英彦山を開山した人物のことを深めていると、仏教との深いかかわりがわかってきます。もともとの英彦山のはじまりは中国北魏僧の善正と忍辱(俗称は藤原恒雄)が開いたといわれます。この縁起の起源は「彦山流記」に記載され同書は彦山に関する最も古い書籍で奥書に「建保元年癸酉(一二一三)七月八日九州肥前国小城郡牛尾山神宮寺法印権大僧都谷口坊慶舜」とあるそうです。そして「彦山縁起」といって元亀三年(一五七二)宗賢坊祗暁透の「鎮西彦山縁起」と、末尾に「元禄甲戌(七年、一六九四)夏四月十八日天台沙門孤嶽彦麓湧泉庵に撰す」と記されているそうです。「豊之前州彦山縁起」とあります。
この善正という人物は中国北魏の孝武帝の子で、孝武帝が宇文泰に殺される3年前に日本に渡来し、531年、豊後国日田郡の狩人の藤原恒雄と出会います。藤原恒雄は、善正に殺生戒をおしえられ、ふたりで英彦山をひらいたとされています。
具体的な話はウィキペディアを参照するとこう記されます。
「中国北魏僧の善正は、普泰の年に大宰府に来て仏法をひろめようとしたが果たさず、光が日子山にさすのを見て、山中の石窟にこもる。豊後国日田郡の藤原恒雄は、よく猟をしており、獣を追って山に入ったとき、岩窟に座している善正を見て不思議に思い、尋ねるが言葉が通じず、善正も藤原恒雄に殺生の罪を説くが通じない。藤原恒雄は猟を続けるが、善正の姿を見ているうちに信心の気持ちが起こったのか、善正の窟のそばに小屋を作って住んだ。ある日、藤原恒雄は猟に出て一匹の白シカを見つけ、それが瑞獣であることを知らずに弓で射た。シカは倒れたが、三羽のタカが飛来し、一羽が嘴で矢を引き抜き、一羽が羽で傷口の血をぬぐい、一羽がヒノキの葉を水にひたしてシカにふくませた。すると、シカは蘇生した。藤原恒雄は神の仕業と悟り、弓矢を捨て、家財をなげうって祠を建て、善正が抱いて来た異国の仏様を安置して祀り、自らは善正の弟子となる。これが日本における僧のはじめである。」
日本における僧のはじまりというのを知っている人も少ないように思います。実際に公に国家間の取引のように入ってきた仏教ではなく、私的に伝道された仏教があったということです。これは政治的に宗教を使うものではなく、志から伝道しようとした人たちがいたということの証にもなります。僧のはじまりというのは、ある意味で私利私欲なく純粋な思いを生きた人であったのが本質的なようにも思います。
531年になぜ英彦山に入ったのか、そして玉屋窟で修業をしたのか。言葉も通じず、身分の高い身ながら大変な旅を経て異国で生涯を閉じることになったのか。色々と考察すると、尋常ではない定めを感じます。
私たちははじまりを知ることで今と終わりを知ることができます。はじまりがどのようなものであったか、それによって今の英彦山の真の歴史にも親しくなります。今でもその志が生きているからこそ、神の山として大切に拝まれています。
日本のはじまりの霊山で仏教を伝来した功績は偉大なものです。
なぜ神の山と呼ばれるのか、そこには太古のむかしから日本に深く根付いていた信仰と混淆しからでしょう。神仏混淆のはじまりの地としてもこの英彦山はただならぬ場所であることがわかります。
これから少しずつ明らかにしていきたいと思います。