷静に客観的に観たら如何に人間が人間らしい取り組みをしたかがこれらの偉人の生き方や歴史から感じられるものです。

理想は現実になってこそ、子孫を救うものです。子どもたちのためにも丹誠を籠めた実践を積み重ねていきたいと思います。