今年を振り返ってみてとても大きなご縁になったのは国東半島の三浦梅園です。この人物は享保8年(1723)に生まれた人です。本名は三浦晋(すすむ)といいます。この梅園とは、後に彼をしたって各地から集まった者たちの塾を『梅園塾』と呼んだことに由来しています。
紹介文を読むと、「梅園は『日は東より出て、西に入る』といった転地万物の営みを当たり前とせず、その事実に強い疑問を抱き続けた。そして独学のすえ、『天地万物はみな一つの根本から現れているもので、その現れ方には決まった条理(筋道)がある』という哲学体系『条理学』を構築した。」とあります。
雪を見て雪と見ない、太陽を見ても太陽と見ない、なぜ音が聴こえるのか、なぜ目は見えるのか、呼吸はどうして行うのかというそもそもの根源を探求して真理を学び続けた人物だったことがわかります。
私も知識を増やす喜びはありますがそれはほどほどにして、本来の真理や自然、直観的に洞察する深淵により興味が魅かれます。みんなの言う真理や自然は果たして本当に真理や自然なのか。そこを疑うのです。そもそも不思議なことはほとんど解明されていないことがわかります。
例えば、重力一つでもこの重力が何かというものも解明はできていません。多少科学で少しは理解が進んでも、それを使いこなすことはできません。UFOなども写真が増えてきましたがあの飛行の様子から想像してみたら、重力を操作しているのがすぐに直観できます。他にも、波動というものや音というもの。音とは何かということもまだ奥深いところがわかっていないのです。つまりこの世には科学がまだまだ追いつけないものばかりです。だとしたら、誰かが言ったことを鵜呑みにして信じていたら洗脳と同じでしょう。そんな仮想で見たこともない世界を信じるくらいなら、自分で学問を探求したいと思うようになるのです。
私も同様に何が本当の自然だったのかを自らの直観と五感と体験と自学自悟していくなかでその根幹に触れて普遍的なものを理解していきます。すると今の時代の価値観や人々の心が観えてくるようになります。
普遍的なものへの興味関心というものは、どこからやってくるのか。それは本能的にいのちは仕合せになりたいと思っているのであり、それが真の豊かさや徳への関心になっていきます。聖人と呼ばれる人はきっと、その最初の心、あるいは原始的ないのちの求める道を知りたかったのかもしれません。
私が徳積みというものに深い関心を持つようになったのも、二宮尊徳や中江藤樹など日本の先人たちの生き方に触れて仕合せに憧れたからです。この人物たちは、その土地で産まれその土地そのものに顕現しました。風土そのものに無為自然に生きた人たちになりたいと憧れたのです。
三浦梅園は、その生涯において普遍的なものからブレずに生涯を過ごしました。一度しかない人生をどう生きるのか、それは生き方が決めます。私が目指す、徳積み循環経済は本来は当たり前のものでした。それが今の時代は、特別なことになってしまったこと、そして私の活動はオルタナティブで少数な風変わりなものに思われるのもまた時代がそういう時代だからなのは仕方がありません。
しかし子孫のことを思えば火を絶やすことはできず、道統や和の系譜は守り続けていかなければなりません。英彦山のご縁からさらに深くその道は入っていきますが、学ぶことの仕合せを噛みしめながら歩んでいきたいと思います。