いのちや生き物と、生きていないものという違いがあります。有機物や無機物ともいわれたりもします。科学的には一酸化炭素や二酸化炭素をのぞく炭素があるかどうかなどもいわれます。しかし、いのちというものは感覚のものですからそれを分けることはできません。
これは自然界も同じで、人間も自然の一部でその自然も宇宙の一部です。その宇宙も何かの一部ですからこの世の中はつながっていないものなど存在せずそれがいのちの姿ともいえます。
しかしそれを感じられるか、感じられないかはそれぞれに異なります。
人にとっては、常にいのちを意識しながら過ごしている人もいればそうではない人もいます。つまりいのちの正体は、意識するかしないかで変わってくるということです。そのままそこにあっても、感じることがなければ感じられない。ここに中庸の本質、そしていのちとの繋がりがあるように私は思います。
例えば、私はあらゆるものをお手入れし甦生していきますがそこにはいのちがあると感じながら取り組みます。この時のいのちの感覚というのは、言葉では説明できないのですが大切な生きている存在として尊敬し接していく感覚に似ています。
何かを気づけば、気づかずにごめんねといい、とても素晴らしい風景に室礼できれば似合っているよといい、存在に深く感謝してありがとうという。それを形で示すために、様々なお手入れがあるという具合です。
コミュニケーションの取り方も、言葉だけで行うものではありません。人間には手があり、目があり、耳があり、ぬくもりというものもあります。そういうものを感じながら、真心で接していくとき私たちはいのちに触れていきます。
何もないようでも、いのちはあらゆるところで羅網のようにつながって影響しあいます。どのような生き方、どのような過ごし方、どのような接し方をするかで人生は変わります。
子どもたちにいのちの伝承を続けていきたいと思います。