新しい心学

石田梅岩という人物がいます。この人物は、商人であり、商人としてどうあるべきかという生き方を説きました。この考え方を石門心学といいました。

これは自分も商人として働いた梅岩の経験から誕生したものです。これはちょうど時代背景から貨幣経済が発展してきた時期で、ちょうどその時に色々な商人がでるなかで本来の人としての道は何か、商人としてどうあるべきかということが教育として必要になったように思います。

その中で、素直さのことが記されていて、人間は私心なき正直な心で商いをすることが大切であるということを信条にしました。素直さこそ人の道で、それが商売の道としたのです。ということから想像するのは、その逆が横行して世の中が乱れていったからかもしれません。

こういう言葉も遺しています。

「商人の蓄える利益とは、その者だけのものではない。天下の宝であることをわきまえなくてはならない」

利益は自分のものではなく、みんなのもの。これはもともと天下の宝ではないかということです。だからこそ、自分のものにだけするのは本来の商売ではないということです。

みんなのものだからそれをどう大事にするかということを考えるのです。自分の会社ではなく、みんなの会社。自分の財産ではなく、天下の財産。そう考えてみたら、大切にしなければならないものがたくさん観えてきます。

私が徳積財団で手掛け甦生した古民家なども、誰かのものではなく天下の宝だと思っているからそれをみんなで直していきました。自分だけがそれを守るのではなく、どうやってみんなで守るか。

これは自然に似ています。この土地や山は、自分のものか。川も海も自分のものか。いや、天下の宝である。だからこそこれに享受された利益があるのはその人だけのものではない。みんなのものだと弁えるところに、その人ととしての道があるということ。

現代、環境問題を見ていたら自分の土地だからと何の手入れもせず、人にも使わせず、ただ朽ちていきます。そして環境はますます悪化して、そのツケも子孫たちへと先送りされていきます。これだけ日本は裕福になってお金もあっても、ゴミばかりを捨てては消費するばかりの経済を拡大させています。

石田梅岩が今、生きていたらこれをどう思うのかなと感じます。

みんなのものだから大切にする。

こういう当たり前のことがなくなる経済というものは果たしてどのような結末を迎えるのか。きっと想像できたのでしょう。今は、その時代ではなく末期ですからこうなってしまったらどうあるか、新たな心学を甦生する必要があると感じています。

徳積循環経済は、新しい石門心学になっていくと私は確信しています。子どもたちのためにも、実践を通して伝承していきたいと思います。

有難い心の持ち方

有難いという言葉があります。それがありがとうになっています。言葉の意味から有り難しですから、滅多にないこととでしょう。時代劇などをみていたら、かたじけないという言い方もします。これも滅多にないほどに畏れ多いことという意味だといわれます。それだけ貴重なこと、一期一会であること、二度とないほど、また自分にはもったいないほどのことという解釈だと思います。

この反対語で使われるのが、当たり前。いつもあるもの、当然に貰えるもの、普通なことといいます。これは、その人の感覚でどちらにもとることができます。空気があるのは当たり前、空気があるのは有難い、同じ空気でもそれは人の感じ方で変わるものです。つまりこれは、生き方のことです。

確かに、親がいて自分が誕生しました。今の自分があるというのは、両親があったのですがこれは当たり前の真理です。しかし、両親が偶然出会い自分がいるというのはこれは滅多にないことです。他にも、今自分が置かれている環境や条件においても本当は相当な巡りあわせの奇跡であるといえば滅多ないことですが、そうやって歩んできたから当たり前という言い方もできます。

こういう言葉はどこから産まれてきたのか、長い年月、様々な代を経て、私たちの先祖たちは生き方的に大切なことを気づいてそれはそういうことを忘れないために言葉にして使おうとしたのではないかと思います。

足るを知るというのもこれに似ています。同じコップの水であっても、これだけしかないと思うのか、それともまだこんなにあると思うのか。同じ条件、状況下であっても観えるもの、感じるものが変わってしまうのです。

物の観え方が変わる、それは心の持ち方次第ということになります。

同じ人生を送っても、心の持ち方である人は仕合せで裕福で満足し、ある人は不満で不幸で貧しい人生を送ります。それは何がその分岐点になっているのか、まさに心の持ち方であることは間違いありません。

自分の人生が選べないとして、運命だとして、それをどう感じるか、生き方だけは自由に決めることができます。善い人生を生きたい、そして素晴らしい生き方をしていきたいと憧れた先人たちが言葉を遺してくださったのかもしれません。

ありがとうという言葉には、生き方をどうありたいかがいつも寄り添っています。日々を見つめて、子孫のためにも一期一会を生きていきたいと思います。

今を生きる

今の自分に発生していることを、ちょうどよかったと思えるというのは今を生きているということでもあります。人は今から離れると、よくないと思い込んだり、良すぎるのではないかと思ったりするものです。今がもっとも今の自分に相応しいと思う中にこそ、物事を活かすヒントがあるように私は思います。

では、なぜ思えないのか。それは自己との対話に問題があるように思います。過去のことを引きずって後悔し自分を責めていたり、未来に対する疑心や不安が入ってきたり、感情が心の眼を曇らせていくものです。本来、心の眼というものは素直であり、あるがままのことが観えるものです。そこに感情が入ってくると、見たくないものは避けようとするし、見たいものしか見ないという欲望が邪魔をしたりして真実が観えなくなります。

感情がピークに達すれば、脳が過剰反応してショートしてしまうものです。脳は、心と感情の調整をしていますからバランスを保てずに病んでしまうこともあります。本来、素直さというのは心と感情がどちらも今に集中するときに行われるように思います。

今、感じたことを心もあるがままに観ている。それがいいかわるいかなどではなく、あるがままにそのままに許される。そのようなとき、心も感情も健やかになります。もっとシンプルに言えば、体験することを素直に喜び味わう状態になっているということです。この喜び味わうというのは、感謝できる境地であるということです。

日々に感謝で生きる人は、今ここに素直に人生を味わっている人のように思います。しかしそれも簡単にはできることではないから、魂の修行、内省の実践を続けて、自己との調和を通して自己を磨いて修養していくということでしょう。

感情が嫌だといいながらも、心はやりたがっていたり、心は嫌だと思っても感情が先に動いていたり、好奇心というのはやっかいなものですがその好奇心があるから人は体験を優先していけるように思います。

時代が変わっても、人の本質は何も変わりません。AIが出てきても、人間は変わらないのです。変わらないからこそ、何が変わるのかを善く見つめ、今を大切に過ごしていきたいと思います。

初心伝承の種

種を蒔けばそこに芽がでます。自然と生きていれば、大事なのは種蒔きとそれを見守ることです。土がよければ、植物は育ちます。育った植物の中には、人間にとって都合がいいものとそうではないものもあります。それをよく見定めながら、全部を排除せず、共生できるようにするには知恵が必要です。

その知恵は、どこから学ぶか、それは自然から学ぶしかありません。

自然を観察していると、それぞれは真摯に生きていますが全体は調和しています。自分だけでいいではなく、そもそもが利他であることが生き残る戦略になっているのです。

生き残る戦略というのは、自分を生き切るということです。

自分を生き切るというのは、どこかすべてを何か偉大なものに委ねるような心境です。同時に、天にお任せするからこそ人事を盡すという感じです。

結局は、運というものがあり、その運が自然界ではとても重要になっているように思います。運をよくするには、運がよくなるようなことを自然から学ぶ必要があります。

自然は運という循環と一体になっており、上手に命を運んで何百年も何千年も続く仕組みの中に入っています。運の良しあしではなく、運そのものになっているということでしょう。

自然から学んだ知恵は、これからの人類に大切なことを伝承していきます。引き続き、子どもたちのためにも初心伝承を磨いていきたいと思います。

英彦山の水徳

現在、英彦山の宿坊で井戸さらいをしています。もう数十年も使われていなかった井戸ですから下には砂や汚泥が蓄積しています。それを取り除き、地下水脈からの水が綺麗に入ってくるようにお手入れをしています。

目測での感覚では井戸の中は目に見えるところまでは8メートルほど、ポンプで吸い上げていると水量はある程度は確保できそうです。あとはどれくらい砂や泥などで水が入りにくくなっているか、ここからは井戸に入って作業に取り組みます。

不思議なことに、ちょうど井戸をこれから取り組もうとしていたら6年前に聴福庵の井戸をお手伝いいただいた個人の井戸業者さんが挨拶に来られててまさかこのタイミングということで6年ぶりにまたお願いして一緒にやることになりました。

もう長いこと、井戸から離れたそうですが先日一緒に作業をしていたらやっぱりプロの風格で見事に井戸の道具をかき集めて準備を仕上げておりました。もう75歳になりますが、人生で掘った井戸の数を聴いたら覚えていないそうですが100本以上は手掛けたそうです。

掘る場所で全部水の個性が異なり、ある時はカナケで使えなかったり、あるいは良質ものものも出るそうです。深井戸と浅井戸がありますが、そのどちらも大変さがあるといいます。深井戸の方は、岩盤があったり、水が出なかったり、深いため掃除も大変であったり、あらゆる道具が高くついたりもあるそうです。水量もありますから、ほとんど一か八かということになっています。浅井戸の方も、水脈に中るかというのと水脈に中ったら当たったで水が大量に流れ込んできますから工事が大変だそうです。

自然を相手に仕事をするというのは、知恵が沢山必要です。そしてガッツというか、気力も必要です。井戸やさんも私が宿坊で池を甦生しているのをみて何か触発されたようで元氣が湧いてきて楽しく取り組んでくれています。

水は当たり前ではなく、自然からいただいたものです。この二日間、久しぶりに大雨が降っていますがこれが地下水になるのに世界は平均で600年くらいかかり循環するそうです。新しい水でも数日から50年、古い水は50年から5万年とか、もしくはもっと古いものもあります。

水もまた生きているということです。

子どもたちに自然の恵みを伝承するためにも、英彦山の水の徳を顕現させていきたいと思います。

お山の知恵、自然から学ぶ

宿坊の周囲は、大きな石がたくさん積まれています。梃子の原理を使い、少しずつ動かしていますが大変な労力です。今ではチェーンブロックなどの機械を使って石を動かすことができますがむかしの人たちはどのようにしてこれだけの大きな石を移動したり積み上げたりしたのでしょうか。

色々な想像力を働かせても、人数か特殊な道具、あるいは自然の仕組みの活用、宇宙人くらいしか思いつきません。石垣なども、もう数百年壊れずに今でも残っています。

いくつか自然災害で崩壊していますが、それをどのように元に戻せばいいのか。土木工事に頼んでも、同じような石組みをすることはできません。なぜできないか、それを考えてみると自然の仕組みに精通しなくなったからだと私は思います。

昔の人たちは、石垣の傍にどのような木を植えると石垣が壊れないか、そして水の流れをどのように活かせば石が保たれるか、それを自然の植生とバランスよく組み合わせているように思います。

逆に石垣を壊す石もあります。植物の根がどのように将来、生え広がっているのかも想像したのでしょう。また井戸さらいをしていますが、その井戸の場所や水の流れも申し分ないところに設置しています。池の家との関係や配置も、上手に水が溜まるところを敢えて池にして清々しさを保ち水が澱まないように工夫されています。

自然の仕組みをどれくらい観察したらここまで精通するのか、先祖たちは自然から学ぶことで知恵を獲得していたように思います。今の私たちは教科書や知識で様々なことをできるようになりました。しかしAIの到来で、それはAIが極めていくでしょう。しかし自然の知恵はどうでしょうか。私たちの身体は自然の一部です。自然を観察してきたことは、私たちの身体を観察してきたことと同じです。

どのように動かせばどのように活かせるか、そしてどのような循環をしているかを知り、どのように循環させていけば健康で長寿、仕合せに生きられるのか。そういうことを自ら自然に学んだのでしょう。

お山での暮らしは、自然の景色や知恵を身近に感じやすくなります。この知恵が自然のありよう、人間とのつながり方に新たな示唆を与えてくれます。

仙人の知恵は、全て自然から学んだのかもしれません。

子どもたちに仙人の暮らしから自然の大切さ、知恵を伝承していきたいと思います。

お山の仕合せ

宿坊で暮らしていると空気の流れを深く味わいます。木々の揺れや風の音、鳥の声などすべてが空気を創り上げています。そして私もまたその空気の一部になります。山と暮らすというのは、この山の空気そのものと共にあるということです。

私はご縁あって鞍馬山に人生の3分の1の年月関わることができました。その御蔭さまでお山の空気のこと、お山で生きているいのちのこと、その調和を体験する機会がたくさんありました。今、英彦山に棲み始めているとその時の思い出や懐かしさが甦ってきます。

夜の静けさや漆黒の闇が精気を満たします。

時折、木霊の音が聴こえてきます。また水の雫や流れる気配が届いてきます。朝には光が和紙の向こうから差し込んでくると次第に太陽を感じて拝みたくなります。昼間は休憩が清々しく、少し休むだけで無上の仕合せがあります。夜の星空は、まるで宇宙にいるかのようで夕陽はまさに西方浄土のありようです。

この場所にいるだけで、ただ生きていることの喜びを感じます。

枯れ葉を掃除し、傷んだ家を修繕し、花を摘み、草木を生ける、あとは鉄瓶のお茶さえあればこの上なき贅沢です。

暮らしフルネスは、都会のなかでも安心して穏やかに見守られる場を創造するものでもありますがこの英彦山の宿坊には作為もなく企画などもなくただあるだけでその場が完成しています。

静かを守るというのは、心の静けさのままでいるということです。

常にその心が静かであるか、それはこのお山の空気のままでいるかということと同じであると私は感じています。あとは、読経三昧ができれば最幸です。

人生の節目において、覚悟を決めることの大切さを改めて学び直しています。

子どもたちに、譲り遺していきたい場を磨いていきたいと思います。

 

山の暮らし

英彦山の宿坊の掃除と庭木の剪定で小傷と筋肉痛の日々が続いています。季節はとても過ごしやすく、新緑と涼しい風に癒されます。もともと山での暮らしというものは、水と草と木々に囲まれたものです。また鳥や虫たちも新しい季節の巡りの中で、あちこちで活発に活動しています。

昨今は温暖化の影響もあり、水が大量に空から降ってきます。山で処理できる分を超えてきますからそのまま水が下流へと濁流のように流れていきます。山も大雨の濁流であちこちの岩が崩壊しています。土砂崩れなどもあり、対策を立てないといけません。

水は何度も流れが変わり、川のカタチも変わっていきます。英彦山の水も同じく、あちこちから水が噴き出し、水路の場所も雰囲気も変わります。

それを人が治せる部分は治せますがそうはいかないものは、その流れに任せて環境を調えていくしかありません。自然の猛威は、人間の想像を超えて訪れます。

昨日のように穏やかで静か、日差しも柔らかく清々しい日常というものは美しく感じます。同時に同じ場所であるのに、荒々しく猛り狂うような天候の日常もあります。自然は、常に両方の顔があり人間を謙虚にしてくれます。

都会で長く住んでいると、そんなに自然の変化や機微を感じることはありません。しかし英彦山に住んでみると、すぐにその変化の大きさに心身や感性が反応してきます。御蔭さまで感覚が研ぎ澄まされ過ぎて寝不足の日々です。

一つひとつのいにしえからの感覚を甦生させていきます。野生は、元来、山にも自分にも徳として具わっています。子どもたちにも様々な体験を譲り遺していきたいと思っています。

透明であること

昨日から、守静坊の庭池のお手入れを本格化して進めています。もう随分長いこと、たぶん数十年間そのまま手つかずでしたからあちこちが崩れ、また汚泥が溜まっていました。それを少しずつ、汲み上げて、石を再配置して直していきます。御蔭で、筋肉痛の日々が続いています。

池の中には、イモリがいたり沢蟹がいたり、水生生物たちも豊富にいます。英彦山の宿坊はどこでも庭池がありますが、これは単なる観賞用としてではなく火災の時の貯水に使っていたそうです。

むかしもっとも恐れていたのは山火事です。山は、風があちこちから吹いてきます。住んでみるとわかるのですが、ある時は里の方から吹き上げてくる風。またある時は、山の上からの吹きおろしのような風もあります。そして横から強く吹いてくる風もあります。大雨や台風の時などは、轟音が響き渡り山全体が唸っているかのようです。

英彦山は、水の神様、龍神がお祀りされており常に水が溢れています。宿坊の周囲も、あちこちから清流が流れ込み、井戸を含め、水が豊富にあります。この水の豊富さは、家屋には大変で梅雨時期などはあちこちがカビていきますから対策に追われます。

しかし清流が多いというのは、マイナスイオンも多く、水に囲まれているから家屋もひんやりとしていますがそれだけ心身も澄まされていくのを感じます。

この場所で過ごしているだけで、心の濁りや体の汚れが取れていく感覚があります。お手入れやお掃除がとても気持ちよく、聴福庵と同じように澄み渡った空気が満ちています。

私は浄化場を調えるのが得意のようで、何かを浄化していくのが大好きです。浄化というのは、綺麗になること。綺麗になるというのは透明になるということです。透明が好きなのは、産まれてからずっとで今でも透明なものに感性が揺れ動かされています。

久しぶりの連休は、私はお手入れやお掃除でびっしりですがそれがとても仕合せです。心静かにこの一期一会を味わっていきたいと思います。

真の豊かさ

私たちの遺伝子には、最初の細胞の時からの記憶が眠っているともいえます。今まで生き残ってこれたのは、それらの細胞が全身全霊でいのちを生き続けてきた連続とも言えます。

つまりは、全細胞の集大成でありその結果として今の自分があるということです。これはよく考えてみると偉大なことです。ということは、人間に限らずすべての地球の生命、宇宙の生命は無限のようないのちの連鎖を一緒に歩み続けている偉大な存在ともいえます。

目の前の石ころも、そして身の回りにあるすべての自然物もまた同様に物質の一つ一つは結ばれ繋がっていのちを進化させてきて今があります。石ころ一つであっても、その石ころには宇宙の微細な集合体で形成しこの時代の姿となって存在しているということ。また菌類や虫たちもまた、膨大な歴史や体験をもって進化してきた存在の結集体でもあります。

山や海などは、それらをまた別のいのちに甦生するための大切な場として時代を超えて永遠にいのちを活かし続けています。

そういう見方をしてみると、偉大ではない存在はこの世には一つもなくゴミや価値のないものなどは存在していないということに気づきます。感謝する心もまた、そういう偉大な存在に気づくと自然に尊敬の気持ちと有難い心が湧いてくるものです。

宇宙の真理というものは、自分自身の存在の価値、細胞から思考までを創造している何かに気づくことかもしれません。そしてこの意識というものの存在、この意識は何が集合体となってできているのか。

それはこの細胞たちが私の体に集まって何か遺志を持って活動しているということにもなります。そういういのちの観え方をするのなら、この世のものをすべて尊重し、自他を深く慈しみ、今を大切に味わい生きていくことができるように思います。

豊かさの本質は、豊かさに気づくことです。足るを知るとも言いますが、すでにいただいているものに気付けるか、当たり前である存在、徳に目覚めるか、そして生き方を見つめ直してどう歩んでいくかによるように思います。

子どもたちがこの先も同じように、普遍的ないのちの世界で一生を謳歌できるように真の豊かさを伝承していきたいと思います。