天命を歩む

天命というものがあります。天命を感じるのはどういうときか。それは誰かの評価や価値観などを気にせずに、与えられた場所で自分の本当に好きなことに出会いその喜びを深く味わっているときに感じられるように思います。理由などなく、すべてをお任せして委ねている喜び。そして心がいっぱいにその今に充たされていきます。

なぜその光景が観たかったのか、なぜその景色に出会えると確信していたのか、あとになって考えてみると「そうしたかった」だけです。理由などは後付けですし、困難や不安や恐怖などは感じていてもどこ吹く風のように流れていくだけ。やっている最中には、ただ偉大な存在と一緒一体なっているという感覚。周囲の嫉妬や批判、差別やプレッシャーもそんな時に当てられてしまいますが、純度の極みのようなその状態に誰も止めることはできません。

そもそもさらによく考えてみると、子どもというのは本来はそういう存在ではないかと思います。子ども心に純粋にやりたいと思ったことを、そのまま思いきりやらせてあげること。それは天の命に素直であることです。そのやりたいことは、完璧にはできなくても今の時代ならこういうやり方があると環境を調えたり、周囲のことを考えて喜びになるのならこうやったらいいと仕組みを整えたりと、色々と大人は工夫するのです。

やってはいけないとそれぞれの天命を尊重しなくなったのなら、人間はその瞬間に仕合せを感じられず人間らしさを失っていくように思います。ある意味で、先人たちの声や子孫たちへと遺してくださった生きざまや言葉もまた天命を生きることの大切さを忘れないようにと伝承してきたものです。

子孫たちはその姿から未来を安心し、魂を発揮させて一度きりの地球の楽園での生を全うしたのでしょう。天命に生きる人はそれだけ仕合せですが、同時に周囲にも本来の仕合せを甦生していきます。

私は私の天命を歩んでいきたいと思います。

つながりを磨く

人と人とつながりというのは、不思議ですが古い場所に新しい人たちが入ってくるというつながりがあります。都会では、みんな新しい人たちばかりでしたが田舎にいくともともといた人のところに新しい人が入ってくるものです。その関係において、私は都会にも田舎にも、そして故郷に帰ってきていますから両方とも体験しています。

むかしは家を形成して、その範囲や親類、縁故のなかで人はつながりました。出家などをすると、それぞれの場所で生きていきますがそれも稀なことでした。村では村としての縄張りのようなものがあり、それを分け合い、時には争い生きてきました。

それぞれに生き物には、自分の生活圏のようなものがあります。エリア別にそれぞれに生活を維持する範囲のようなものがあってそこで生業を持っていました。現在は、インターネットや物流、交通が発達してその生活圏が広い人もいます。貿易商人、いわゆる商社などは世界の各地とつながり仕事しています。その中では、現地で亡くなり墓地がありそれを現地の人がいつまでも大切にしてくれている場所もあります。

人は、縄張りなど目先のことで争いはあっても長い年月の歴史を顧みると貢献しあったり、助け合った関係は子孫へとあるいは、その場所の新しい方々とつながり続けているのです。

そこから私が感じるのは、決して古くて懐かしい場所や祈りの石像など、あらゆるものはいつの日はまた別の人々とつながり大切にされていくという確信です。この時代は、消費文明で無縁社会というか人のつながりが希薄だとされています。特に田舎では、新旧の人たちの関係が難しいともいわれています。しかし、それは一時的なものであってまた人間はそのつながりを取り戻していくものです。

そういう長い目でみて物事を捉えていけば、目先の縄張りのことなどで争わない方を選び、尊重したり譲ってもいつかはまた素晴らしいつながりが子孫たちによって結び直されていくことを直感して安心できるものです。

経年変化というのは、本当の繋がりを甦生させていくものです。

子孫たちに託していくからこそ、今も私は心穏やかに和やかに丁寧につながりを磨いていきたいと思います。

石のお手入れ

昨日は、守静坊の工事を行いました。人数がいないとできないことばかりですが、大工さんはじめスタッフの皆さんと一緒に取り組んでいると心地よいチームワークに仕合せを感じます。

むかしはこうやって、みんなで知恵を合わせて助け合って作業をしていました。そして一つのものをつくりあげてきました。家を建てることや家を治すには、本当に多くの人たちが関り、その中で家族をもって一家の仕合せを願いました。

あの時、皆さんに助けてもらったという記憶や喜びはいつまでも場に遺り、その場をあたたく包んでくれるものです。そのぬくもりの中で暮らしていけることは何よりも仕合せなことです。

宿坊のお手入れをしていてもっとも興味深いものは石組みのことです。石垣をはじめ、あらゆるところに石が活用されています。土を少しでも掘れば石だらけです。石だらけで作業が進まずに嫌になるように思いますが、その石を邪魔ものにするのではなくその石を活かしています。石を活かしている建物だから、あちこちに石をうまく活用した環境整備が施されています。

私は特に石組みを勉強したことはありません。しかし先人たちがどう組んでいるのか、そして石はどうされたがっているのかということを観察して配置していきます。違和感があれば、それを直します。そうしていると、石にも意思があることに気づきます。

例えば、もっとも安定するように置いてほしいことや、どちらを上、どちらが下などの向きがあること。また場に対して、どこを中心にするか、個性があります。そういうものをよくみて、配置していきます。風の通り道や水の通り道、そして光が当たる方まで気にしています。植物や苔との共生をはじめ、割れているところなどの配慮も必要です。

石のお手入れはとても心が静かになるものです。引き続き、子どもたちに石の豊かさを伝承していきたいと思います。

梅雨の味わい

アジサイやアヤメの花が満開で雨に濡れて水の気配を引き立てています。梅雨に入ったころでしょうが、長雨が続き水気が増しています。今日は久しぶりに晴れて明日からまた雨ですが、せっかくの晴れ間に進まなかった宿坊の工事が集中して行われる予定です。

そもそも梅雨というのは、どういう言葉でしょうか。調べてみると、中国から由来した言葉で江戸時代には「つゆ」と呼んでいたとあります。日本歳時記にも「此の月淫雨ふるこれを梅雨(つゆ)と名づく」と出ています。

この梅雨の感じの梅は、もともとは梅ではなく黴(かび)からともいわれます。黴の生えやすい季節なので、中国では「黴雨(ばいう)」と呼んでいたそうです。それがイメージもよくなかったので別の響きで梅の字を当てたということや梅が熟す季節の雨だから、梅雨ともしたともあります。中国語は、つゆとは呼びませんが日本では露から来たともいわれます。食べ物がダメになるから「費ゆ」は「潰ゆ」となったとも。

どちらにしても、青い梅や熟した梅を連想しやすい梅雨の季節の雰囲気にぴったりのの言葉です。

この時期はよくみると、陰気の中に強い陽気が働きます。植物たちや野菜たち、お米や茄子などもこの時期を待っていたとばかりに成長していきます。私たちは水によって生きていますが、水が大量に動き働く季節に私たちはその成長を促されていきます。

カビ対策は大変ではありますが、生き物たちが活発に成長しあう大切な季節。この季節の味わいを楽しんでいきたいと思います。

葛と見え方

宿坊の周辺の木に蔓が巻いていてそれを一つずつ取り除いています。長い年月、人が住んでいませんでしたからあちこちが蔓植物に巻き込まれています。このつる植物が巻き付くと、木も捻じ曲げられたり、枯らされたりもします。家にまで入ってくるものもあれば、屋根を含めまるごとのみこむものもあります。

この蔓というものの生態は、とても厄介で何回も取り除いてもこの時期に出てきます。実際に自然界では共生の原理が働いていますが、わかりやすいものもあればわかりにくいものもあります。ひょっとすると、木自ら求めて蔓を巻かせているものもあるのかもしれません。

山の中では、あちこち蔓が巻いていますから木の高い方で大量に巻き付いていると剪定がとても大変です。また倒木するにも、蔓があちこちにひっかかっていますから木も倒せません。

台風や災害などあれば、この蔓が支えることもあるのかもしれません。しかし葛などは木にとっては、あまりメリットがあるようには見えません。作業をすると苦労ばかりです。

しかしむかしの民芸などを観ていると、この葛をつかって様々な生活道具に活用してきました。強い紐やロープのような役割をしあちこちで活用されています。縄文時代においては、この葛は家や道具に使われたのかもしれません。

人はものの観方次第で、どうにでも活用することができます。ただの厄介者とみるのか、ちょうどいいとありがたいと感謝でみるのか。ないものねだりをするのか、足るを知るようなあるものを活かすのかでは全くその結果も変わってきます。

山にいると、色々なものの見え方を学び直します。子どもたちに、山で学んだことを伝承していきたいと思います。

祈りの喜び

昨日は、英彦山にある烏尾観音堂のお手入れと甦生を遺志を持つ方々のご家族と一緒に行うことができました。法蓮上人が観音霊場をはじめたとされるとても大切な場所で、この場所を守り遺そうとする方々の想いに触れることができました。

場所というのは、単なるplaceではなく、そこには今も生き続けている歴史がある場です。場というのは、想いが宿る場のことです。何百年と連綿と続けられ人が祈り続けていた場所には人々の想いが生き続けています。最近、場の量子論をはじめ量子力学の解明によって場は空であるけれど空ではないということ。つまり中庸として目に見える物質的なものと、目にはみえない不思議なものが共に存在することが観えてきています。

今の時代は、物質文明で物質主義ですから目には見えないものは怪しいと思われます。しかし、本来、空気も気体も、風も光もよくよく科学で観察したら目に見えないものの集合体であることは誰でもわかります。むかしの人たちは、その目には見えないけれど、五感や六感で直感的にその存在を感じとる感性を研ぎ澄ませていたように思います。

その一つが、祈りというものです。

祈りに触れるためには、自分をまず清浄にしていく必要があります。その清浄になるには、色々な澱みや穢れを洗い流す必要があります。つまりは、自分の心や目が何か清浄であるか、何が透明であるかを感じる感性を研ぎ澄ます必要があります。そのために、人は己を磨き、場を磨き、志を磨き合うような関係によって場を調えるのです。

場を調えれば、自然に目には見えないけれどそこに生き続けている何かに触れることができます。昨日も、みんなで徹底して掃除をしお堂を磨き、清らかに無心に没頭することによって瞑想のような心地で磨き合いました。磨き合うことで、心は研ぎ澄まされ、晴れやかで清らかな気持ちになって喜びを分かち合いました。

本来、私たちは嬉しい仕合せ、楽しい感謝しますという心地のときに祈る喜びを感じるものです。祈りというのは、つらいことや悲しいこと、大変なときだけにするものではなく、日頃の喜びを味わうように行うものです。

偶像崇拝のように形ばかりを祈るのではなく、自分の心の中にある真の喜びに触れる祈りがこれからの時代には必要になってくると確信しています。子どもたちに伝承が結ばれ、子孫たちが喜びに生きられるように丁寧な暮らしと甦生を続けていきたいと思います。

煙の価値

宿坊では囲炉裏での生活が中心になっています。私はもともと炭を使うのが好きで、炭での暮らしをしますがここでは煙を使う暮らしが増えています。もともとむかしは、今のような電気も水道もない時代でしたから煮炊きなどは山の水を汲み、薪をつくり火を熾していました。日々の生活の中で、火を使い水を沸かす。こんな当たり前のことを繰り返しながら、住んでいる家も一緒に生活を守っていたように思います。

もともとむかしの古民家は、藁ぶきやかやぶきの屋根でしたから煙で燻すことで家を強くしていきます。煙には防虫や防水効果などもあり、家を燻すことで家を長持ちさせたのです。

また料理も、秋田の郷土料理のいぶりがっこのような沢庵を燻したもの。あるいは鰹節や燻製の料理のように保存するために囲炉裏の上を使っていたのです。さらには、衣服をはじめ腐らせたくないものや長持ちさせたいものも煙を使いました。この煙というのは、お香をはじめ身近にありますがあまりその効果や素晴らしさを認識している人が少ないように思います。

もともと煙が出る理由は科学的にいえば、酸素が足りないという不完全燃焼から起こることです。煙は気体ではなく、液体や固体であり水蒸気をはじめ不完全燃焼のものが目に見えて現れることです。酸素が十分に足りていたら炎になりますのでほとんど煙はでません。ガスの火も同様に煙はでないのは完全燃焼をするからです。

つまり煙とは何か、それはもともとあった物質を火によって別のものへ転換したということになります。私は宿坊では、杉やひのきの葉、あるいはヒバのチップなどをよく煙を出すために使います。これは屋根の防虫効果を高めるためです。もしも体によいものを浴びるのなら、よもぎなどのハーブを使います。

アフリカにヒンバ族という美しい先住民族がいますが、あの民族もお風呂は煙で燻すようにして煙浴というものを行います。実際に、煙に燻されると木酢のような薫りが体に染みつきますがこの御蔭で虫が寄ってきません。

虫にとっては、煙というものは火を連想させるもので嫌いなのでしょう。また菌やウイルスなども、煙のバリアが苦手なようであまり寄り付かないともいいます。

香水もお香も元々の原理は、この煙で燻すことから発展したものだと私は感じます。私は石風呂やサウナもつくりますが、特に大事にしているのはこの何を転換して何を浴びるかということです。

私は英彦山にいますが、ここの空気を毎日浴びるだけで体が健康になります。それはこの場所の水を浴びているからです。私たちが気体だと思っている無色透明なものであっても、そこには物質があります。その転換された物質を吸収することや浴びることでその気を纏うことができるのです。

今の時代、目に見えるものばかり、また転換していない便利な物質ばかりのなかで生活していますがもっと本質的に先人の知恵を浴びる必要性を感じています。子どもたちにこの煙の価値をこの場所で伝承していきたいと思います。

縄文の心

縄文のころの台所を甦生していますが、もともとの暮らしから見つめ直しています。そもそもその頃は、土の中で火と水と草や木々を上手に活かして暮らしを紡いでいました。土に何の力があり、火に何の力がありと、それぞれの持っている神秘性を感じながら組み合わせに感激し、不思議な力に感謝していたように思います。

現代では、火も水も当たり前に認識し、科学の力で便利に活用しています。しかしそれは物としてのあるいは、科学的なものとしての見え方であって神秘性を常に見ていたのではないように思うのです。

先人たちは便利ではない暮らしの中で、便利ではないものを観続けていました。その便利ではないものとは、不思議な力を持っているもののことです。不思議な力を観続けているなかで、自分に具わっている不思議ないのちにも感性が反応し続けていたように思います。

例えば、なぜ息を吸うのか、なぜ耳が聞こえるのか、なぜ排せつや涙がでるのかなどもです。それを知識として理解していたのではなく、神秘なものとして理解していたように思います。その神秘の理解は、次第にすべてのいのちが遠くからきて循環していたのに気づいたようにも思います。

なので男岩や女岩などの性器の形をした岩などをお祀りしますが、身体の一部にとても不思議な力が宿っていると直感したのです。

むかしは土にどのような力が宿ったと思ったのでしょうか。なぜ土の中でいのちが再生すると思ったのでしょうか。自然を観察していたからだとも思います。

今回の縄文キッチンから、その縄文の心を伝承していきたいと思います。

陰翳の生き方

陰翳というものがあります。この陰翳の翳の字は、手や物などでおおうこと。おおって陰にすること。また、そのもの。あるいは、おおうように手や物を上や前に置くこと。また、そのように置いたものとあります。そして陰という字は、「丘」「雲が太陽を覆い包み込む」の象形から成っています。 そこから「くもり」や「かげ」の意味で使われるようになったといいます。

この陰翳という言葉で有名なものは『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)というものがあります。これは谷崎潤一郎の随筆でまだ 電灯がなかった時代の今日と違った日本の 美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風 雅 の骨髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたものです。

私がよく陰翳を感じるのは、古民家での暮らしです。常に薄暗いつくりになっていて、どこを観ても陰翳が映り込みます。わかりやすいものは、障子です。障子から光が透けて物に反射するとき私たちはその陰翳を感じ取ります。ぼやりとしたうす暗い中に、何かの存在が浮き上がっています。

私はこれを中庸であると感じています。

はっきり見えない、そして見えないわけでもない。その二つの中間にあるもの、それが陰翳なのです。私たちは目を強くすればするほど、見れば見るほどに物質界の影響を強く受けます。そして目を閉じれば閉じるほど今度は霊界や幽界といった想念や空気の影響を受けます。しかし陰翳の中に入ると、その両方が見事に合わさって感じられるものです。強く見すぎず、見えないわけではない。こういうものの感じ方や見え方が私たちの精神を磨いてきたように思います。

私が甦生するものはすべて陰翳が入ります。それは観に来てもらえれば一目瞭然です。その理由は、いつも私はそのもののいのちと対話し、そのものが甦生するように取り組んでいるからです。

これは生き方であり、実践でもあります。徳というものもまた、その陰翳の中に存在するものです。陰翳は、決して影ではない。真の陰とは、本体を映し出すものです。その本体とは、磨き抜かれた魂のようなものです。

この世のすべては季節をはじめ、様々なご縁と結びついて陰翳が顕現しています。その陰翳を如何に感じて大切に生きるかは、日々の暮らし方によります。先人の生き方に倣い、暮らしの中の知恵を集めて子孫へと伝承していきたいと思います。

天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。