仕合せへの配慮

私の身近には古い道具がたくさんあります。古い道具は、とても味わいがあり長い年月誰かのためにお役にやってきたという跡がたくさん感じられます。現代のように、強く便利な道具とは違って扱い方を間違えるとすぐに壊れてしまうものです。

和包丁といって、むかしは素材にあわせて日本人は包丁を使い分けてきました。かなり細かく包丁を使い分けたのは、それだけ自然のものに合わせて切ろうとしてきたからです。それはただ、硬いとか柔いとか脆いとかだけで使い分けたのではなくいのちが少しでも乱暴に扱って傷まないようにという配慮もあったように思います。

日本刀の研ぎ澄まされた切れ味などを感じて、そこには深いいのちへの尊敬と配慮が感じられます。

こうやって日本人は、本来、すべての道具や物に対しての配慮があります。そこにはいのちがあり、そのいのちを傷つけないことへの思いやりから道具や物が発明されてきたからです。

私が古い道具が好きなのは、この配慮を一緒に味わえるからです。そして自分を優先ではなく、自然を優先して合わせることに親しみや喜びを感じるからです。しかしそれは効率や効果、結果ばかりを優先すると大変不便で非効率なものになります。それなのになぜむかしの人たちはそれらの道具を長く使ってきたのか。それはそこに「仕合せ」という心の作用を優先したからだと私は思います。古い道具たちに囲まれてみてはじめてわかるその仕合せがあるということです。私は、伝統的なものや古いものを使いますが、心がいつもその味わいに留まれます。これも古い道具、自然とともに生きてきた道具との一緒一体になる喜びです。

今はDXを含め、IT化されどんなものでも徹底して急速に改良され便利さや効率が追及される時代です。そこには頭で考えられたすべてが駆使されています。しかし人間が道具になるわけではなく、あくまで道具を用いるのですから人間も道具も一緒に仕合せになる道はないのかなと私は思います。

私の取り組む徳積帳は、まさにその挑戦の中心になっています。引き続き、仕合せを中心にする経済、徳積循環経済に取り組んでいきたいと思います。