天命というものを実感する人は、泰然自若として焦ることもありません。その人たちは天命を楽しみ、今に生きています。言い換えれば、天命を自覚しているということでしょう。天命というものは何か、これは中国古典に色々と記されます。一般的には、天から与えられた寿命、そして天から与えられた命令ともいわれます。
つまり天という、人間ではどうにもできない宇宙や神のような存在がありそこから命令を受け命を授かって今の自分があるという思想です。私たちもどうしようもない事実を受け容れるとき、これが天命だったという言い方もします。時間があるのなら、あるいは偶然の組み合わせでというような人知では及ばないことが発生した時に使います。
そもそも人知で及ぶ範囲というのはどこまででしょうか。目先の手が届く範囲くらいでしょう。実際には、無限の組み合わせと結びつきで今は変わり続けます。人の出会いも、また自分の呼吸も、その決断一つで変化を已みません。呼吸している間中、何か私たちは天命を感じるものです。心臓の鼓動が止まってしまえばそこまでで天命、あるいは自然災害や人災に巻き込まれてしまうのも天命ともいえます。ではどうにもならないことだから、何もしないでいいということかというとそうではありません。
この瞬間も心臓は動き、血液も流れ、生きています。どういう結果になったとしても、そこまで最善を盡すことが与えられた天命を楽しむということでしょう。
中国の易経にこういうものがあります。
「與天地相似。故不違。知周乎萬物而道濟天下。故不過。旁行而不流。樂天知命。故不憂。安土敦乎仁。故能愛。」
意訳ですが、天地はあるがままである。これはすべてにおいて自然であり真理でもある。だからこそ、私たちは天を楽しみ命を知るだから憂えることもない。天に対して地球が安心してすべての生命を真心で包むように、私たちもそうあればいいと。
あれこれ迷い惑わず、じたばたと焦らずただ日々に天地自然の真心と一体になり自分を盡することを楽しむこと。それが天命であると。
天命という言葉は、今を生き切ることにとても楽天的に感じられるものです。
最後の瞬間まで、どれだけ天命を生き切ることができたか、楽しむことができたか。それが本来の人生の妙味であり醍醐味です。
色々と世の中の流行や変化、社会の評価や人の意識や動向に影響を受けますが、実際には天命とは何の関係もありません。天命を生きるのは、豊かに仕合せに楽しく、自然が元氣で快適であるような心と一体でいることかもしれません。
今日も天命を楽しみたいと思います。