素直な生き方

先日、素直を座右にしている人とお話する機会がありました。自分の実体験でそのまま気づき感じたことを哲学にされておられそこから同じような体験が必要な人たちへ気づきを共有し導くようなお志事をされておられました。

考えてみると、自分の実体験というものはその人だけのものです。他の人では似た体験であっても同じ体験をすることはありません。それだけ人はその人だけの味、その人だけの人生の意味を送っているともいえます。その時、体験して気づいたこともその人だけのものです。しかしその気づいたものが大切で有難く、そして人生を変えてしまうような感動するものであればそれを伝えたい、共感したいと思うものです。

あるがままに感じたことをそのままに大切に生きるということは、とても素敵なことでありまさにそれが素直さであるようにも思います。ご縁というものもまた同様に、素直になることで味わい深くなるものです。そういう人は運に恵まれ運に運ばれ、運に導かれる人生になるようにも思います。

ご縁や運や素直さというものは、すべて繋がっているところに存在しているものです。その繋がっているところこそ、いのちの生きているところであり心が存在している在処です。

人は生き方というものがなぜ大切なのか、それはその人のいのちがそこにあるからです。生き方を優先できる人は、感性がいつまでも瑞々しくそして初々しいものです。初心を忘れずに、いつも本当の自分と対話し続けています。

自分と対話している人は、自分の喜びに気づきます。一日のはじまり、そして一日の終わりに自分に対して感謝することもできます。現代の日本は、自己肯定感が問題になっていて様々な事件を引き起こしているともいえます。人間は社会を形成する動物ですから、真に豊かな社会にするかは一人一人の自己肯定感の在り方にもかかっている気がします。

本来、みんなが素直に生きられるような認め合う世の中、素直であることを誇りにできるような正直な世の中になることが理想なのでしょう。教育に携わっているからこそ、自分の問題として社会のせいにせず、自分の責任として新たな「場」を創造していきたいと思います。

同じような生き方を志している人がいることは仕合せなことです。みんなで一緒に、子どもたちのためにも自分のできるところから実践を味わっていきたいと思います。

暮らしを繕う

現代というのは人が中心の世の中になっています。しかし実際には、この世界には人だけではなくあらゆるものが存在しています。そこには動植物だけでなく、無機質だといわれる物体にいたるまでいのちがあり同時に歴史があり今も続いています。そういうものへの配慮を忘れると人間中心の世の中がますます増大していきます。環境破壊も、伝統文化の荒廃も人間が人間を優先しすぎるところから始まっているようにも思います。

例えば、身近にある物というものも本来はそれは物ではありません。原材料や素材があり、それを大切に加工して私たちはそれを活用します。そこには多くの犠牲があり、いのちが使われます。残ったいのちを別のカタチになってそこからさらに生きるのです。

これを私は甦生とも呼びます。

甦生というものは、常にいのちのお手入れが必要になります。これは修繕ともいえるし、配慮し大切に扱うということでもあります。時間が経てば、自然の変化に合わせて経年変化します。味わい深い変化もありますが、変化に耐えられなく傷んでしまうものもあります。それをお手入れすることで、その傷みを修復したり回復を見守ったりするのです。

これは人間の身体も同じように自然物ですから、お手入れが必要であるようにすべてのいのちやものにも必要なことです。お手入れというのは、糸を結び直すことに似ています。切れそうな糸を解き、また新たな糸で結び直すこと。何度も結び直すうちに、いつまでもお互いのつながりが築かれていくのです。

いのちというものは、こういう連綿と続いてきた糸のようなものです。その糸をどう結んでいくかは、日々のご縁の結い方次第です。

暮らしとは、その日々をどう紡いでいくのかということですからあまり絡まりあわないように慌てず焦らず、丁寧に丹誠を籠めて繕っていきたいと思います。

暮らしの醍醐味

時代的な価値観があるなかで、むかしからその時代に影響を受けずに生き方を優先する人たちがいます。いろいろな不都合があっても、バランスを保ち本来の自分の決めた生き方を貫かれておられます。

私が尊敬する方の中には、もう高齢ですがずっと自分らしく自分を生きていく人がいます。人間だけでつくりあげた世の中ではあまり役に立たないようなところにいても、自然の中ではまさに天命を盡しているような方もおられます。私は本来、バランスというのは尊重し合う中にこそ発揮されるものだと思います。お互いの存在を丸ごと尊重し合うとき、それそのものが意味があるように思います。

若い時から、何かと比較競争され本来の自分というものの役割や使命などはあまり重要視されてきません。学校も企業も、どこにいっても比較や競争ばかりの世界に巻き込まれます。それでは本来の自分から誕生する初心も気づき難くなりそのうち初心があったことにも気づかなくなったりもするものです。

極端な例に聞こえるかもしれませんが、今、庭に飛来してきた鳩や雀にも本来の役割が自然から与えられています。止まり木になっているマキの木や紅葉にも役割があります。その役割を全うしてただ生きています。このただ生きるということの意味の中には、いのちの充実を感じるようなつながりがあり共に今を謳歌しています。

暮らしの醍醐味というのは、この今を謳歌することでもあります。いのちを分け合い、助け合い、つながり合うことのよろこび、そして足るを知る豊かさは私たち本来の存在の妙を再実感させてくれるものです。

時代がどう変化しても、私たちの暮らしの普遍性は永遠に変わることはありません。何を変えてよく、何を変えてはならないか、それは真に変化が観える人たちでしかできないものです。

自然は変化を已むことは一度もありません。人間社会のみが変化しないのです。変化の本質を忘れず、私はここに止まる生き方を発信し、子どもたちに暮らしの伝統を伝承していきたいと思います。

伝承の結

昨日、郷里の偉人でながのばあちゃんという名称で有名な長野路代さんとお会いしました。聴福庵に来庵いただき伝統や伝承の話を私たちのスタッフたちと4時間ほど語り合いましたが目的や想いを共有することができとても仕合せなお時間になりました。

また私が大切に育ててきた伝統固定種の堀池高菜を食べていただき、とても褒めていただきました。この高菜とのご縁のキッカケには深い悲しみがありましたが、供養で続けてきたいのちがこのタイミングで甦生していることに不思議さと有難さを感じています。

長野さんは、そのものがもつ素材本来の美味しさをつくりだしていくことに長けておられます。その加工の方法は現代の単なる大量生産のときの人工的な加工とは異なり、自然そのものを自然の知恵をつかって自然に加工をする方法を取ります。それは例えば、その地域独特な環境や風土、そして先人の知恵を結集してそのものがどうやったらさらに美味しくなるかを追求するのです。

想えば、先人たちはその場所にはその素材しかないものを工夫してどうやったら最高の状態で人々がその価値を味わえるかを追求してきました。それは魚、植物、木の実、野菜、野生動物や昆虫、あらゆるものをその土地にしかない味としてその素材を活かしきろうと創意工夫をしたのです。

本来の特産品というものは、他所からもってきて借りたものではなくその土地にしかないもの、その風土でしか味わえないもののことです。その価値をどう磨き上げるかというのが先人たちの伝統でした。その伝承をしっかりと受け継がれ、今でも時代に合わせて創意工夫をされている長野さんの経験や知恵はそのまま伝統食の根源と呼んでもいいものでした。

本来、調理というものはどういうものか、和食というものはどういうことか。その根源を突き詰めていけば、ある場所に辿り着きます。その場所は、日本人と日本の心、そして日本の風土であることは間違いありません。

私たちは今まで唯一無二の歴史を辿りそのなかで伝統を伝承してきました。それは、加工技術の中にも垣間見れます。例えば、私の取り組む漬物の伝統もどうやったら美味しくなるか、自然のもつ素材を味わいきるかを考えつくした形が今のものです。さらに言えば、今の高菜は改良された現代のものとは異なり歴史をもったあるがままの姿です。これ以上ないほどに完成されている自然体の高菜ほど見事なものはありません。

私は自然農でずっと育てていますが、この伝統固定種の高菜の御蔭で高菜とはここまで美味しいものだったのかということに気づいて感動し涙しました。これも伝統を受け継いだからこそ感じる実感です。他にも、私は古民家甦生をはじめあらゆる日本の暮らしを甦生していますが仕合せに包まれる豊かさに感動することばかりです。

私たちは日本文化という宝を持っています。その日本文化を語ることなしに、何を語るのか。その原点を忘れてお金儲けや便利さばかりを追求すれば、私たちは和食というその伝統も失うように思います。

子どもたちには、本物の調理、本来の日本の伝統を伝承していきたい。ますます私の覚悟や意識を再確認できました。この出会いに心から感謝しています。これから、この場所から伝承の結をはじめます。

徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。

地上の楽園

自然界に限らず、すべてのものはご縁でできています。どんな小さないのちですら、それぞ辿れば全体のいのちと繋がっています。この世につながっていないものなどは何一つ存在せず、いのちは網のように網羅されています。老子の天網恢恢疎にして漏らさずです。

そして繋がっているからこそ関係性があります。自分の日々の息ですら、全体と結ばれていますからどのような呼吸をしているかに至るまであらゆるいのちと循環をしているということになります。

そしてそれは、目にはみえなくても波動や音なども同様です。耳を澄ませば、あらゆる音が包んでいますし皮膚感覚を研ぎ澄ませば気配や風を感じるものです。この風もまた宇宙を循環しています。

循環しているというのはいのちが途切れないという言い方もできます。どのいのちも形を換えては別のいのちとなって循環し続ける。これは伝統や伝承も同じで、それぞれに寿命を大切にして共生して残ります。そしてその心は、いつまでも一緒にいのちを分け合っていきたいという根源的ないのりとも結ばれています。

私達が呼んでいるこの地上の楽園というのは、いのちが調和している場所のことをいいます。不思議な世界ですが、いのちは分け合うときつながりが満たされ独占しようとするときにいのちは失われていきます。独占というのは、いのちの存在とのつながりや結びつきを分断していくことに似ています。そもそも分断されることはないのですが、分断している意識になるということです。分断は分類からはじまります。人間の尺度で何かを分類するとき、一方的に分別します。その分別があることでいのちを脳で認識していのちがない物のように便利な道具にしていきます。言い換えれば、生きているいのちは不便で死んでいるものは便利だということでもあります。配慮がいらない人間都合でという言い方もあります。

この世はいのちが繋がっているから本来は不便な世界です。しかしその不便な世界だからこそこの世の楽園と呼ばれるものです。便利か不便かではなく、今日も感謝でそのものの労苦を労ったり、存在そのものに感謝できたりすることで分類や分断を結び直していくことで仕合せも充ちていきます。

暮らしフルネスは、いのちの結び直しでもあります。色々ないのちのご縁と真心で結び直していきたいと思います。

野性と呼吸

先日、呼吸法を体験する機会がありました。私たちは酸素を取り込んで呼吸していますが、取り込んでいるものは酸素だけではないことが体験するとわかります。身体の隅々まで、呼吸を行き渡させると全身の感覚が研ぎ澄まされていきます。

日頃は使うところを中心に呼吸は使われますが、改めてじっくりと意識して呼吸をするとそれがありとあらゆる感覚に用いられていることがわかります。特に毛細血管をはじめ全神経を活性化させていきます。

もともと私たちの人間は野生の知性を持っていました。今のように暖房設備や洋服がなくてもほとんど裸に近い状態で山野を駆け巡っていました。今の野生動物たちのように、自然に適応していく強靭な身体と精神力があったともいえます。

それが長い時間をかけて減退し、気が付くと心身をはじめ精神も軟弱になってきました。そのストレスから、様々なことを怖がり傷みに対する考え方も過敏になってきたようにも思います。

私達の祖父母、その先の明治のころの人たちの生き様や生き方、心身の強さをみたら驚くことがあります。すべてに対して今の平均的な元氣さよりも数段元気さを感じるからです。

産まれ育った環境が厳しいと、その分、生きる力や免疫力は研ぎ澄まされています。コンピューターや科学が発展していくなかで、突然大きな災害が発生してもしも電気が止まるのをはじめ水道やガソリン、ガスなど生命のパイプラインが使えないとなったらどうするのか。その時はあるもので生き延びていくしかありません。その時のあるものというのは、自分の肉体であることは大前提です。

自分の身体が強く、心も精神も鍛えているのなら多少の災害でも乗り越えていけます。それだけの日々の鍛錬をしていくことは今の時代は、なかなか現実的ではありません。しかし歴史を省みると、如何に平常時にもリスクに備えるか、それが先人の語る生きる知恵そのものでした。

自分の感覚が野生から離れないよう、私も色々と暮らしを試みていますがこの呼吸法もその一つにしていきたいと思います。子どもたちに安心して生き延びていける世の中にするためにも、リスクに備えていきたいと思います。

未知なるもの

それぞれの人生にはそれぞれの道があります。その道はその人の道ですから、どうなるのかわかりません。しかも誰も歩いたことのない道ならそのすべての先は未知なるものです。

この未知なるものというのは、頭で考えてもわからないということです。経験したこともなく、どうなるのかもわからない。普通に考えたら、知らないことをやるのは不安や恐怖もあるものです。特に、過去の体験からマイナスなことを思えばそれが壁になり一歩踏み出せなくなることもあります。だからこそ未知なるものに対する心構えというものがあるように思います。

西郷隆盛がこういう言葉を遺しています。

「道は天地自然の未知なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修する克己をもって終始せよ。己に勝つ極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり」

意訳ですが、人の志す生き方の道は、宇宙や自然のように未知なものであるから学問を深め歩む人は天を相手にして人を思いやることを目的にして、自らを律し自らを養い自らを修め、己に克つことを第一義に保つべきである。そして己に克つために何よりも究極な境地は、根拠のない自分勝手な思い込みもせず、無理を押し通さず、そして頑固に意地をはらず、自分本位の意見や主観をもたないことを言う。と。

つまり日々、この今、この瞬間、どのような時でも天道に適っているかと確認し真心を盡していくために我を優先せずに無私であれということでしょう。無私の人であればあるほど天理に近く自然体であるということです。

この無私とは相対的な我と無我ではありません。道そのものになること、天と一体になっていること、つまり丸ごとそのものになることを無私の人というように私は思います。

運命に逆らわず、来たものを選ばず、ご縁あるすべてに真心をもって接していくこと。一期一会の生き方とも似ていて、同時にご縁すべてに意味を見出しそこにいのちを活かしきる生き方でもあります。

未知なるものに触れることの醍醐味は、新しい自分との出会いでもあります。

子どもたちに憧れるような生き方が示せるように挑戦していきたいと思います。

呼吸の妙

私達人間は呼吸をします。空気を吸って吐いて生活をしています。魚であれば水の中で同じように空気を吸って吐いて生きています。これを改めてよく考えてみると、私たちはその空氣や水の中から元氣というものをいただいていることに気づきます。

つい睡眠や食事、運動など、目に見えるものだけで元氣になっていると思っていますがその中心をよく観察するとそれは呼吸であることがわかります。呼吸を止め続けたら私たちは動かなくなって死んでしまいます。私たちの全細胞は、呼吸を通して活動しているということです。

現在、環境汚染によって空気が汚れていません。また川や海なども汚染されています。魚たちがいなくなったのも、水中が汚染されたからです。呼吸によって汚染されたものも取り込んだことで寿命が失われてしまいました。人間もまた空気汚染によって呼吸器系の病気が増えてきました。

目に見えず、当たり前すぎて感じにくいこの空気や水というものをどれだけ真摯に守っていくかは日々の呼吸に気づけるかどうかだとも感じています。

呼吸を使った瞑想や健康を保つ方法は呼吸法とも呼ばれます。一説によれば、仏陀がはじまりともありますがヨガや座禅、武道、茶道などにも呼吸は用いられます。呼吸は心身とのつながりの所にあり、その結びの存在でもあります。

心と体を調えていく中間に、呼吸がその結びをしているということでしょう。

当たり前すぎて知らないことばかりが私にもまだまだたくさんあります。今年は養生を磨くことをテーマにしていますからこの呼吸というものも学び直していきたいと思います。

豊かな暮らしには、呼吸を調えることからはじまります。子どもたちにもその呼吸の大切さを伝承していきたいと思います。

労を労う

労を労うという言葉があります。労が二つ使われますが、労は心身をつかって努力すること、労うはその苦労や骨折りに感謝していたわるという意味になります。この労うという言葉の語源は、奈良時代の上二段動詞「ねぐ(労ぐ)」で、神の心を和らげて加護を祈るという意味になります。その相手の労苦をいたわる言葉です。そこから「ねぎ(禰宜・神職の一つ、神の御心を休める者の意)」、「ねぎらう(労う」、「ねがふ(願ふ)」の言葉になったといいます。

よく考えてみると、生きていくというのは有難いことの連続です。食べて寝て起きて何かをするにも本当は大変なことです。病気になると余計にその労苦を感じます。当たり前ではないことを身体がやっていたことに気づくと労う気持ちが満ちてきます。

さらに日ごろは気力で何かを為し遂げようとします。志であったり夢であったり、努力をしては挑戦を続けています。その行いにおいて願いや祈りを働かせます。その願いや祈りを神様に届けようとする仲介役をするのなら確かに苦労やその努力に対して労わる心で接したいと思うものです。

報恩や報徳で真摯に努力精進していくことは、それ自体は喜びかもしれません。しかしそのために父母からいただいた身体をどのように大切にしたか。そしてそれを支えてくださっているすべてのいのちやその御蔭様に感謝しているか。そう思うと、この労を労うという言葉は個人に対してだけではなくすべての存在に対して有難くもったいないものへ行われていることに気づきます。

食べ物ひとつとっても、そこにはいろいろないのちの犠牲があります。ご苦労様ですという気持ちと、その苦労に対して供養する気持ち、感謝があります。

みんなが共にいのちとなって一体になりこの世で有難く生きていくということが心を和ませることにもなります。ただ苦労をしたことを思うのではなく、その苦労というものをみんなで行ったことに対する調和が和らげるということかもしれません。

和ませる和らげるという言葉に、和があてられているということが素晴らしいように思います。

和の心は、労を労うことからはじまります。

子どもたちにも和を感じられるような取り組みと場をこれからも醸成していきたいと思います。