自己の慢心

ガダルカナル島の戦いというものがあります。これは1941年12月に開戦した太平洋戦争で旧日本軍は、両国の連携を阻む戦略的な要衝として飛行場を設営したところ1942年8月にアメリカなどの連合軍が島に上陸し飛行場は占領されました。その奪還をするために旧日本軍は何度も部隊を送り込みました。しかし食料の補給もほとんどなかったことから、餓死したりマラリアに感染して死亡したりする人も後を絶たず、島を退却するまでのおよそ半年間で死亡した人は合わせて2万人以上になった戦いです。

このガダルカナル島の戦いを節目に日本が敗戦に向かう転換点だと検証されています。実は私の祖父の兄弟もこの戦いに参加して亡くなりました。戦いで撃たれてなくなったのか、餓死なのか、もしくは自決なのかは知らされていません。

そもそも戦争の検証というものを、敗戦後に日本はきちんとなされていません。戦争を語らないような風潮があり、本来の失敗やあれは何だったのかということを振り返っていませんから改善ができていません。

現代、日本は新しい戦後といって軍拡が進み日本の周囲は怪しい暗雲が立ち込めてきています。

そもそもこのガダルカナル島の戦いは、情報戦や判断の慢心によるように思います。この慢心とは、思いやりが失われているという慢心です。人は守るときにおいて、強くなりますがただ攻めるときは弱いものです。攻めるときは、攻める気持ちに慢心があります。しかし守るときは、人は守るために強くあろうとし謙虚になります。

大切なものを守るためにというのは、その中に日本や家族だけではなく前線で戦う兵士たちのいのちもまた守るためのものです。補給が絶たれ、何度も無謀な突撃をさせ、伝染病やけが人を自決させているような戦いに勝機などあるわけはありません。

先祖が、どのように現地で悲惨な目にあったのかを思うと忸怩たる思いがして戦争の検証をする必要性を感じます。私たちは学校ではこのようなことはほとんど教えられません。すでに終わったこと、平和になって戦争はなくなったかのような空気感です。見て見ぬふりというか、現実を逃避しています。経済でのつながりや結びつきから戦争は終わったと感じるのでしょう。

しかし歴史を検証すれば、どの時代も商売や経済はつながっていても国家間や軍事の戦争は行われてきました。それはそれこれはこれと、戦争はいつでも発生するのです。

だからこそ、私たちは先人たちが体験してきたことを真摯に伝承して今、どうあることが守ることか、どうあることが戦略であるか、そして戦争をどう回避するのかを事前にできる限り取り組むことで真の勝機もつかめるものです。

現代の状況をみていたら、このガダルカナル島の戦いに似た状況になっているのではないかと私は直感しています。餓死、伝染病、突撃に自決。まさかと思うことが、起きるのが歴史です。検証していくことは改善していくことです。改善していくことは、二度と同じ過ちをしないという教訓を生きることです。

子孫のためにも、供養の心をもって自分はどうあるか、自己の慢心を見つめていきたいと思います。