変化を見つめる

常識というものは、その時、その集団によって信じられた認識であることは間違いないことです。歴史、また科学も何回も常識が変わります。この常識を信じ込むというのは、誰かがこうだといったものを鵜呑みにすることで発生します。

例えば、権威のある人や教育者、あるいは権力者やテレビによく出る人などが語れば誰も考えずにきっとそうなんだろうと信じることがあります。これをまた別の人が聞いて、3人以上からまた聞きすればそれが本当のことだと信じるそうです。

そもそも本当にそうだったかというのは、自分の目で観て触るなど感覚で理解していくものです。そういう感覚を使わずに、頭でっかちに情報を鵜呑みにすることでさらにこの世は常識で塗り固められていきます。

マスコミやメディアは、常識を保つために活動しそれを見る人たちはその常識が壊れないように行動していくものです。

しかし現実は、常識とは異なることが多々出てきます。その時、人はハタと気づいて目覚めていく人と、きっと何かの間違いだろうと無理をしてでも常識に合わせていこうとする人に分かれます。

どこか遠くで起きていることでも、さも自分が影響を受けるように勘違いしたり、身近で現実に対応していることが他所の人には滑稽に映ったりするものです。

常識というのはそれだけ力を持っています。周りを信じ込ませることができることが世界を創るということにもなっているのでしょう。環境問題なども、人間が思っている常識と自然界の現実で発生することが異なっていたりもします。地球温暖化なども、みんな二酸化炭素が増えてと信じていますが本当はもっと別の理由があるとは思わなくなってきます。対策を立てて行動していこうとするのは大切かもしれませんが、常識によって現実がわからなくなる方が問題だとも思います。

当たり前というものや、世の中の常識を疑ってみるというのは自分の感性や感覚を頼りにすることです。私は直感を磨いていますが、つい忙しかったり疲れたりするとすぐに目からの情報や他人が調べたことを便利に使おうとします。しかしそのことで失うのは、常識の影響を受けてしまうということです。

本当にそうか、そもそも違うのではないかと、常識を見直すことで自分の中にある本質を観る心が養われます。いちいち考えて大変という人もいますが、本当は今の時代は学びの削除であったり、常識を毀す努力こそが必要な時代だと感じています。ますますこの世は情報によるコントロールや変化に巻き込まれて時代に入っています。

常識に流されないことが生き残るための知恵にもなります。知恵を磨き、変化を見つめていきたいと思います。

徳の循環と目的

懐かしい暮らしをしている人たちがいます。その方々は、その土地の風土と一体になって祖父母やその先の先祖が辿ってきた道の延長線上に同じような暮らしを現代でも試行錯誤しながら続けています。

産業は発展し、機械化も進んでいきますがそこは風土に見守られ、風土を見守り、節度をもって謙虚に暮らしておられます。お金にはならなくても、とても豊かで幸せな生き方を実践されている方々です。

私たちは百姓というと、何か農民で農業だけをするイメージですがこれは中世のころからそのように定着してきました。本来は、それぞれの姓を持つ公民ともいい、あるいはたくさんの職種や仕事を熟すエキスパートのような存在もいました。

むかしは、一つのことだけをするほどに余裕があるわけではなくあらゆることを熟しながら暮らしを維持してきました。専門職でなくても、それぞれの得意を活かしあって共にその風土の豊かさをいただきながらその自然から与えてくれる利益によって暮らしを味わっていきてきました。

自然の恩恵というものは、人工的につくりだしたものではなくまさに自然界が協力し共生しあって貢献することによっていただける徳のようなものです。その徳をみんなでわけあって循環することで私たちはこの地球で喜びと仕合せで暮らしを永続していく知恵をいただいてきました。

その自然の知恵を人間が勝手に使っては、徳を貪るように消費していけば地球での喜びや仕合せは持続できません。そのうち、徳が減れば減るほどに悲しみや不幸、苦しみが増えていきます。この世に陰陽があってバランスが保たれるように、極端に何かを貪ればその因果が応報して訪れます。

むかしの人はそうならないようにこの世の徳の循環をよく観察して、自然がバランスを保ち続けられるように人間に与えられた徳の役割を真摯に果たしていくことに集中してきました。

その証拠こそが懐かしい暮らしの中に、たくさん遺っています。

時代が変わっても、生き方は変わらない人たちはいます。何のために自分の生を使っていくか、それを覚悟して生ききる人たちがいるのです。百姓が今でもあちこちにいて、それぞれの志で一隅を照らしています。

そういう人たちが協力していきながら、むかしからの道を甦生させていくことが子孫のため、人類の明るい未来を創造していきます。私に与えられた天命は何なのか、よく深めていきたいと思います。

錆びない関係

私たちが今、観ていて現存している遺跡や寺院などはそれを守る人たちがいて存在しているのがわかります。歴史を調べれば、何度も荒廃し衰退する時節があったことがわかります。先日、ある国宝の寺院を見学する機会がありましたがその場所も一時期は屋根や扉が崩れ風雨に晒され破壊される寸前に人が住み守り甦生した場所でした。

誰かが現れては、その場所を守る。そしてその場所は、先人たちの遺志を守る場所とも言えます。形が壊れても、壊れていないものの存在を感知することができる人たちによって守り伝承されていくのです。

不思議なことですが、たくさんの想いのある人たちが活動した場所や、強い祈りや願いをした場所、みんなで磨き合ってきた場所には想い出のようなものが残っています。この想い出というのは、毎日消えていくようで実は面影のようなものがその場所に累積しているものです。それはその場所との関係性があり、その場所の他のものたちとのつながりによって感じられるものです。

調和というものもまた、長い時間をかけた関係性によって育まれていきます。

その関係性はお手入れによって甦生しますから、丁寧に錆びない関係を磨いていくしかありません。あらゆるものは、自然に淘汰されていきます。どんなものでも風雨風雪に晒され朽ちていきます。そうならないようにするには、その都度、それに気づいた人が新しい関係を結んでいく必要があります。

それまでの関係を尊重しながら新しい関係を結んでいくのです。

そうやって連綿と思いや関係を結んでいくなかで、想いは伝承されていきます。思いが伝承されれば、その想いはより洗練され、そしてシンプルになり強く広がるものです。

子どもたちのためにも、そうあるような自分で生きていきたいと思います。錆びない関係を磨き上げていくために、自分の覚悟を実践していきたいと思います。

本来の歴史

歴史のある場所を訪ねていると、つい何年前のものかということを意識して考えてしまいます。10年くらいならまだしも、100年、あるいは500年、1000年、もっと前の2000年前のことになると頭では考えられなくなります。特に古代のことになると、1万年や10万年などというとほとんど想像ができません。

自分の人生の時間軸で物事を量ろうとしても、それは量れません。例えば、重量計で載せられる範囲のものはわかっても載せれないほどの壮大なものであったなら私たちはそれを計算で量りますが実際の量は頭で計算した分であり感覚的にはピンとこないものです。

それだけこの世の中は、頭では量ることができない感覚的なもので存在しているのです。歴史も同じく、私たちは時間を量れません。そこに流れてきた経過、そして生き続けている今を量ることはできないからこそ感覚的に感じて近づいていくしかありません。

これは自然に近づいていくことにも似ています。宇宙を量るときもあの膨大で無限に存在する星々をどのように認識するでしょうか。教科書にあるような星座や銀河を想像してもあまりピンとはきません。吸い込まれるような大きな闇に感覚的に近づいていくとき、その無数の星々と一つになります。自分が星になり、星が自分になるかのような一体感があってこそその場に溶け込んでいくことができます。

分けている世界ではなく、分けていない世界に溶け込んでいくのは感覚を用いるものです。この感覚を研ぎ澄ませていくことは、目には見えないもの、また頭では量れないものを感受する仕組みです。

古代の人は、また数千年前、数百年を生きる歴史の人たちはこの感覚の世界に存在していて今も生きています。これを理解するのは、感覚で近づいていくことですがこれをすることが修行の本懐であるようにも私は思います。

子孫のためにも、甦生を続けて本来の歴史を感覚を研ぎ澄ませる仕組みをもって伝承していきたいと思います。

生き残る知恵

これだけの激しい気候変動が世界中で発生していると、その災害に直面した人々なら必ず何かに気づくものです。偶然にたまたま仕方がないと思うのか、それとも何か私たち人類は間違っていないかと思うのかではそのあとの行動が変わってきます。

謙虚さというものは、気づきからはじまるものです。何か間違っていないか、自分たちはこれでいいのかと反省するときに自然からのメッセージを受け取れるように思うのです。

現在、また大型の強い台風がこちらに向かっています。先月、英彦山では観測史上最大の雨量を体験して水がかつていないほど膨大に空に集まっているのを感じました。道はほとんど土砂崩れでまだ復旧していませんし、宿坊への道もところどころ陥没して今それを修復している最中です。

この水の量が増えた理由は、色々と科学者は理由を並べますが直感的には北極や南極の氷が溶けたことが発端ではないかと私は感じます。あれだけの氷が海や空に流れ込んだのだからその分、激しい水害が各地で発生するはずです。

地球はバランスを取りますから、熱くなれば冷えて、冷えればまた熱くなります。同時に、水の量が換わればそれにあわせて自転するリズムも循環する時間も変わってきます。

海流は変化し、風の流れも変わります。そうすれば地中の脈動やマグマなどの配置も変わっていきます。人間の身体のように、絶妙なバランスで健康を保っていますから変化するのは当たり前です。

人間はだからといって自然の前では無力ですから、謙虚にみんなで知恵を絞って対応していくしかありません。あまり自然を刺激しないように、自然の絶妙なバランスを壊さないようにと、本来は自然の一部として自然からいただける恩恵をみんなで分け合って永遠に生きる道を選択してきました。

今では、もっともっとと足りない方ばかりを追いかけて地球の資源を奪い合うなかでついに自然が黙っていない状態に入ってきたということでしょう。生き残りをかけて、地球のいのちたちもこれから真摯に適応していきます。どのような生き物たちが篩にかけられて生き残るのか。それは生き残るものたちから学ぶことが大切です。

何億年と続いてきた気候変動のなかで、生き残れているのは運のよさです。今も運のよい生き物たちが一緒に生き残っている存在ともいえます。では彼らは何が運がよいのか、もう一度よく観察していく必要を感じます。

引き続き自然も喜び、自他も喜び、先祖や子孫が喜ぶ生き方とは何か、その徳を学び直していきたいと思います。

気候変動と謙虚さ

先日、世界気象機関(WMO)などが今年7月が観測史上最も暑い月となるとの見通しを示し「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と警告されました。

世界ではこの観測史上最大のあらゆる気候変動が発生していて、特に今夏においては生活するのに限界を感じるほどの猛暑日や熱波が続いています。落雷も過去にないほどの巨大で地響きがあり、水害も雨の量をみてもかつてないほどです。台風をはじめこれにもし火山の噴火や地震が加わったらと思ったらぞっとします。

そう思うと、私たちの住む地球はこの気候変動に対してどのように対応しようとしているのか。この気候変動には、太陽をはじめ銀河系、宇宙との関係もあります。ある一定の周期で、気候変動は常に発生してきています。同時に、人災ともいえる温室効果ガスによる環境破壊。これはガスだけの問題ではなく、あらゆる場所を人工物にし生態系が失われたことによる悪循環による地球のゆるやかな自浄効果の遮断でもあります。

自然に対する謙虚さを失うことによる気候変動は恐ろしいものです。

もともと人類は、気候変動ということにとても敏感でした。自然との共生の中で、雨が降らないことへの恐怖や逆に太陽が現れない恐怖、長雨による問題や熱波による問題で何度も食糧危機を体験してその怖さを身をもって実感してきました。

ここ数十年の間、私たちは気候の変動には対応できるほどに科学の力で一時的に乗り越えたようにふるまってきましたが実際には自然の猛威の前にはなすすべもありません。

以前、東日本大震災の津波によって目覚めた人たちがたくさんいました。そこから自然への畏敬を思い出し生き方を換えた人たちです。私もその一人ですが、今もあの時の自然のメッセージを忘れることはありません。

人間は環境に適応する存在ですが、もっとも忘れてはならないのは初心でありいつまでもその時のメッセージを持ち続けて油断なく実践を続けていくことだと思います。暮らしフルネスも、今では一つの幸福論のようにしていますが本来は子孫のために如何に知恵を伝承して継承していくかを実践によって取り組むものです。

自然の前では私たちはとても小さな存在です。私たちにできることは、小手先の科学に胡坐をかくことではなく運を高めるために謙虚さを磨くことだと感じます。

子孫のためにも、日々に気候変動のメッセージを真摯に受け止めながら感謝で歩んでいきたいと思います。

自己の変化

時は変化し続けて変わり続けます。むかしの地理や今の地理を比べてみてもわかるように、自然も変わり続けます。よく考えてみると、太陽系も移動し宇宙の配置も変わり続けているのだから変わらないものなどありません。

変わらないはずはないのですが人間は、目先の変化にばかり囚われてしまうものです。この数十年でも科学が進歩してあらゆるものが変わりました。その中には、生活習慣というものの変化もあります。

自分が子どものころは、まだコンビニもなく携帯もパソコンもインターネットもありませんでした。こんなに車もなく、ほとんどバスや自転車での移動でした。道も舗装されていない場所だらけでしたし、電気や水道、ガスもまだあまり通っていませんでした。今では各家庭に何台も車があり、空調も各部屋にあり便利さという意味ではほぼ完璧です。

世界は人口が80億人に達したともいわれます。人間の寿命ものび、病気も感染症などもほとんど解消していきました。食料も産業革命以降は、大量生産し大量消費することで解決していきました。物流も整備され、衣食住あらゆるものは豊富になりました。これ以上、便利にしようとするとどうなるのか。人間が仕事をしなくても、AIがすべて代わりにやってくれて人間はただ遊んで暮らしていけるような状況になっていくのでしょうか。

追い求めていた欲望の果てが今の世の中です。そしてもっともっとと、さらに人間は進歩を続けます。今度は宇宙を開発して、さらなる富や財産を増やしていこうとします。寿命もさらに追い求めて不老不死を目指すでしょうし、病気は根絶を求めるのでしょう。追い求めていく先には、常に争奪戦が繰り広げられていきます。無限の資源はこの世にはなく、すべて限られた中で分け合う仕組みになっているものです。分け合うよりも奪い合えば、奪った方は裕福になりますが奪われた方は滅亡していきます。

宇宙は絶対的な法則のようなものがあり、陰陽に因果応報、絶妙にいのちのバランスを保ち続けています。片方がそのいのちを奪取すれば、そのうちその反対の方も奪取されます。奪い合えば奪われ、与えれば与えられるというのは循環をするこの世の揺るがない法則です。

近代の文明は、なくなったらもっと多くを持つ方へと侵略することで富を保ち続けてきました。最初は小さな村だったものが、それがやがて集合し国になり連合しさらに大きな国家共同体になりさらに別の国を奪取しては拡大を続けます。拡大を続けていく国はそのうち限界がきて最後の奪い合いをして滅びます。

便利さというものは、さらなる欲望を駆り立てていきます。奪った分だけ便利になっていくからです。自然から奪ってきたものは何だったでしょうか。人間から奪ってきたものは何だったでしょうか。時間から奪ってきたものは何だったでしょうか。奪われたものたちの仕合せはどこにいったでしょうか。

虫や草、木々など人間以外のものにも仕合せはあります。地球にも宇宙にもあります。本来はみんなが与えあい共生しあえば、永続する未来はあるものです。奪い続けてまだあるはずとここ100年間、みんなで国力をあげるために争奪してきましたがそろそろ枯渇してきました。ここから100年どうするのか。さらに地球の隅々まで探しては奪い合うのか、あるいは宇宙に探しにいくのか。心配なのは、便利な生活に慣れた人々が生活を落とせないと持っている人たちのものを奪うために暴力を過激化していくことです。

この先、100年、300年、500年がどうなっていくのか。

子孫のために自己を磨いていきたいと思います。

心の鍛錬

人はリラックスして安心しているときにしか観えない景色というものがあります。逆に追い込まれて追い詰められて余裕がない時の景色というものもあります。誰もが経験したことがあると思いますが、いくら自然が美して奇跡のような景色と出会っても心が忙しかったり余裕がなかったり、あるいは不安や心配、病気でつらいときなどはなかなかそれを美しいと感じることができないものです。

反対に心がゆとりと余裕があれば、どんな些細な景色にも感動して感謝し美しいと感じるものです。それだけ人は心の状態で観える世界が変わっているということでもあります。

たとえば、実際には現象や事実は変わることはありません。今日も太陽が出て、猛暑になるようにこれは事実であり現象です。それをどう心が抵抗しても事実も現象も変わらないのだからどうしようもありません。しかし心の持ち方をそういう時に転換して、ゆとりや余裕があればこの猛暑を楽しもう、あるいは対策を立てて活かそうと思うものです。

同じ事情や現象があったにせよ、心の状態で追い込まれる人とそれを楽しむ人がいるというのが存在します。大変な時に、それを楽しもうとする人、それを活かそうとする人、あるいは絶望する人、追い詰める人がいるだけです。

人は忙しくなったり、余裕がなくなると心が追い込まれます。そうならないようにするには、ゆとりを持ち、安心することが大事になります。ではどうやってその環境や状況をつくるのか、それは心の持ち方を換えることです。簡単ではないですが、人間万事塞翁が馬ということわざを感じたり、足るを知りある方を観たり、あるは拠り所をするものをご縁であったり繋がりであったり、天であったりすることです。

どうしようもないものはどうしようもなく、できることはできるものです。なんとかなってなんとかできるときもあれば、なんともできなくてなんとかならないものもあります。

できていない方ばかりをみて悲嘆にくれるのか、あるいはできている方をみて感謝して歩んでいくのか。それは自分の意志で決められることです。時間をかけて取り組んできたことは、自分への信頼になりますし自信にもなります。

挑戦してきたこと、頑張って精進してきたことは力になります。真心を使って一つ一つを誠実に取り組んでいくことに間違いなどはありません。他人軸での評価や評論よりも、自分が経験して学んだことの方が価値があるものです。

子どもたちや子孫のためにも、その生き方、そして死に方を実践していきたいと思います。

弱さを力に

弱さというものがあります。現代では弱さをどこか悪いことのように差別的に使うことがあります。弱者救済も本来は、当たり前のことですがそれが特別なことをしているかのような表現をしたりします。弱さを否定する世の中になればなるほどに、助け合いや見守り合いという関係は失われていくものです。

本来、弱さというものは思いやりの力を引き出すものです。そして力の本質とは何か、それは守ることであり思いやりを発揮することのことです。腕力などの力というものは、力の本質ではないように思います。弱さをどう補完し合うか、そこに本来の力の意味があるのです。

私たちは幼いころから強くなるように刷り込まれてきました。その強くなるということは、力を持てともいえます。よく見かける力は、お金を持ったり、権力を持ったり、喧嘩や暴力であったり、独裁者にみられるあの力です。しかしその力は、本当に強い力があるのかというと怖さや不安や欲望からくるものでありそれもまた弱さの一つではないかと思うのです。

核戦争なども同様に、なぜ力を求め続けて最後に戦争になるのか。本来は、弱いからこそ助け合おうとしているのなら核戦争にはならないはずです。どこで話がズレているのか、そこには国家というもの、強い国家にするという政治的な営みが関係していることに気づきます。

人類は国というものを形成する段階で、強い国になることがいいと教育されます。一昔前は強い軍隊や兵器でしたが、今は経済力になっています。強弱という意味も、権力や暴力の強弱ではなく思いやりというものの強弱があると私は思います。強くても弱くても思いやりを持っていること。つまり信頼しあうという力を発揮するとき人は人間力が磨かれ徳によっていい世の中を実現していくということです。

歴史は何度も繰り返して悲惨な戦争を続けます。しかしその傍らに、仁や思いやり、そして徳治政治を行った君子たちも存在したこともわかっています。いつの時代にも戦争はなくなりませんが、今の戦争は地球規模での損害を与えてしまいます。

人類は意識をアップデートして、みんなで自立していく必要を感じます。まだできることはそれぞれにたくさんあります。今いるところから弱さを力にしてみんなで相互扶助の世界をつくっていきたいと思います。

徳とは何か。

徳に関することわざの一つに「陰徳あれば陽報あり」という言葉があります。中国の思想書『淮南子(えなんじ)』に由来する「陰徳有る者は、必ず陽報有り。陰行有る者は、必ず昭名有り」から抜粋された言葉です。

そもそも徳とは何か。

言葉で語られる徳というものは、形があるようでなくなんとなく一般的に人間では善行のことを指すように言われます。しかし実際には、自然界で行われているような当たり前のことを実践することをいうように私は思います。

それが徳の本体です。

この当たり前に行われているというものは、この淮南子の文中においては山が雲を集めるように、水が深くなると龍を生むように、君子が道をつくるようにと書かれます。つまりは、自然にその徳が循環することをいいます。

そもそも相互扶助という助け合いや思いやりは、弱者のためだけに存在しているものではありません。これは本来、徳を積むものたちで自然に発生してきたものです。この自然に発生するということは何か。それは本能によって行われてきた自然的なものです。別の言い方では、野生的なものです。

私たちの所属している宇宙や地球は徳が循環することでいのちを分け合うシステムが働ています。これは身体の中を分析してもわかるように、全体が一つになって助け合うことで身体を維持しています。現代の医療は、分類わけして臓器を一つずつみたり、専門分野にわけてそれぞれの部位や病気などを診断する仕組みですが臓器が一つ壊れたら他の臓器との連携ができませんから体も壊れます。これは身体の話ですが、自然というものは本来そういうものです。

もともと何がいのちの正体で、どこからきてどこにいくのか。そういうものは哲学のようにいわれますが私からすればそれは徳の話です。本当の幸福や喜び、そして安心や永続はこの徳を拠り所とすることで得られるように私は思います。

歴史上、今の時代こそ、徳が必要な時代はありません。

同じ思いの人たちをどう集めていくか、試行錯誤の連続ですが目覚めて活動する人が増えるように道を丁寧に切り拓いていきたいと思います。