剣聖の生き方

生涯無敗の剣聖として有名な、「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)がいます。有名な言葉に「戦わずして勝つ」という教えがあります。もともとは、日本の戦国時代の剣士、兵法家で父祖伝来の鹿島神流(鹿島古流・鹿島中古流)に加え、養父祖伝来の天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新當流を開いた人物とされています。

下剋上、裏切り、謀反、暗殺、と生き残るためには手段を選ばない戦国時代に人を殺す剣ではなく、人を活かす剣を貫いた生き方をした剣豪でした。

この無手勝流の奥義、戦わずして勝つというものがどういうことか。それが色々な説話からも残っています。例えば、家督を3人の養子の誰か1人にその家督を譲る際にも「無手勝流」でやりました。ふすまを開けると木枕が落ちる仕掛けで3人を試し、次男と三男は剣を構えて木枕を斬ったが、長男は仕掛けを見抜いて先に木枕を取り除いたので、長男に家督を譲ったとあります。戦いとは戦略ともいい、戦略は戦いを省く知恵ともいいます。戦わないで済む方法を持つ者こそが、真の剣豪であるとしたのかもしれません。

また他にもこういう説話が残っています。これは塚原卜伝に弟子入りを志願した人との対話です。

弟子入りの志願者は「剣術を習いたいので入門を許して下さいませんか。私は一所懸命に修行します。どれくらいで免許皆伝していただけますか」と。それには卜伝は「一所懸命にやれば、5年で免許皆伝になるじゃろうよ」そしてまた「では、寝食を忘れて修行に打ち込めば、何年で免許皆伝になりますか」と尋ねると、卜伝は「寝食を忘れてやれば、10年で免許皆伝になるじゃろうよ」と。さらに「それじゃあ、死に物ぐるいで修行すれば、何年で免許皆伝になりますか」と最後に尋ねると卜伝は「死に物ぐるいでやれば、一生、免許皆伝にならんじゃろうよ」という話です。

通常であれば、必死に頑張れば頑張るほどに早く免許皆伝できるだろうと考えます。特に弟子入りする人は、早く免許皆伝するのはどうすればと考えるものです。そういう気持ちもあって色々と尋ねたのかもしれません。しかし卜伝は、本質で応えます。

「一所懸命で5年、寝食を忘れて修行すれば10年、死にもの狂いは一生無理」という話。これは今でも通じている知恵の一つです。中庸というものは、執着と離れたものです。そして私心が出れば出るほどに悟りは遠ざかるようにも思います。

如何に、私心を離れていくのか、

生涯無敗という意味の奥深さをその生きざまから感じます。塚原卜伝の教えは国に平和をもたらす剣であったといいます。真の剣豪、そして剣聖とはどういうものか。

今の時代も学ぶところばかりです。生き方を学び直し、徳や聖というものの生きざまも磨いていきたいと思います。

徳あるものは永遠に生きる

山本玄峰先生という方がいます。百万遍念仏のことを調べていて知ったのですが、素晴らしい生き方をされ示唆をいただいております。終戦にも深く関わっておられ、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉に影響を与えた人物としても知られている方です。

多くの政治家をはじめ、リーダーたちを指導して国を導きました。まさにあの頃の国師のような存在です。

この山本玄峰先生は、若い時に失明を宣告され絶望をして死地を求めてあらゆるところを探し回りました。そしてどこでも死にきれず、四国巡礼の道を開いた弘法大師に願をかけ「自分は死にきれずここまで来ました。私が少しでも世の中の役に立つものならば、結縁をおさずけてください。役に立たなければ、早く命を引き取って下さい」とお遍路に最後の希望を懸けました。

そして7回目の巡礼の三十三番目の高知県の雪蹊寺(せっけいじ)の門前でついに行き倒れました。その後、無銭宿泊所の「通夜堂」で、3、4日過ごしついに出家を決意して同寺の太玄和尚に相談します。

「自分は紀州の山奥で育って、目も見えず、読み書きもできませんが、坊さんにしていただけますか」と。

すると太玄和尚は答えます。

「いくら目が見えても、障子一枚向こうは見えない。いくら耳が聞こえても、一丁先の声は聞こえない。目や日が悪くても、心の眼が開けたならば、世界中を見渡し、天地の声を聞くことができる。葬式や法事をする坊さんにはなれなくても、心の眼が開ければ、人天の大導師になることができる。これは誰にでもできることだ。お前でもやればできる」と。

その後は、すべてを手放し出家して修行にあけくれました。その師匠の言葉どおりの人物になり、葬式や法事をするためではなく、真理を開眼するような大導師になったのです。

その山本玄峰先生は、こういう言葉を遺しています。

『力をもって立つものは、力によって亡ぶ。金で立つものは、金に窮して滅び、ただ、徳あるものは永遠に生きる』

何を拠り所にすることが、もっとも生きるのか。死を求め続けて、生きることの真の意味を悟られた先生の法の言葉は深く心に沁みます。

暮らしの中で禅で生きるというのは、暮らしのすべてで徳を積むということだと感じます。実際にはとても難しく、先達の偉業に深く尊敬の念がこみあげます。

今に集中して、暮らしフルネスで徳を実践していきたいと思います。

動物たちとの暮らし

私はむかしから動物好きで、子どもの頃の夢は動物園の飼育係になることでした。色々と周囲から反対され気が付けばその夢はなくなっていましたが大人になってから自宅で様々な動物を飼う機会に恵まれました。

動物を飼育するというのは、動物を最後まで責任をもって看取るところまで一緒に暮らしていくということでもあります。犬であれば、もう5代目になっていますが毎回、喜びも悲しみも共有しています。家族のように毎日、顔をみて体調を心配し散歩をししては暮らしを味わいます。そして私よりも先に年老いて死んでいきます。病気になれば、病院にいき、看病を続けます。何回も死んで気が付くと5代目になりましたが、それでも犬がいる暮らしの仕合せの方が悲しみよりも大きく、子どもたちが犬との暮らしを望むうちに増えていきました。

他にも、ご縁から猫を飼ったり今は烏骨鶏などもいます。やはり寿命が短いから、みんな看取っていきます。その都度、悲しみもありますが想い出は増えていきます。

飼育というのは、一言でいっても色々とあります。

動物をまるで物や機械のように、商売のためだけに利用して消耗させては交換すればいいと思っている人たちもいます。特に、現代は動物が人間にとって単なる消費材になっているかのような扱われ方をしているところが多くあります。

私の家の烏骨鶏たちは、環境も餌も自然のものばかりで広い場所でのびのびと育っています。もう十数年生きて、みんな高齢化で私が介護をしているような状態ですが鳴き声や存在にいつも癒されています。しかし以前、ある養鶏場を見学したら狭いところぎゅうぎゅうに入れられ、たくさん卵を産ませるようにストレスを敢えて与えて、抗生物質入りの餌や不衛生な環境で育てているところもありました。まるで物のように扱い、使えなくなったら捨てるか肉にして売るという具合です。

気が付けば、牛も鳥も馬も人間と長く一緒に暮らしてきた動物たちは人間の欲望によってその大切な生涯を奪われています。

本来は、すべてのいのちや生き物は公平に自分の生を自分らしく全うするように平等に生を与えられていました。それが自然の共生の原理です。しかし、今ではその自然の共生は崩れ人間がつくりだした仮想の社会が自然というように刷り込まれています。

動物に生まれたら、どんな一生を送るのが仕合せなのか。決して先ほどのように、物や機械のようにいのちを粗末に扱われたくないはずです。今の時代、こんなことを思うことすらもなくなってきましたが家に動物たちがいることで自分も気づきやすくなります。

動物とも共生するような暮らし、本来の自然との共生との生き方を敢えて取り組むことで動物たちと共に知恵を子孫へと繋いでいきたいと思います。

日本人の原点

改めて、お米というものを深めていますが改めて私たちはこの当たり前にお米が食べられることに感謝すべきであることがわかります。そのそもの日本での稲作のはじまりは日本神話に登場する瓊瓊杵尊だといいます。もともと天照大御神から渡された稲を瓊瓊杵尊が植えたところ稲が実り豊作となるというものです。

実際の歴史では米の栽培は約1万5千年前にアジアの東南部地域であるインドのアッサム地方、中国南部雲南省からタイ、ミャンマーあたりで始まったと考えられているといいます。インドのシヴァ神などが合体した大黒天などもお米の神様とされているのもわかります。

他にもお米の神様は七福人であるとか、大国主命の御子神七人とか、「水、土、風、虫、太陽、雲、作り手」の七人であるとも言われます。

もともと元氣という字もあるように、そこには米の力宿っているという意味の字があてられます。この多くの神様が宿るお米は、私たちにご神氣を与える存在として何千年も前から大切にされてきました。

長い時間をかけて、私たちの身体はお米を食べてきたからこそ、そのお米を神様のように大切にお祀りして食べ続けてきたのでしょう。

そういう意味でも、当たり前ではないことを忘れないようにしたいと思います。

もう少し歴史を深掘ると、本来は日本では赤米というものが明治時代まで主流でした。赤米は邪馬台国や大和朝廷への献上米として栽培されてきたと文献にも残っているほどです。それを明治政府が、赤米は雑草だと言い出し失われていったといいます。この明治政府は、またかと思うほどに日本の元々大切にしてきたものを破壊しまくりました。

さて話をまたお米に戻しますが、今では白米が当たり前ですが本来は玄米を私たちは食べていました。江戸時代くらいから白米が流行りだし、また明治頃には白米が主流になっていきます。しかし玄米を食べなくなって脚気という病気が流行します。脚気とは、ビタミンB1欠乏によって末梢神経障害と心不全をきたす疾患です。その後、昭和初期から20年にかけて、玄米食が見直され昭和20年には国によって玄米食を推進するようになります。

現代もこのビタミンB1欠乏症が増えているといいます。お米を食べなくなることで、色々な問題が発生するのもこの歴史を紐解けばよくわかります。

引き続き、お米に関われることに感謝して子どもたちに日本人の原点を伝承していきたいと思います。

お憑かれさま。

なんでも言い合える関係というのは有難いことです。色々な苦労をして辛酸をなめる中で、誰にも言えないような苦労があることがあります。真心を盡すなかで真摯に全身全霊で取り組んでいるなかで理不尽な目にあい、酷い目にあうこともあります。

特に人間社会においてはそれぞれの立場があったり、思想も時代背景も価値観も異なりますからすべての人が一つの正解であることはありません。それぞれの違いを乗り越えて尊重しあうためには、謙虚さや配慮も必要になります。

しかし人間は誰しも未熟ですから、持ちつ持たれつそしてねぎらい合いながら前に進んでいく存在のようにも思います。完璧なものなどはないからこそ、ある意味でもたれ合いながら助け合うようにも思います。そういう意味では私たちはみんなで、ねぎらい合う文化をもっているともいえます。日本人がよく使う、お疲れ様でしたというのもまたねぎらい合いの文化がその言葉を日常的にしたのかもしれません。

もともとこの「お疲れ様」というものを調べてみると、語源は「お憑かれ様」だといいます。何かにとり憑かれるという意味で、あまりよい言葉ではありません。むかしから、先祖供養を怠り、色々と感謝を忘れると変な霊に取り憑かれて不調になると考えられてたといいます。

そうやって不調になれば、元氣がなくなるので「お憑かれ」というようになりそのうち漢字が変化していって「お疲れ」という表現になったといいます。

本来は、元氣がない状態などは存在しないような日々の暮らしがあったということです。それが現代の忙しくなり、労働が過重になり、自然のリズムからも遠ざかった生活のなかでみんな「憑かれ疲れて」しまったのでしょう。

ねぎらい合うというのは、それだけ憑かれて大変でしたねという意味ですが憑かれている人たちが増えているからそれだけみんなねぎらい合いばかりの日々を過ごしていくのでしょう。

憑かれているのを祓うことが、この時代には必要だと私は感じます。それは浄化ですが、これは決して精神世界や宗教の話ではなく、ちゃんと自分を取り戻すことであり、本来の自分でいられる場所を用意することです。

私が取り組んでいる場には、このねぎらいがあるように思います。ねぎらいのねぎは、禰宜と同じ意味でねぎらうお役目の人のことです。私も気が付けば、禰宜のようなことばかりをやっています。

子どもたちに、どんな時代でも環境でも自分のままで自分らしくいられて元氣を発奮できるような居心地のよい場を甦生し譲っていきたいと思います。

純善たる伝承

レッジョエミリア教育というものがあります。これは、イタリアのローリス・マラグッツィという人物の思想や実践が一つの形として表現されたものです。

もともとこのレッジョエミリアは、第2次世界大戦後1946年の北イタリアの町の名前です。その街の郊外のヴィラ・チェラという村でガレキの中から復興を志し、幼児教育に力を入れようと熱心な親や町の人々が教育者、専門家と一体になって立ち上げたことがはじまりでした。このチェラでは、戦後に住民たちが戦争で残った石やレンガを使って、幼稚園を建てるためにドイツ兵が残した戦車やトラック、馬などを売って運営資金にしていたといいます。その後の数年間でレッジョ・エミリアでは女性たちを中心にして60にも及ぶ幼稚園が開園・運営されました。

戦争で子どもたちを保育する場所を自分たちの手で母親たちが主体的に復興するのです。そしてようやく1963年にイタリアで最初の公立の幼児学校がこのレッジョ・エミリアで誕生しました。そこから公立の幼児学校はイタリア全土に広まっていきました。

そもそもイタリアは元々昔から地方分権が強い場所でレッジョ・エミリアはファシスト政権に対する「レジスタンス運動」の本拠地で市民たちの自治意識が高い土地だったといいます。

その当時、教師やジャーナリストとして活動していたレッジョエミリア教育の中心となるローリス・マラグッツィは地域の教育活動に尽力していきます。

このローリス・マラグッツィは「100の言葉」という詩を書きその理念や哲学の中心になるものを残しました。そこにはこうあります。

「子どもには 百とおりある。
子どもには 百のことば 百の手 百の考え 百の考え方 遊び方や話し方
百いつでも百の聞き方 驚き方 愛し方 歌ったり理解するのに 百の喜び
発見するのに 百の世界 発明するのに 百の世界 夢見るのに 百の世界がある
子どもには 百のことばがある…それからもっともっともっと…

けれど九十九は奪われる
学校や文化が 頭とからだを ばらばらにする

そして子どもに言う 手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい 話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい 愛したり驚いたりは 復活祭とクリスマスだけ

そして子どもに言う 目の前にある世界を発見しなさい
そして百のうち 九十九を奪ってしまう

そして子どもに言う 遊びと仕事 現実と空想 科学と想像 空と大地 道理と夢は 一緒にはならないものだと つまり百なんかないと言う

子どもはいう でも 百はある 」

自分なりの意訳ですが、それぞれの子どもにはそれぞれの子どもの人生がありその人生には正解などなく、それぞれに自分らしい人生があるということのように思います。この時代、いや今の時代も、子どもが真に尊重されているかといえば教育はその真逆で今でも軍隊のように権利を奪われ、画一的に個性をつぶし、あるいは大人の都合で子どもが主体的に自分のままであることを認めないものばかりです。

「子どもは無限の可能性をもち、あらゆる権利を持っている。そして、それは誰にも奪われず、主体として大切にすることが教育のあるべき姿だ。」とローリス・マラグッツィは静かに諭します。

その後、1991年に「ニューズウィーク」誌は、レッジョ・エミリアのすべての市立幼児教育センターと保育園の代表として紹介し園長を務めたディアナ保育園を世界のベスト10校の一つに挙げました。今では、グーグルやディズニーでも採用され世界中に実践が広がっています。

そう考えてみると、日本ではどうでしょうか。

どのような保育こそが、真にその子どもの主体性を保障し、無限の可能性を奪っていないのか。私は自然農法なども行い、暮らしフルネスを実践しますが日本人はいのちとの繋がり、つまりは物も人もすべていのちの顕現したものという意識を持ちます。

本来は、子どもがもっとも世界で仕合せに暮らす国だったように思います。そういう文化の国が西洋からの古臭い教育で色々な歪が出てきました。今一度、本来の日本にある伝統の教育を今に甦生する時機に入っているように思います。

私が実践する暮らしは本来の日本の保育そのものです。それを大人がまず実践することで、子どもたちにその保育を伝承することができます。大人か子どもかではなく、共に生きる、つまり一緒に暮らすことで実現するのです。これは働き方と生き方の一致でもあるし、過去と未来と今の一致でもあります。

いのちの共生、ものも人もすべて繋がっている場をつくりだす。これが日本式の子どもを育てる伝承法である。それを純善たる伝承とも呼ぶのでしょう。

時機が到来していることに仕合せを感じつつ、かんながらの道を真摯に力強く動き出していきたいと思います。

 

人類の原点

昨日、ある方と会食をする中で「コモンズ」についての話をお伺いする機会がありました。これはデジタル大辞林から抜粋すると、「コモンズとはもともと、草原、森林、牧草地、漁場などの資源の共同利用地のこと。地球環境問題への対応が求められる中、グローバル・コモンズ(global commons)たる地球環境の保全にも示唆を与える営みとして、再び脚光を浴びている。近年では、自然環境や自然資源そのものを指すというよりも、それぞれの環境資源がおかれた諸条件の下で、持続可能な様式で利用・管理・維持するためのルール、制度や組織であると把握されている。」とあります。

私有でも公有でもなく、自然の姿をあるがままに共有するという意味でのコモンズということでしょう。

これは当たり前のことですが、現代の人類社会では非常に難しいことです。所有権というものを保障されて、今では火星や月にいたるまで線引きしてはどこが持っているのかということを競い合っています。あるいはこれから新しい星が発見されて、そこに自分の国、あるいは地球連邦の旗さえ立ててしまえばそれで私有も公有も保障されるのです。一度、そうしてしまえば勝手なことは一切できなくなります。

日本では、空き家や空き地の問題というものがあります。すでに、全部を合わせると九州くらいの土地が手が付けられずに放置されて荒廃しています。そもそも誰の土地化もわからないようなものを一切利用できずに、放置されればそこが色々と問題になってきます。今の人類の制度がかえって色々な問題を引き起こしています。

本来の人と地球、人と自然、人と宇宙などの関係性を見直す時機に入っているということなのでしょう。

実は、私はこのコモンズという思想や発想はよくわかります。それは故郷で唯一残った伝統固定種の高菜を育て守っているからです。そもそもこの種の所有は誰のものなのか。一般的には、私が守っているのだから私のものとして周囲は見るでしょう。

しかしこの伝統固定種を守っている側からすれば、これは1200年以上むかしからこの土地で先人たちが守ってきたものです。つまりはみんなで守ってきた共有財産です。私はこの種をちゃんと守り育てる人に配布していますし、一緒に育てるように場を創造しています。これはそもそも私有でも公有でもなく、共生するために必要だからです。

自然界というのは、共生で成り立っています。この共生とは、自然と一緒に生きている仲間という意味です。私たちは、いくら仲間を排除して自分が管理してわが物のようにふるまってもその実、一人では生きていくことはできません。社会というのは、人間社会だけで存在しているのではなくあらゆる自然社会と共生してはじめて生きていることができるのです。

当たり前のことですが、すでにこの当たり前を忘れるほどに成熟してもはや所有できなくなるほどに埋め尽くされた人間の欲望はそろそろ原点回帰するときをむかえているようにも感じます。

自然と循環していくことは、共生の場を調えていくことです。種を守るように、文化を守り、そして子どもたちの未来を守るのです。まさに共存共栄こそが、人類の原点でしょう。

新しいご縁に感動して感謝しています。これからもよろしくお願いします。

実践を祈る

昨日は、伝統在来種の堀池高菜の種を蒔き直してきました。ここ数年は安定していましたが、気候変動で予測が全くつかず、雨がつづいたり、猛暑が来たり、秋に入っても気温が激しく変化しています。2週間前に蒔いた種はほとんど芽吹いてなく、さらにはイノシシが長雨でマルチなども掘り起こしていてすべてやり直しでした。

本来は、9月中旬頃に蒔くのですが今年は10月に入ってから蒔いています。私はあまりスケジュールでは動いておらず、タイミングを見計らって動いています。しかし、昨年はいつ蒔いたかというのはスケジュールで確認するのですがその通りしてうまくいったことはほとんどありません。

この9月10月の間は、風の状態、雨の状態、朝露の様子、また虫の分布状況、夏草の枯具合などをみながら判断していきます。今年は、夏草の繁茂が著しく、古代に戻ったかのような繁栄ぶりです。草刈も追いつかず、葛なども勢いがまだまだ残っています。

よく考えてみると、地球温暖化であらゆる生き物たちはその気候変動に合わせて変化しています。ここ数十年で起きた変化は、確実にあらゆる生き物たちの進化に影響を与えています。

私たちの身体も自然の一部ですから、身体にも変化が出ています。いくら便利に薬やサプリで調整しても、その場しのぎでは変化に順応していけません。

私たちは古代より、自然を観察しては自然に従って生きてきました。周りの作物の様子をつねに語り合い、おかしな変化があればみんな先回りして備えていました。それは農家だけではなく、医者、そしてお坊さんに至るまで自然の変化に精通していたように思います。

話が変わりますが、経塚というものと最近ご縁がありました。戦乱の時代に、仏教の教えが衰えたとき平和を願ってお経を埋めて場に祈ります。

時代はそれぞれに人間の問題もあれば、環境の変動もあったでしょう。それをどのような知恵を生き抜いてきたか、それが歴史の知恵であり学びでもあります。

子孫のためにも、自然と共生しながら人類がどのように歩んできたかの行く末を祈り、実践を磨いていきたいと思います。

伝承の甦生

昨日、秋月和紙の井上さんと一緒に和紙の原料であるミツマタに法螺貝を奉納してご祈祷を行いました。これは英彦山に代々伝承されているミツマタの和紙のお札を甦生するためでもあります。

現在は、和紙でもないパルプ紙に機械でプリント印刷したものがお札になっているものが多くあります。本来は、人の手を通してみんなで心を合わせて祈るようにつくられたものがお札でありお守りとなりました。

手から入るいのりの力を信じていて、そこに数珠繋ぎのようにみんなが心ひとつにして取り組むことで不思議な力が宿るとも信じていました。これは決して偶然や奇跡などではなく、私たちはこの手を通して心を投影していくことができます。丹精を籠めた手料理や手仕事、あるいは芸術にいたるまで私たちは心を手で象ることができるのです。

むかしは、誰か職人が一人でも欠けると手仕事が止まってしまうことがありました。例えば、このミツマタであればそれを育て収集する職人、それを和紙職人にわたり、墨汁や朱肉などをつくる職人、そして祈祷をする山伏や神官など、みんなが力を合わせて取り組むことでその祈りが通じていきました。

現代はなんでも効率優先になっていますから、見た目ばかりデザインしたものを重宝して中身は形式だけ少し取り入れるくらいなものです。さらに機械化され大量生産して安価で手に入れられますが、本来は手を抜いてはいけない工程にまで便利さが導入されてみんなの力が入る余地もありません。

祈りというものは、本来はみんなで心を合わせて行うものです。それはみんなが心ひとつにすることで、お互いが関係しあい、持ちつ持たれつの信じる心が顕現していくからです。

心を籠めてあるものは、わかる人たちにはわかります。そこには、単なる物ではなく、心が宿るからです。

手作りや手作業というものを大切にする生き方こそが、本来の私たちの暮らしの道具を磨いてきました。時代が変わっても、生き方や暮らし方を磨くことは先祖への尊敬と子孫への繁栄を願うためにもとても大切なことです。

子どもたちや子孫のためにも、今をさらに善くしていくための努力を具体的に形にして譲り遺して伝承を甦生させていきたいと思います。

時代に挑む

懐かしい暮らしというものは何かということを考えてみます。それは自然と共生する暮らしであることは間違いありません。なぜなら人はみんな最初は自然と共生する暮らしを続けてきたからです。

それがいつからか自然と離れて、時間ばかりを搾取されるような忙しい時代になり暮らしは消失していきました。私たちの暮らしは、自然から離れたところにいることで成り立つほどに経済や社会が改造されていきました。今では、たまに自然と共生しようとすることを遊びで行うくらいです。

自然との共生というと、厳しいものばかりいわれます。気候変動をはじめ、飢餓や飢饉などの影響も受けます。それに病気をはじめ自然災害に苦しめられます。現代社会からみたら、貧困の恐怖のように思えるものです。

しかしよく考えてみると、現代の人口増加の問題や環境問題、それに世界戦争の問題はどこから発生しているのか。行き過ぎて行き詰った状況になったのは明らかに自然との共生を完全に離れてしまったことで発生したのは明らかです。人口の問題などは、今ではアフリカやアマゾン、ありとあらゆる奥地まで資本主義経済を持ち込み、人口増加が拡大しました。世界では10億人くらいの規模がちょうどよいとされていたのが、今では80億人、100年後は160億人となればまるで都会に密集して生きていくような都市の暮らしになってしまいます。

そうなると予想されるのは、食料の問題、環境の問題、そして戦争の問題がすぐに出てきます。結局は、このままいけばもはやゴールが見えているのです。ゴールが見えていても、自然から離れて自然に回帰しようとしませんからそのゴールにたどり着くスピードを上げていくだけでしょう。

科学技術が発展したというのは、この都市化の速度を上げる、あるいは都市化に効率よく変化できるなどの部分だけで自然との共生とはあまり関係がありません。自然との共生は、先人の知恵のところであり、それは縄文時代、あるいは各地域の先住民たちの長老などが語るものの中にこそあります。本来、これが最先端の科学技術の根源であり、私たちはその知恵によってここまで発展してきたともいえます。

私たちが今生きている時代というものは、その揺れ戻しを体験していく時代ともいえます。この150年で蓄積してきた、時間がついに爆発していくのです。だからこそ、その時間に挑むことが求められます。

暮らしフルネスの挑戦も、そして徳積の挑戦もまた、時代に挑んでいるのです。懐かしい暮らしや、自然との共生は、創意工夫で実現できます。子どもたちや未来世代に何が遺せるか、これからも試行錯誤していきたいと思います。