徳の宝

明日の守静坊の夏至祭の準備で宿坊を調えています。もともとこの宿坊の伝承では、夏至に太陽の光を鏡に受けるという行事があったといわれています。今は、もう文献も残っていませんがそれを甦生させてみようと試みています。

本来、神事というものは形式が問題ではなくその本質が何だったかを学び直すことのように思います。繰り返し伝承されるものは、形式が問題ではなくその伝承したものの本体をどう承ることができたかということによります。伝える方がいなくなったのなら、伝える側が使ってきた道具たちやものたちに物語を謙虚に教えてもらいそれをなぞりかたどるなかでその真心を直感していくものです。

私が甦生をするときは、まずよく「聴く」ことからはじめます。この聴くは単なる思い込みを外すだけではなく、そのものがどうしたいのか、何のためにあるのか、もともとはどうだったのかと深く丁寧に時間をかけて取り組んでいきます。そうしていると、早ければ数日、遅くても数年から十数年で次第にその本質にたどり着くまでの情報やご縁があちこちから集まってきます。

そのためには、そのものへの敬意や畏敬の心が必要です。何かを学ぶというのは、それだけそのものから学ばせてもらうための心の姿勢が大切になります。わかるとかわからないとかという心情ではなく、真心に対して真摯に応えるという真剣さが必要になります。それは深く礼を盡して、純粋で素直、そして謙虚であるかという心の基本が立っているかどうかによります。

自然から学ぶ、自然から聴くというのもまた同様です。

今回の夏至祭もまた、どのようなものであったのか。それを今、辿っていますが太陽の徳を感じています。太陽は、広大無辺に私たちいのちがあるものを遍くすべてに徳を与え続けます。その姿は見返りのないあるがままのものです。

そして夏至は、その太陽の光がもっとも長く、高く、広く、私たちの今いる場所を照らしてくれています。植物たちや木々を英彦山の山中でよく観察していたらこの太陽に徳に報いようと一生懸命に成長しているのを感じます。成長するというのは、この果てしなく広大な太陽の恩徳をいただいているからだと気づきます。

一年に一度、私たちは徳の存在に気づくことがこのお祭りの本質であり、そしてその徳を一年、そして一生忘れないで暮らしていこうとする意識こそ太陽を拝む生き方なのかもしれません。カラスもまた、太陽の使いや太陽に住む鳥ともいわれます。英彦山には烏尾観音や烏天狗の伝承もあります。太陽と深く結ばれ、太陽に祈る文化があったように私は思います。

当たり前に気付ける感性、もともとある存在をいつも感じる感性は、徳を磨く中にこそあります。今の時代は変人だと思われるかもしれませんが、太古のむかしからつながっている物語を今の時代も変わらずに実践し、子孫たちへ徳の宝を結んでいきたいと思います。

熟成の知恵

私は味噌づくりをして日々に酵素玄米などを食べていますが、最近は熟成というものを深めています。燻製なども熟成していくなかで旨味を増してさらにおいしいものになっていきます。

そもそも美味しいという感覚は、どのような感覚なのか。それは体が求めているものであることはわかります。そしてもう一つは、生きているもの、魂が宿っているものをそのままにいただくことだと感じます。お菓子などの砂糖がいっぱいの甘いものや、見た目がいいものは脳が美味しいと反応しているものもあります。しかし体、つまり五感で味わう方の美味しいというのはまさに全身全霊で食べるときに感じるものです。

以前、禅の体験で食べる禅という丁寧に時間をかけて五感をフル動員して食べる体験をしましたがその時の食べ物で美味しいと感じるのは簡単便利に機械で加工した食品ではなく、身近な畑や果物、そして自分で栽培したり旬の野草をはじめその季節にしかないその土地のものを丁寧に調理した時の方が深い美味しさを感じました。

この深い美味しさはどれもいのちとの対話、いのちの喜びのような感覚のことです。

そして熟成というのはよく観察すると、もっとも熟れたタイミングまで待つということです。果物であれば、種がもっとも運んでほしいタイミング。体であればもっとも状態がいいタイミングなどです。栄養価ももっともすぐれていて、いのちが充実しているという変わり目の時です。陰陽であれば、陰極まり陽になるとき、あるいは陽極まり陰になるタイミング。季節であれば、夏至と冬至のタイミングです。

このもっともいのちが充実したものをいただくこと、それは太陽の光でもいい、あるいは月の雫でもいい、その時のいのちの中にもっとも熟したものがあると自然界から教わるのです。

私たちの人生もまた、その熟成期間というものがあるように思います。自分の人生のもっとも熟成された瞬間はいつなのか、その感覚はこの味噌や発酵、燻製をはじめ保存食から学び直せるように私は思います。

引き続き、子どもたちにも熟成の知恵を伝承していきたいと思います。

暮らしの言葉

女房言葉というものがあります。これは室町から江戸時代に宮中に仕えた女官たちが使い始めた造語のことです。今でも時代の変化にあわせて、新しい言葉を作り続けています。今はどちらかというと、便利や効率優先の世の中になっていますから省略した言葉が増えています。例えば、コスパやリスケやぼっちなど、なんでも略していきます。少し長い言葉が出れば、すぐに略するもので語られます。

しかし日本の女房言葉というのは、どういう背景でつくられたのかというと宮中で働くというのは今でいう官僚の中でも特に優秀でエリートたちの職場なので上品な言葉で語るところから発生したともいわれます。その時代たちの女性の憧れの職業でまた、お宮の品格を保つように工夫されたのかもしれません。一般的には、衣食住に関する言葉が多いといいます。

例えば、おでん、おから、おこわ、おじや、おにぎり、おはぎ、おかか、おひや(お冷や)、おかず、おつむ、おなか、おまる、おなら、おいしい、などあります。そう考えると、室町時代から約700年近く今でも使い続けている言葉というのはすごいことだと感じます。先ほどの、コスパやリスケなどはそんなに長く使うことはないことは簡単に予想できます。

暮らしの中で親しみをこめて使われてきた女房言葉は、今の時代の人たちの暮らしにも定着して共に生き続けて伝承しているということでしょう。

おにぎりやおなか、おいしいなどはほぼ日常的に使われます。

改めて、自分が使っている言葉がいつはじまり、どのような経緯や意味、そして文化や歴史があるかを考えていくことはとても大切なことだと感じます。このブログでも、何気なくつづっている言葉もそれは数百年の歴史があり、その言葉が誕生した背景があるという事実。

言葉に深い親しみを感じます。

子どもたちにも、暮らしの中で使っている言葉がどのようなものかを伝承しつつその言葉を大切にして過ごしていきたいと思います。

道に還る

時代というのは面白いものです。時代というのは、人間の集合意識、そして価値観がそのものが時代ともいえます。その時代の常識とは、その時代の人々の常識のことです。時代が変わったというのは、その時代の人々の集合意識、常識が変わったということです。

例えば、その時代の常識に合わなければどんなに本来の事実であったり真実の事柄であってもそれは非常識として排斥されます。それは時代の常識が優先されるからです。今は、人々や集団がこうだと思っていたらそれに反対するというのは大変危険なことになるからです。それくらい、人間は自然や法則などに反して独善的に世の中を自分たちの思い通りに変化させていく生き物です。

なので時代という言い方をして、その時の人間の都合のよい形を保ちます。しかし、常識というものはある日突然変わっていくものです。不老不死の薬ができれば、それまでの常識は毀れます。他にも想像を絶するテクノロジーを持つ異星人などが到来してそれを享受されたりすればまたまた常識が変わります。他には、地球の気候がまるで地域別に逆転するようなことが起きれば常識が変わります。その都度、人間の価値観が変動し、時代が変わるのです。

時代が変わるということは、それだけ環境の影響を受けるということにほかなりません。

しかし時代が変わるけれど、変わらないものというものがります。それは真理や本質、根源や中心、本来あったもの、元来存在してきた普遍的な道などのことです。そして人間の原点なども変わりません。これは時代とは関係がないのです。しかし時代の常識の中では、それらは非常識になりますから厄介な問題になります。常識からみたら異物であり、異常なことだからです。

おかしな話ですが、時代と共に常識が変わり異物が増えますがそれを大事に細々と守っていたら巡り巡ってまた時代が来ます。時代は、元に戻る性質があるからです。複雑に進化して発展して繁栄しても、そのうち行き着いて戻るしかないのです。地球が円球なのと同じでどこに行っても最後は元の場所に回帰していきます。

だからこそ、今がどの時代であるかというのを見極め、その時代の常識の中でどう立ち振る舞っていくかが問われます。いわば、敵対せず二元論で正誤を分けず、味わうという境地の会得が求められるようにも思います。

心は正直ですからなかなかそうはいきません。修業は、慢心、用心、戒心の連続です。

道を歩んで、道に寄り添い、道を拓いて道に還る。

日々を慈しみながら歩んでいきたいと思います。

いのちの試練

「さるかに合戦」という日本の民話があります。幼いころに何回も読んだ記憶がありますが、よく考えてみるとこの話は仇討のことに注目されますがそれだけではなく、近視眼的なずる賢いものと、長期的にみて本質的であろうとしたものの対比からの知恵であることがわかります。話のあらすじはこうです。

「蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿が、拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、「おにぎりは食べてしまえばそれっきりだが、柿の種を植えれば成長して柿がたくさんなりずっと得する」と猿が言ったので、蟹はおにぎりと柿の種を交換した。蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えた。種が成長して柿がたくさんなると、そこへやって来た猿は、木に登れない蟹の代わりに自分が採ってやると言う。しかし、猿は木に登ったまま自分ばかりが柿の実を食べ、蟹が催促すると、まだ熟していない青く硬い柿の実を蟹に投げつけた。硬い柿をぶつけられた蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。カンカンに怒った子蟹達は親の敵を討つために、猿の意地悪に困っていた栗と臼と蜂と牛糞を家に呼び寄せて敵討ちを計画する。猿の留守中に家へ忍び寄り、栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると、熱々に焼けた栗が体当たりをして猿は火傷を負い、急いで水で冷やそうと水桶に近づくと今度は蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとした際に、出入口で待っていた牛の糞に滑り転倒する。最後に屋根から落ちてきた臼に潰されて猿は死に、子蟹達は見事に親の敵を討ったのだった。」

蟹は、おにぎりはそれっきり、しかし種を植えればそれが長い年月を経て多くの実をつけるとその時のおにぎりには手を出さずに種を植えます。猿はそんなこよりも目先のおにぎりの方がいいと種は蟹に渡して植えさせて自分はおにぎりを食べます。数年後に柿の実がたくさんできたのをみて猿はそれを横取りにきます。そして青い柿を投げつけて殺してしまいます。この続きはあらすじの通りです。

しかし私はこれは本来は今の時代だとまた少し変わる話になっているように思うのです。時代と共にこういう民話は改善されたり改良されました。例えば死んでしまうのではなく、反省にしようとしたり、登場人物が換わったりします。

今はどうでしょうか、私なら柿の種を植えた蟹をみてみんなが大切なことに気づいてみんなで柿を見守りその実を分け合うことで種がまた周囲に広がっていくという明るい話です。

猿もまた、少なくなってくるおにぎりに気づいて、その貴重なおにぎりも分け合い、未来のために種も植えるようになり周りも自分も仕合せになるという物語です。子蟹たちは、それぞれの場所で同じように種を植えて育てる指導者になって世の中にずる賢いことをするものが減って安心する世の中になったという結末です。

この時代、ある意味でみんな近視眼的におにぎりを奪い合う構図です。徳の循環や、ずっと先の子孫のために恩送りをすることなどは二の次です。でも世の中には、知られていないだけでそういう生き方をする人物はたくさんではないですが必ず一定数います。今は、ずる賢い時代に翻弄されて大変かもしれませんがそんな中でも普遍的に永続する暮らしのために陰ながら精進しています。

そういう人たちに恥じないように、私もここで徳積循環の世の中に回帰するように試行錯誤を続けています。それはすべて子どもたちの世界に先人たちの遺してくださった恩徳を伝承するためです。

時代の変化によってむかしの当たり前は完全に否定され、普遍的な道を歩む人たちは迫害を受けることもあります。しかしまた時代が変わり、元のようにもどっていくものです。その時代をどのような生き方を貫いて耐えていくか、さらに深い願いや祈りでかじ取りをしていくか。いのちが試されます。

引き続き、いのちの試練を味わい楽しみながら明るく前進していきたいと思います。

保存食の知恵

燻製の歴史を考えてみると、どこからどう誕生したのかを想像してみます。歴史をたどれば、今から13000年前くらいの石器時代にその原型があるともいわれます。それから古代ローマに入り、ゲルマン人が塩を使い保存し、その後はスパイスが混じり今のような燻製の形になっているともいわれます。

随分長くこの燻製という調理法は大切に伝承されてきました。煙を嫌う生き物たち、煙が如何に防虫防カビ、除菌などにすぐれているかに気づいた先人たちの知恵の御蔭で今私たちはこの調理法をもっています。

他には発酵や乾燥、冷凍、焼く、水で洗う、干すなどもすべて常温保存のための知恵です。特に水が多い日本では、水を上手に活かして保存していきました。どんぐりなどのアクの強いものも水にさらすことで食べれるようにし冬の間の保存食にしました。干し野菜や焼き米なども同様です。

つまりは、今のように冷蔵庫や保存料、防腐剤などがなかった時代、如何に栄養がありいのちが充実し飢餓や飢饉から身を守ろうかと生み出した知恵でもあります。特に燻製は、動物性の肉を保存するには最適でした。普通にしていたら腐ります。それが燻製になると腐りにくくなります。そこには熟成という知恵が働きます。

この熟成は肉の中に酵素という物質があり、それが肉のタンパク質を分解し旨み成分であるアミノ酸に変わる工程のことをいいます。酵素がタンパク質を分解するには日数が必要です、その間、腐敗に傾かないように塩漬けにしておきます。この塩漬けは、水分を脱水し味をよくするためです。水分が残ると腐敗がつよくなりますから、そこに塩を入れて腐敗の微生物たちをおとなしくさせておくうちに熟成するのです。

なぜ人は熟成するものを美味しいと感じるかというと、化学的にはタンパク質がアミノ酸やペプチドに変化し増量するからだといわれます。人間の舌はこのアミノ酸を旨味として捉えておいしいと感じるからだといわれます。また人間の体はのたんぱく質は、そのままでは吸収されずペプチド・アミノ酸に分解され吸収されますが熟成肉はすでにアミノ酸になっているのでそのまま栄養が吸収されるそうです。

肉は腐る前が一番うまいという言葉もあります。この熟成の技術は、食べるものをよく観察することで得られるように思います。むかしの人たちは、どこまで食べれるか、いつまで食べれるか、そしてどうすれば長持ちするかとその3つを真摯に研究してきたように思います。

今のような飽食の時代、ありあまり食料を捨てている時代にはわからなくなっているでしょうが本来は食べるという営みの源流はこの保存食の知恵にこそあります。

子どもたちに保存食の意味を伝承していきたいと思います。

種のメッセージ

私は伝統の在来種の高菜を育てて守っていますが、種は同じにみえても実際には大きく異なることがわかります。また収穫する時機になると、その違いがはっきりと出てきます。一般的に、野菜のことになると改良された種のことなどはそんなに抵抗なく取り組まれている農家がほとんどです。しかし、もしも人間でとなると遺伝子組み換えやキメラの問題などは道徳倫理に関係すると抵抗します。

実際には、農業ではすでにそのようなことが当たり前に行われておりクローンのようにコピーできたり、かなり改良が進んで本来の野菜の原型とはかけ離れたものも食べられていたりします。また農薬をはじめ化学肥料、そして遺伝子組み換えによって防虫や成型の改良も進んでいます。

例えば、種であれば伝統の在来種と改変されたF1種を比べてみると下記のような違いがあるといいます。

在来種は、作物の大きさや形が均一ではなく、その生育の時期がそろわないので収穫時期にばらつきが見られます。また味が濃厚で個性的な豊かな風味があります。そしてその種は自家採種によって命をつなげていくというものです。

そしてF1種は、先ほどとは全部逆で大きさが同じで均一した形をし生育が早くなります。また色がきれい。柔らかく、味が甘いなど、薄味で調理人向きの味です。また花粉を作れない株の一種で不妊植物と呼ばれてもいます。一代限りで、種はとれません。以前、このF1種の種を翌年に植えたことがありましたがまるで違う作物のような実がなりました。

これは今、農業では当たり前に行われている常識になっています。そんなに家庭菜園をする方も、在来種かF1種かなどは気にもしていません。

しかしこれを人間の子どもで置き換えたらどうでしょうか?

今の教育や、日本の子どもの育て方はどこかF1種的になっているような気がします。どちらの作物の方が仕合せにその一生を過ごすことができ、どちらの種の方がいのちが充実しているでしょうか。簡単に想像したらすぐにわかります。

私たちの体は食べ物でできています。どのようなものを食べるかは、細胞のレベルでも影響されます。野菜の一生を私たちは取り入れますから、どのように暮らしている野菜かでその栄養だけではなく意識にも影響を受けるように思います。それは量子力学など科学的にも証明されてきています。

子どもたちの未来や仕合せを思うほどに、在来種を守りたいという気持ちが強くなります。保育に関わるほどにその思いも強くなります。子どもを守るためには、環境も一緒に守る必要があります。

引き続き、自分が気づいたことからそしてできることから改善を進めていきたいと思います。

環境とは

どのような生き物も進化していきます。この進化は、植物の種であろうが動物や昆虫であろうが行われていきます。しかもとても速い速度で変わっていきます。それだけ生き物は環境に対して適応していくということでもあります。生き残りをかけて、その与えられた環境ですぐに順応できるように進化を止めません。

例えば、ある動物は人間に飼育されることによって野生で生きる力を失います。人間に守られているという環境に適応するから人間がない生活ができなくなります。どういう動物を野生に戻すとあっという間にほかの動物の餌食になる生きていく術がなく餓死してしまいます。しかし、それを繰り返す中でひょっとしたらまた野生の環境に適応するものが出てきます。そこからは野生の中で生きていく方に進化をはじめていきます。

私たちはすべて身を置いている環境によって自分を育てているともいえます。都会の便利な生活で生きると、都会に合わせて順応しますし山のなかや大自然のなかに身をおけばその生活に順応して体も精神も意識もまた変わります。

そこから少し考えてみると、私たちは環境の中にいて別のものではないということです。自分の存在をその環境の中に移動させればすぐに進化や適応をはじめるということ。その新しい感覚によって自分の何かが変わっていくし、変化をはじめていく。旅行などでも、今までではない場所にいくと自然にその環境に自分自身が合わせていこうとする。

そうやって、環境と一体になるというのが私たちの存在ですから私たちは環境の一部として生きているということでもあります。その環境をつくるのも人間で、私は場を調えることが多いのですがその場において人の進化や変化の姿を表現するものでもあります。

どのような環境こそ、本来の人間らしい暮らしができるか。もともと人間が人格を磨けばどのような環境になっているのかなど、環境の在り方を通して人間の生き方を伝承しているともいえます。

引き続き、子どもたちのために環境を磨いて人間の進化に貢献していきたいと思います。

土と共に歩む 士魂を磨く

いのちというのは、どこから来るのか。それは私は土から感じます。土から新しいいのちは芽生え、そして土に還ります。土は私たちのいのちを支えている存在です。この土とは何かということです。

私たちの住む地球は、天地によって存在します。天は、空であり宇宙です。そして地は土のことです。土がある御蔭で私たちは食べ物を循環させることができ、水を貯蔵することもできています。

植物などは、土からいのちをもらい一生を廻り子孫をつくり循環しています。その植物を食べて私たちも循環しますが、よく観察するとそれは土が巡っているということです。つまりは、土こそ私たちの正体でありその土が豊かであればあるほどに私たちは安心して暮らしていくことができます。

土は、生死のめぐりが豊かであるところほど豊かです。様々な生き物たちが住んでいる、そして共生して生死を無限に繰り返すなかでますます土は発酵していきます。もともとこの発酵というものは、いのちが活かされ、いのちが好循環をするなかで行われていくものです。

自然界では、すべてのいのちが輝き活き活きすることで喜びあえます。土はその喜びを貯蔵したものであり、土があるから新たな喜びが生まれ続けます。農というのは、本来は自然の摂理に生きることです。

農薬を撒いたり、工業化したり、化学肥料を使ったりすることが本当の農ではありません。農的暮らしをするというのは、土と寄り添い、土に生き、土と共に歩んでいくといういのちの道に生きるということです。

私は有難いことに、農的な暮らしを実現されておられた人物との邂逅によってそれを深く学ぶことができました。その方の足跡を私は追いかけ、そしてその足跡の先を往きます。

土とともに、ますます士魂を発酵させてこれからさらに一歩進めます。

ありがとうございます。

尊敬する大好きな人

一昨日、尊敬している大好きだった方がお亡くなりになりました。私の人生にとっては、かけがえないご縁の存在の方でした。自然やいのちのことを学びつくし、何が自然で何が不自然かを知り尽くしておられた方でした。

また自然と同じく、謙虚で足るを知る暮らしをし私の晩年にはこうありたいとベンチマークさせていただくような方でした。いつも変わらずに丁寧に真心を込めて人に接し、優しく親身になって心を寄せてくださる方でした。

実際には、現代の資本主義や消費主義の偏った文明社会の反対を歩まれ、思想家だけではなく技術を持つ実践主義者の方でした。農業の本来のあるべき姿とは何か、そして農的な暮らしの本質とは何か、それを実体験や共有を通して人々の心の中に深く影響を与えておられました。

今では、その方から学んだ生徒たちが日本中、あるいは世界に存在してその生徒たちが指導者になりその思想と技術が伝承されています。あくまで組織にはせず、誤解などおそれずにまるで仙人のような立ち振る舞いで世の中へ改革を促しておられました。それも終始、自然体のままに無理をせずに正直に。

私の人生においては、メンターであり、普遍的な大道を歩んだ偉人の一人として生きた教科書でした。もう生きている姿でお会いすることはできません。今は、私の心の中で魂と一緒に歩んでおられます。そして実践して形になるとき、再会し続ける関係に代わりました。

不思議ですが、以前いただいた言葉はもう私の言葉になっています。そして今は深い寂しさが残ります。同時に大好きな方との有難い思い出に感謝の気持ちが上書きされます。

一度きりの人生の中で、心から大好きで尊敬する人に何人出会え、どれだけ一緒に過ごすことができるのでしょうか。一期一会は、出会いも別れも再会も導きます。今は、このあとの足跡を受け継ぎ、その先へと一歩踏み出していくことに覚悟を決めています。

ご冥福を心からお祈りしています。これからも魂と共に。裏の逝く末をお守りください。