心の鍛錬

人はリラックスして安心しているときにしか観えない景色というものがあります。逆に追い込まれて追い詰められて余裕がない時の景色というものもあります。誰もが経験したことがあると思いますが、いくら自然が美して奇跡のような景色と出会っても心が忙しかったり余裕がなかったり、あるいは不安や心配、病気でつらいときなどはなかなかそれを美しいと感じることができないものです。

反対に心がゆとりと余裕があれば、どんな些細な景色にも感動して感謝し美しいと感じるものです。それだけ人は心の状態で観える世界が変わっているということでもあります。

たとえば、実際には現象や事実は変わることはありません。今日も太陽が出て、猛暑になるようにこれは事実であり現象です。それをどう心が抵抗しても事実も現象も変わらないのだからどうしようもありません。しかし心の持ち方をそういう時に転換して、ゆとりや余裕があればこの猛暑を楽しもう、あるいは対策を立てて活かそうと思うものです。

同じ事情や現象があったにせよ、心の状態で追い込まれる人とそれを楽しむ人がいるというのが存在します。大変な時に、それを楽しもうとする人、それを活かそうとする人、あるいは絶望する人、追い詰める人がいるだけです。

人は忙しくなったり、余裕がなくなると心が追い込まれます。そうならないようにするには、ゆとりを持ち、安心することが大事になります。ではどうやってその環境や状況をつくるのか、それは心の持ち方を換えることです。簡単ではないですが、人間万事塞翁が馬ということわざを感じたり、足るを知りある方を観たり、あるは拠り所をするものをご縁であったり繋がりであったり、天であったりすることです。

どうしようもないものはどうしようもなく、できることはできるものです。なんとかなってなんとかできるときもあれば、なんともできなくてなんとかならないものもあります。

できていない方ばかりをみて悲嘆にくれるのか、あるいはできている方をみて感謝して歩んでいくのか。それは自分の意志で決められることです。時間をかけて取り組んできたことは、自分への信頼になりますし自信にもなります。

挑戦してきたこと、頑張って精進してきたことは力になります。真心を使って一つ一つを誠実に取り組んでいくことに間違いなどはありません。他人軸での評価や評論よりも、自分が経験して学んだことの方が価値があるものです。

子どもたちや子孫のためにも、その生き方、そして死に方を実践していきたいと思います。