英彦山にご縁を得てから、信仰とのご縁が増えてきています。色々な僧侶をはじめ、修験道の修行をなさっている方にもお会いします。法螺貝のご縁も重なり、今まで知らなかったことが増えてきています。
加持祈祷にも触れる機会があり、先人の知恵や伝承に感謝するばかりです。もともとこの加持祈祷はインドの仏教から入ってきたものですが歴史の変遷もあります。
有名な護摩焚きも、もともとはインド由来です。この護摩は、サンスクリット語「ホーマ(homa)」の音写で、供物を火中に投げ入れて祈願する「焼施」がはじまりだといいます。バラモン教における炎の祭式が密教に取り入れられ、それが護摩法となっていきます。具体的には火炉に護摩木を積んで燃やして火中に五穀、五香などを投じ、香油を注いで供養することによって願主の願い事を達成していくといいます。
インドでは、様々な供物を燃やしていくのですが日本では護摩木が中心になります。護摩祈祷とも言いますが、真摯に祈りをささげる僧侶と一体になって智慧の炎に祈りを捧げます。加持祈祷を感じる儀式として今でも大切にされています。
この加持祈祷の 「加持」とはadhiṣṭhānaの訳で手印・真言呪・観想などの方法で加護を衆生に与えることをいいます。そして「祈祷」とは呪文を唱えて神仏に祈ることを意味するといいます。つまり祈祷は加持を得るためのものともいえます。
この加持祈祷の意味については空海が「即身成仏儀」の中でこう述べています。
「加持とは大日如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と言い、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。すなわち、仏の慈悲の心は常に衆生に注がれているが、そのことを「加」と言い、信心深い人がその仏の慈悲の心をよく感じ取ることができることを「持」と言う。しかし私たちの心は、欲望・嫉妬心・間違った考え方(邪見)に覆われて、仏の慈悲心に気付かない。何も仏に限ったことではない。他人の優しい気持ちに気付かず、我儘な振る舞いをして、後で自分自身の至らなさに後悔する」
特に加持ができる信心深い方とともに、一緒一体になって真剣に祈りを捧げているうちに不思議な加護をいただいていることに気付ける。その加護に気づいたときに、我が省かれいのりそのものになっているという感覚でしょうか。
人間は色々な迷いや惑いがあり、そういうものを取り払い透明であればこの世のいのちそのものでいられるのでしょうが様々な欲がありますし、色々な関係性もありますからそう簡単には清々しい素直のままを保つことは難儀なものです。
しかしそういう自分であっても、何か偉大なものに守られているという感覚に気づけばおのずから感謝の気持ちに近づいていきます。与えられているものに素直に感謝できること、どんなものであってもそれは自分に相応しいと感じられること。当たり前のことに気付ける感性、それを私は徳といいますがその徳を磨くとき、人は人のありがたさを味わえるようにも思います。
加持祈祷は、あらゆる手段があります。皆さんが安心していのり、しあわせを感じられるように私は私の加持祈祷を実践していきたいと思います。