子どもから学ぶ

子どものことを思うと、主体性というものが如何に大切なことであるかがわかります。私の恩師も、先日のセミナーの中で見守る保育には、選択すること、参画すること、自由に遊ぶことの意義を伝えておられました。

そもそも、自分で自分の生き方を決めるというのは私たちがこの世に生まれてきて体験していく醍醐味でありそれを見守る社会というのはこの世の楽園にするための大切な要素だと私は思います。

一度きりの人生を、自分らしく生ききることができるときいのちは光り輝いていきます。それぞれの人には、それぞれの天命や役割がありそれを全うしていきます。そう生きられない、それはしてはいけないと、刷り込まれていくことは人間社会においての不自然さを感じます。子どもは、自然に未来を創造していきます。本来は、余計なことをしなければ自然に調和をし、世界をととのえていくものです。

そこに大人のあらゆる編重した教育や、歪んだ自由を与えられることで、思考停止して元氣が失われていくものです。

現代病の大きな一つは、その元氣さというものによります。こういう言い方をすると誤解されるかもしれませんが、目が輝き、元氣溌剌として魂を全快に愉快痛快に楽しんでいるのが子どもの姿でもありました。生まれてきて好奇心旺盛で、思考は自由自在にのびのびと働きます。

海外の保育を視察した時には、カンボジアをはじめ何か所かの国ではそういうところもありました。日本のむかしも、子どもたちは安心して育つ環境があったように思います。

本来、私たちは自然から自然を学ぶように子どもから本来の子どもを学ぶ必要を感じます。誰かが言ったからや、海外で評価されているからや、科学的だからというものもあるでしょう。しかし、子どもの本来のあるがままの姿をよく観察して学べば、子どもがどうありたいのか、子どもが何を求めているのかを見守ることで本来のいのちの姿を実感することができるように思います。

自然であれば、土や種、そしてどのような環境だと元氣になるのかを学び直します。同様に子どもも学び直せるものです。

時代が変わっても、普遍的な道は変わることはありません。子どもの姿は変わらないものがあるのです。そういうものをよくみんなで学び、保育をさらに磨いていく。私たちは保育の道を提案する会社でもありますから、引き続き真摯に学び続けていきたいと思います。

子どもを思う

問題の先送りというものがあります。これは問題の根本、根源的な理由を解決するのをやめて目先のことだけに対処していくということです。これは対処療法とも言います。確かに、すぐに対処しなければならない問題を対処するのはいいのですがそのうち対処療法だけしかなくなっていくでは問題の先送りになるのは自明の理です。

誰でも人は、大きな問題や時間がかかる問題はすぐに結果が出ないので目の前のわかりやすいことに取り組みます。あるいは、余裕もなくなってきますからとにかく今の目の前のことだけをやろうとしていくものです。

しかし気が付けば、目の前のことをやっているうちにみんながその目の前のことだけをやっていればいいとなってしまえば必ず未来に大きな禍根を残していきます。それが問題の先送りというものです。

今本当にしなければならないことをやるのはいいのですが、それよりも目先のことを解決するのが先とばかりにやっていたら時機を失してしまうということです。つまり対処療法というのは危険なことだと気づいているかということでもあります。

これは人間の身体も同じです。とりあえず今の痛みだけなくなればそれでいいとの考えでやっていたらやがて大きな病気を引き起こす原因になります。腫瘍や癌なども同じです。

つまり本当の病気というは、ここからとりあえず目先のことだけを乗り切るということであることがわかります。

しかし時代や周囲を観ては今はどうでしょうか。環境問題も人口減少も、資本主義も、国家間の争いも全部目先のことばかりをやってはいないでしょうか。行政も地域も、学校も病院も宗教も企業もみんなそうなっていないでしょうか。

では誰が根源的なものに向き合い、誰が長い目で観て根本的なことに取り組んでいくのか。誰かがしてくれるだろうか、そんな仕事の人たちがいるではないかとなるかもしれません。しかしおかしな話で、それを解決する人たちもそれが単なる分業された仕事になってしまってはそれは名前を換えた対症療法というだけではないでしょうか。

例えば、環境問題というのは人間の問題です。人間の問題を解決しなければならないのです。そして人間の問題は心の問題です。心の問題を解決しなければならないのです。心の問題は、生き方の問題です。みんなで生き方のことを見つめる必要があります。

私も徳や伝承、場づくりなどとやっていますがこれは目先の問題を解決するものではありません。時間をかけてじっくり醸成していくものです。しかし目先の問題とは異なりますから、それを今すぐにやろうとはならないものです。でもそれを誰かがやらなければ、誰かが挑戦しなければ子孫へ問題を先送りしてしまいます。

先送りしないという意志は、この問題を自分たちの世代で片づけるという強い思いが必要です。長くそして短い人生のなかで、後悔しないように生きていくためには今の自分が大変で、忙しく、厳しい環境に置かれていても愚直に遠くにある目的に向かって初心を忘れずに仲間たちと共に一歩一歩ゆっくり急ぐことだろうと私は思います。

善く見渡すと、そういう生き方を実践して精進している人たちはたくさんいるものです。私も子どもたちのためにも先送りしないという覚悟を定めて、引き続き精進していきたいと思います。

 

普遍的な道

本来、何かを生産するというのは時間がかかるものです。それた種をまき、見守り育てていくのに似ています。植樹であれば、3世代先がその木で生計を立てられるように考えて取り組みます。

しかし今の時代は、生産するよりも消費、いや没収や搾取をするような感覚でそれぞれの場所で時間をかけずに我さきと急いで消費できるものを奪い合っている様相です。

特に地方や田舎、あるいは世界の果て、今では宇宙の利権にまで手を出し、ここもまだ手付かずという場所がないほど探してそこから搾取しようとしています。この搾取というのは、そもそも占領や奪取でありそこで得たものはすべて自分のものとして財を貯えます。この財を貯えるという方法も、かつて日本の偉人、二宮尊徳が実践したような積小為大にあるような自然的なものではなく、まさに機械的なもの、人工的なものになってきています。

こういう構造の問題を解決することなしに、問題を先送りしたところであまり本質は変わらないように思います。

影響力の大きな環境があるなかで、為政者やリーダーたちがそのことに気づいて挑戦しようと君子が出てくるのをある意味では待つしかないのかもしれません。しかしそうしていても、民衆や自然は苦しみが増していきますから已むに已まれずに自らの場所で生き方として実践していく人たちが歴史を顧みるとたくさんおられることに気づきます。

無名であっても、何か有名なことをしていなくても、志で自らの役割を全うする人たち、天命を成就していく人たちは普遍的な道を照らしてくれます。

そういう場所は、普遍的な道の存在に気づく人が増えていくものです。普遍的な道を歩んでいく後ろ姿はそのものが尊く、ああ、この道を歩んだのだなと共感するものです。

時代がどれだけ変わって巡っても、そういう先人たちや普遍的な道を歩んでいくことは仕合せなことです。

子どもたちにもそういう普遍的な道があることを伝承伝道していきたいと思います。

知恵の破壊と自然との共生

先日、スリランカに訪問した友人から色々とお話をお聴きする機会がありました。スリランカには、アーユルヴェーダというものがあります。これは「生命の科学」「生命の知識」といわれる5000年以上続く伝統医学です。予防医学・治病医学にとどまらず、高度な生命哲学としても今でも活用される知恵の伝承の一つです。

国内には、たくさんのアーユルヴェーダの医師もいるそうです。しかし最近は、西洋医療が入ってきてたくさんのドラッグストアや病院も増え、伝統医療は人気がなくなってきているといいます。医師を志す若者も、西洋医療の方が人気が出て伝統医療の方は関心が薄れているといいます。それにアーユルヴェーダの医師は、薬草をふくめほぼ無料や寄付のみで運営しているところが多いということで経済的に苦しくなるので両親も、アーユルヴェーダの医師にはなるなと子どもたちに話しているといいます。

むかしの日本も医師は僧侶と同じく、ほぼ無報酬で人々の心身を救っていたといいます。藪医者ともいい、藪に住んでは、村の人たちのことを見守り、未病といって病気にならないようにあの手この手で診療していたといいます。いざ、病気になったら治療をして同じようにならないように色々と指導されていたといいます。正月には、そのお礼として村人たちがお布施をしていたそうです。立派で私心のない人たちが、人々の心を支えていたようにも思います。

スリランカでも伝統や文化は今、岐路を迎えているそうです。時代の流れというよりも、どの国でも資本主義や利己欲主義が蔓延していくと似たように伝統や伝承が破壊されていくのをお聴きします。

一見、便利なもの、すぐに結果が出るもの、科学的に証明されるもの、政府や偉い人がいうもの、流行っているものなどに飛びつきます。不安というものや不信というものが増えれば触れるほどに、情報が偏り、中庸というかバランスをとるのも難しくなるのでしょう。

もともとあったものの価値や、ずっと篩にかけられても失われなかった知恵の大切さは現代の経済とは関係なく、人々を経世済民してきました。みんなで相互扶助の仕組みをつくり、自然の循環が已まないようにみんなで場所を守り協力しあって社会を保ってきたものもあります。

これらの知恵は、本来は生き物でありいのちそのものでした。例えば、いくら機械で似たような食べ物を成分分析をして即席で同じ味のように実現しても、それはいのちではないのと同じです。

本来は、知恵はいのちのことでありいのちはいのちとして最後まで壊さないように接してこそいのちも知恵も保たれます。

私たちが今、行っているのは知恵の破壊なのです。それは言い換えれば、いのちの破壊ということです。

いのちが破壊されていくと、私たちは思考停止していきます。そうやって世界は、思考停止して加工された人工物で満たしていくのですがそのことで自然が満たされなくなっていきました。都市化というのは、機械化であり知識化であり人工化したということで不自然化ということです。

自然との共生というのは、そんな自然をちょっと使ったことではなく、まさに自然の中に暮らしをするということです。自然の中で暮らすというのは、すでにあるもので十分満ち足りて感謝で生きていくという生き方のことでもあります。

本当のことを観続けることや、もともとあったものを大切に継承していくことは、それだけで自然から離れずにすむものです。自然を身近に、子どもたちにも自然との共生によるいのちが循環しあう喜びや仕合せを場を通して伝道していきたいと思います。

 

聴福人の実践

先日、あることで松下幸之助さんの生前の講演動画を拝見する機会がありました。そこでは、私心を消すことについて謙虚にお話をされておられ色々と省みる機会になりました。

そもそも私心というのは、小我やエゴなど自分がという己の存在を過少過大評価をしている状態のことです。何物もでもない、存在している自分をよほどの存在として独善的になっていくと私心に囚われた状態になります。

本当の自信を持つというのは、難しいことでそれだけ日々に自分というものと向き合い、自分の中の私心がどうなっているのかを見つめ続ける必要があるように思います。

松下幸之助さんも、自分の私心が毎日出てくるからそれを危険だと思って気を付けていると。賢い人こそ、危険であるから要注意であると。賢いからこそ会社をつぶすことがあると、使い方次第であると仰っていました。

確かに、今の能力も才能もそして自分というものもそれをどう使うかというのは心が決めるものです。それを世のため人のため、そして社会のため世界のためにと自分を天から預かりものとして使うときは私心はなくなっていきます。しかし、それを自分のものだからと勘違いして特別な存在だと勘違いしてしまうと私心にまみれて判断がすべて己の方に引き寄せようと欲望に吞まれます。

この世のすべてはみんな天が与えた存在であると自覚すれば、天命というものの声も聴けるように思います。しかし、天命がわからなくなるのは自分勝手、得手勝手に勘違いし視野が狭くなるからのようにも思います。

視野の広さとは、自分はとても小さな存在と思えるとき視野は広がります。永遠から結ばれている先祖からの自分を感じたり、この世のすべてのいのちは繋がっていると感じたり、宇宙や星々、光や道を感じるときもそう感じます。しかし便利さや自分の権利が当然のような環境の世の中では、そういう感覚は麻痺してみんな私心まみれ我欲まみれになりたいように思います。

夏目漱石が晩年の境地に「則天去私」(天に則り私を去る=てんにのっとりわたくしをさる)ということを語っておられます。天命に生きることの要諦で、亡くなるまでずっとその道に挑戦されたことを想像できます。

また松下幸之助さんを尊敬されておられた稲盛和夫さんもこう仰っています。

「私心を捨てて、世のため人のためによかれと思って行う行為は、誰も妨げることができず、逆に天が助けてくれる。」

動機善なりか、私心なかりしかと、自問自答を日々に繰り返されたいたそうです。毎日、私心はないかと自分に尋ねるというのは本当に大切なことだと反省するばかりです。

最後に、私が大好きな良寛さんの遺した言葉だそうです。

「おらがおらがの「が」を捨て、おかげおかげの「げ」で生きよ」

感謝や御蔭様というのは、私心を毎日お手入れすることに似ています。自己の徳を磨いていくのは、それが天命であることを忘れないようにしていくためかもしれません。

よくよく反省して、自ら勘違いしないように周囲の声に耳を澄ませ、聴福人の実践を真摯に取り組んでいきたいと思います。

愚直に信じる

自分のやっていることが好きになることや、仕事に惚れるというのは全身全霊でそのものの価値に身を捧げ没頭できるというものです。別の言い方では夢中になれるともいいます。

夢中になるには短期的なものもありますが、長期的なものものあります。ずっと好きでいられ続けるというのはそれだけ心を没入していくことができるからです。そこには、自分のなかで誇りであったり尊敬であったり、感動、感銘、使命感などあらゆるものが存在しています。

自分の取り組む仕事に惚れこんでいる人は、それだけのものを磨き上げていきます。そこに動機が善で私心がなければなおのこと、夢中になれるようにも思います。

不思議なことですが、無邪気であったり夢中であったり、好奇心というものは私心がないところで発動していきます。自分にとってどうかというよりは、まるで自分を超えるようなものがありそれに向かって自分を忘れていくかのようなそのものと一体になっていく感覚です。

人間は感情がありますから、嫌悪感などもあります。特に苦手なものや苦痛を伴うものなどは避けたいと思いますし安逸で便利に解決したいとも思うものです。

しかし実際に、取り組んでいけば取り組むどれもが繋がっていたり、重なっていたり、総合的には全体に必要なものであったりするのでどれも手を抜くことができません。目的を求めては、あらゆるものに取り組んでいくことができるのは自分のやっていることに誇りを持ち、仕事に惚れることができているからかもしれません。

誰が何と言おうとも、自分がこれだと思うものにいのちが懸けられることは素晴らしいことのように思います。子どもたちのためにも、愚直に信じて突き進んでいきたいと思います。

お山を調える暮らし

英彦山の宿坊の周辺の石組みや水路の修繕をしています。実際には、ほとんど土木作業ですが今のように重機がなかった時代にどのように石組みをしていたのかがほとんどわかりません。なので、一つ一つの自然や石組みを観察しながら推察したり想像したりと、先人の足跡から学び直しています。

今でも守静坊の周辺は、立地的にも機械や重機は入れません。なので、テコの原理を使って石を動かしたり、人を集めてみんなで運ぶという具合でととのえています。しかし、あまりにも大きな石はどうしようもなく、そのままにしています。本当に、どうやったのだろうかとまるで古代の失われた技術にため息ばかりです。

エジプトのピラミッドもですが、どうやってというのは今も解明されていません。その時代に生きた人たちの知恵は子孫のためにも伝承していく大事さをひしひしと感じています。

むかしの水路には、水を抑制する技術に長けていることがわかります。ただ流すのではなく、水の力を敢えてそぎ落としたり、ところどころで土に浸透させてガス抜きのように溜め込ませたり、落として力を逃がしたり、曲げて速度を調整したりと工夫に満ちています。

標高の高い英彦山は、大雨が降ると一気に洪水のように水が下に流れていきます。先日の豪雨はまるで、石段が川のようになり段差が大滝のようでした。土砂が崩れるのではないかと心配になりました。しかし数百年の間、壊れていない場所に建っていますからある意味での安心感があります。

先人は、なぜその場所が壊れないと思ったのか、そしてなぜ今のような石組みにしたのか、考えさせられます。とはいえ、宿坊の周辺もところどころ石が崩れ、水路の流れを換えてしまっています。小さな水路の破壊が、その場所の破壊にもなり、手入れをし続けないと場も保てません。

今は宿坊跡になり、ほとんど空き地になり家も人もここにはいません。しかし、本来、標高1000メートル以上の山というのは水を貯水する天然の給水塔だといわれます。森が水を育むという言葉にあるように、この山が水を保水しているから平地の暮らしが保たれています。特に福岡県においてもっとも高い山であり、水を生み出す英彦山の御蔭で県内のすべての支流は確保されています。その山を守るためにも、むかしは山伏たちが山が清浄であるように健全であるように暮らしを保ち山をととのえたのです。

その調え方は、まずは自らの宿坊の周辺を丁寧に修繕し続けること。そして風通しや水の流れなどを澱まないようにしたこと。山に感謝して、自然のありがたさを感じることなどをやったように私は思います。

やることはいくらでもありますが、身体は一つしかなく時間をかけて少しずつ取り組んでいます。お山の知恵に学び、人類の行く末を祈り、子孫のためにも暮らしフルネスを味わっていきたいと思います。

先人と食の知恵

私たち生き物は、ほとんど食べるために進化してきた生き物ともいえます。私たちの脳も、食べるために肥大化してきました。どんな生き物も食べなければ生きていけません。これは自然界の掟でもあります。今の時代は、食べ物には困りません。日本は特に食べ物の消費も廃棄も膨大ですから、食べ物が食べれなくなることは今では想像することもあまりありません。

しかし実際には、歴史を紐解くと江戸時代に4回ほど大飢饉もあり、世界にはさらに悲惨な大飢饉があり飢え死にしたことがたくさんありました。まさか、食べ物がなくなるとはと思わないようなときにこそそのまさかがあります。

そんな時、先人たちはどのように乗り越えてきたか。そこに私たちの民族の食のルーツもあるように思います。特に保存食などをみてみると、私たちは災害に備えてあらゆる保存食を工夫してきました。それは美味しいだけではなく、栄養がありいのちを助ける救荒食品でもあったのです。

例えば、鰹節や梅干し、干し野菜、漬物、味噌などは、その代表格でもあります。さらには、根菜や果物、野草などもですがいざとなるときに助けになりました。穀物においては、持ち出しもでき種でもあり食品でもありましたから最も重宝したはずです。

現代は、災害時はコンビニのものがなくなるから多めに買いだめしておけばいいと思う人も増えていますがそれは本当に数日程度から1か月くらいまでのものです。水の問題、火の問題もありますが、私たちはいのちを食べていますからやっぱり自然のもの、生き物を食べて健康を保ちます。

まさかと思って想像していませんが、もしも世界全体で大気候変動があったり、あるいは世界戦争が起きたなら札束や黄金も食べれません。国家もそうなった場合は、どれくらい助けてくれるのかもわかりません。むかしの資料をみていたら、国家にもその時には貯えがなく国家の補助だけでは餓死したともあります。

だからこそ一人一人が、みんなのために何ができるかを考えて今から準備しておく必要性も感じています。

子どもたちのためにも、種を残し知恵を譲り、少しでも力になっていきたいと思います。

きみたちはどう生きるのか

情報化社会で世界中のあらゆる場所の出来事が、日々にアップロードされていきます。特に、もっとも影響のある国家間の均衡などは自分の国を中心に情報が集められます。私たちは、そこからどの国家連合に所属しているのか。どのようなメリットを分け合っているのか。何がもっともデメリットで危険なのかも推察できます。

誰に聞かなくても、大局的に観たら世界の覇権をかけてそれぞれの地域で虎視眈々と経済戦争を含め、現実的な武力闘争まで行われています。

振り返ってみると、その範囲が現在は世界を巻き込む広さになっているだけで小さな地域での出来事が発展しているだけです。尊重しあわない、譲り合わない、和の精神とは程遠いことをそれぞれの場所で行います。例えば、平安時代や戦国時代などはどうだったか想像してみます。

今のように情報が往来せず、範囲も限られていましたから山の向こうで起きたことを一喜一憂しながら準備したのでしょう。あるいは、どこか遠くの場所から突然やってくる脅威に備えたのでしょう。

生き物は、もともと自分の与えられた範囲というものがあるように思います。縄張りともいいますが、その縄張りのなかで食べて生きて子孫を残します。自然界も、日々にその縄張り争いというものを繰り返しています。個体数が増えると、それだけ縄張りの奪い合いもありますから大変です。

広い地球ですが、縄張りでみるとそんなに広くありません。自分勝手に縄張りを広げて強奪するのか、あるいはお互いに折り合いをつけて共生をするのか。それはどちらも意志で選択できます。それを繰り返してきた歴史で、私たちはその経験から学んだ知恵をたくさん持っています。

それを活かせるかどうかは、歴史に学ぶかということです。

結局、縄張り争いでお互いが滅ぶほどの兵器を使ってしまえば縄張り自体が崩壊してしまいます。そのとき、縄張り争いは終了するのでしょう。人類は、一体何がしたかったのかと、生き残った人たちが途方に暮れて歴史に学ぶのです。

つまり真の意味で歴史に学ぶというのは、机上の教科書の歴史ではなく実際に実体験して結果がそうなっているときにこそ学ぶということになっています。現実に発生した実体験から、過去の歴史を学ぶのです。それでもまた同じことをやってしまう。これはある意味で歴史を学んでいるともいえます。

大事なのは、その学んでいる最中にどのように判断し決断していくか、その瞬間瞬間こそが歴史ですからそれを知恵で選択するときにこそ役にたつ学問になるように思います。

いま、まさに真っただ中の歴史においてこの瞬間に歴史の知恵から判断できるリーダーが必要です。子孫のためにも、どのような生き方が必要か、どう生きるのか、それぞれが問われています。

害を転じて福にする

「害」という言葉があります。この「害」という字は、あまり良いイメージのものがありません。例えば、全訳漢字海(三省堂)に記載している熟語は【前熟語】害悪・害意・害毒・害虫・害鳥・害心・害馬【後熟語】加害・禍害・干害・寒害・危害・凶害・公害・災害・殺害・惨害・残害・自害・実害・障害・傷害・侵害・阻害・霜害・賊害・損害・毒害・迫害・被害・風害・弊害・妨害・無害・薬害・厄害・有害・要害・冷害などがあります。

害という字は、語源には「わざわい・さまたげ」を意味する言葉を切り刻み防ぐために成り立ったとあります。漢字の成り立ちをみると「宀(かぶせる物)+口または古(あたま)」で、かぶせてじゃまをし進行をとめることを示しています。

この害というのは、全体的に何か被害を被ったか、誰かが加害を加えたかということが表現されています。その証拠に、「無害」という言葉がありこれが中庸で害ではない状態だったということになります。言葉は、相対的に意味ができているものです。温冷や寒暖、あらゆるものは比較することで表現されています。しかし、一文字である信や義、愛などは、その字によって本質が表現されます。そういう意味では、この害という字は色々と使い方が難しいものです。

そもそもむかしの障害者という使い方などはあまりにも違和感がある言葉で、害なのかということが根本的に問われるものです。そのその無害であり、害があるものではありません。

私たちは知らず知らずに生きていれば、加害者にもなり被害者にもなります。被害者意識が増えれば、気が付くと加害者になっていることもあります。そうならないように、お互いに無害になるように害にしない努力が必要になるように思います。

そのためには、お互い様や御蔭様、また一緒に生きて一緒に考えて一緒に悩み解決するといったどちらも無害になるような取り組みによって害を福に転じることができるように思います。

害になってしまうと、被害者加害者意識が生まれます。また有害、無害とすると無害は有害の程度の反対になるだけで根本的な害が福に転じることはありません。災い転じて福にするというものがありますが、害が転じても福になるという境地の中にこそ本質的な害があるようにも思います。

害があるから、みんなで一緒に考えていこうとするところに人々が思いやり助け合う知恵も生まれていくようにも思います。引き続き、害を転じて福にしていけるように自らを省みていきたいと思います。