本物

私たちは便利な世の中で加工食品も増え、保存技術も様々に開発され消費期限も伸びてなんでも食べられるようになりました。しかしその分、便利な食品ばかりが台頭しむかしからあるような自然のもの、本物、手間暇かかるもの、期限が短いものは失われていきました。

同じ名前であっても、むかしの本物と今の加工品はまるで別物になっているものがたくさんあります。例えば、私は100年前の梅干しをいただき今も大切に食べていますが今の時代の梅干しとは全く異なります。食べ比べするとすぐにわかるほど、梅干しの味が異なるのです。どう異なるかといえば、塩も今の塩よりもずっとしっかりと塩の味がし、梅干しもほんの少し舐めるだけでも今の梅干しの数個分食べたほどの満足感があります。

他にも私は伝統固定種の高菜を無肥料無農薬で自然のなかで育てていますが、それを漬物にし食べますが市販されている高菜の漬物とは全く味が異なります。その異なる味は、味付けという問題ではなくもともとの素材を含め時間も道具も取り組み方も全部違うといったことから生まれる味です。

つまり味というのは、ある意味五感の一つを使うものですから誤魔化せません。しかしそれを誤魔化せるとしたら、本物がこの世から消えてしまえば誤魔化せるのです。誰も本物を知らない世の中にすれば、誰も本物が何かがわからなくなるからです。

その仕組みで世の中は本物が失われていき、別の本物にとってかわられます。これは決して食品だけに限らず、ありとあらゆるものがこの仕組みで別物になっていくのです。

見た目が同じでも別物になる、似たように似せても別物になる、理屈では同じでも別物になる、しかしそのどれもが本物として表現されて残っていくのです。これはとても残念なことのように思います。

むかしの本物を知っている人が、食べたり触ったり、聴いたり感じたりすればすぐに本物かわかりますがそれを知らないまま、別の本物を教えられた人たちは思い込みや刷り込みも入ってきますから余計に本物を見出すことが難しくなります。

経済というものは、この本物を駆逐するときに便利さを利用して拡大していくように思います。本物の経世済民もまた、同じ仕組みで消えていきました。今では徳を当たり前のように語る経世家もほとんどいなくなり、得ばかりを競いあう経営者ばかりが常に争いしのぎを削っています。自由や豊かさも、むかしの本物を知る人が失われ今ではそれも別物に換えられました。

子どもたちや子孫に何を遺していこうかと考えるとき、できたら本物をそのままに遺してあげられないかと願います。引き続き、本物に取り組んでいきたいと思います。

シンプルなもの

シンプルなものというのは洗練されているものです。言い換えればそこには嘘がありません。嘘とは何かと定義すると色々とありますが、簡単にいえば何かを盛っている、足しているともいえます。嘘も方便という言葉もあります。これは便宜的にスムーズに事が運ぶために嘘も役に立つという意味で使われます。つまりは、嘘というのは本当のことではないということです。

では本当のことは何か、それはとてもシンプルなものです。つまりそのままあるがままの姿であることです。例えば、健康というものも何か特別な健康食品を食べたら健康になるかというとそうではありません。シンプルに当たり前に自然に学び、自然の力が入るように育てられた風土の旬のものをその素材のいのちが壊れないようにして食べれば健康を保ちやすくなります。

しかし実際には都会的な生活で風土からも離れていますからそんなことはできないと健康食品やサプリが流行ります。健康を手に入れるためには、そういうものを摂取しないとと大量にドラッグストアやコンビニで栄養剤や健康食品が流通しています。また偉い先生と呼ばれる大学やその道のプロや専門家が、それぞれに効能や特徴、効果などを科学的に分析し、地味な成果を少し「盛って」話をします。それが嘘になっているということです。しかし口をそろえて、嘘も方便といいますから結局この方便を使うというのが嘘ということなのでしょう。

テレビや報道、ありとあらゆる情報は少し盛っています。なのでそれが当たり前になっている世間では、嘘が当たり前で本当のことは面白くもありません。方便が上手な人たちが世の中では目立ち、注目されます。それがバレないようにまた別の方便を磨いていきます。まるで方便合戦です。

そういう私も、会社で営業をしていた期間も長く、また大勢の人に話をする機会が多かったから相手が喜ぶように、またみんなが感動するようにと努力しているうちに話を少し盛る癖がつきました。しかし、歳を経て、色々なことを体験し、徳を積むことなどに真摯に取り組むようになってくるとこの方便が自分を苦しめることがわかってきました。

自分が少し盛る癖があると、その分、本当のことやシンプルなことに自信がなくなってくるのです。もっと周囲が喜ぶようにや感動するようにとやっていると、何が本当で何が嘘かがわからなくなるのです。

実際の人生を顧みると、波乱万丈なことばかりでそれをそのまま伝えた方がみんなが驚きます。そこには嘘がなく、特に盛るわけでもなくあった事実をありのままに伝えるだけです。これは自然でもあります。他にも、私の場合は古民家甦生や自然農など他にも自然物を使って色々と発明するのでそれをそのまま伝えた方がみんな驚かれます。そこには盛る必要もなく、ただあったことを伝えるのみです。すごいと見せる必要もなく、ただそれをシンプルに伝えるだけです。

本物というのはとても力があるものです。なぜなら嘘がないからです。嘘で塗り固められた本物風というのはどうも嫌な香りが匂ってきます。そこには心地よい余韻もありません。

子どもたちは刷り込みがないからこそ本物がわかります。子供だましのような世間とは別に、子どもに誠実に子どもに方便を使わないでシンプルなものを伝承していきたいと思います。

いのちの本体

家の庭の景色はいよいよ秋から冬の気配です。鳥の乾いた鳴き声や、枯れ葉に朝露がかかる様子、また無風で何も動かずに冷たい空気、夜空に寒さで揺れる星月などを眺めるととても味わい深いものがあります。

不思議なことですが、加齢とともに秋冬や侘びさびなどの美しさ、夕陽や静けさなどが居心地がよくなってくるものです。いのちというものは、自然のリズムに私たちが合わせています。自然から切り離されて人間中心に時間もスケジュールも動いていますが、心は自然のリズムに沿って心身を委ねているものです。

その証拠に身体も冬は節約し、春は毒を抜き、夏は燃焼し秋は貯えます。これは私たちが自然のリズムに合わせているからです。人間の傍で生きている他の生き物たちも似たようなリズムで共生し助け合って暮らしています。

体の声を聴くことは、心の声を聴くことであり、心の声に従えば、体の声にも従っています。つまりは身体一如であり、自然身体も一如ということです。

だからこそ、心で季節を味わうことや、体で季節を体験することは自然と安らぎ自然の豊かさを直感する大切ないのちの呼吸になります。

私たちはいのちを感じるとき、そこに呼吸があります。深夜に目が覚めて、ふと自分の呼吸に意識を集めてみます。すると、それが自然や宇宙、自然と一体になっていることに気づくものです。私たちは呼吸を通して、自然の一部として共生しており、同時に呼吸によってあらゆる意識と結ばれているともいえます。空気というものは、いのちの本体ともいえます。

どこから出でてどこにか帰る、その扉は空気だけが結ばれ通じているものです。この何もない中に無尽蔵の何かがあるという意識こそ、自然を観察する醍醐味かもしれません。

季節は微細にまたダイナミックに変化しています。その豊かさに感謝しながら、豊かな今を味わっていきたいと思います。

本物の体験

誰もが毎日、様々な体験をするものです。その体験は、自分の思い込みで行う体験と自分の澄んだ心の側の体験というものが二つが一つになっているものです。これは内省をするとよくわかりますが、知識の中での他人軸や人間軸での認識ともう一つは知恵の中での自分軸や自然軸での認識があるということです。

人には誰もが刷り込みというものがあり、嘘を信じ込まされているものです。それはある時から知識を覚え、その知識が当たり前になっているほど信じ込まされているなかで常識というものを持っていきます。周りが言っていることを鵜呑みにしているうちにそれを疑うことをやめてしまいます。すると本当のことがわかっても、自分の常識に合わせてなんとか修正をしようとしているものです。常識と違うものは、混乱するから修正しようとするのです。水が燃えたり、火が流れたり、風が固まったりとおかしなことがあることはおかしいと何かの間違いだと補正しようとするのです。

人間が信じる世界というのは、実際には人間の常識の世界ということでしょう。信仰心というものも宗教が組織を保つために嘘で塗り固められた権威みたいなものもあるのでそれを信じているというのは自然や宇宙とは関係がないことのようにも私は思います。

本来は、嘘かどうかは自然や宇宙の観察に由ります。つまりそこに人間の知識が介在せずにありのまま、あるがままを直感するということです。この直感というのは、感じたままに直に観るとも言えます。何も濁り澱んでいない知識、つまりは知恵のままに素直に直観するということです。

空を空で観ず、海を海で観ない、そのままにあるがままに観るということです。これは自分というものにも言えるものです。自分を自分として観ないということです。すると常識を外していくことが重要になります。

日々の自分の体験は、思い込みがしていることなのか、それとも思い込みのない自分がしているものなのか。思い込みのない自分がしている体験こそ、本物の体験なのです。

こんなことを書いても、ちょっと変だと思われるかもしれませんが私が目指すのはこの世で本当の体験をして魂を磨く仕合せを味わいたいということですから引き続き、自然にこだわり続けていきたいと思います。

私の好きなもの

自分の好きなことを掘り下げてみると、自分の得意なことや興味関心があることに気づきます。その好きなことというのは、単に物質的な好きなものではなく具体的に取り組んでいこうとする気持ちの好きな方に自分の本心があることにも気づきます。

例えば、私は小さい頃から発明が大好きでした。自分にしか観えないものを形にしていくのは気持ちがよく、それが何の役に立つのかわからなくてもなんでも創造していました。また大人になると発明は多種多様になり、調理なども好きで様々な組み合わせで実験したりして楽しんでいました。今でも、何か新しいことをするのが好きなのは発明したいからです。

この発明の意味は辞書には従来みられなかった新規な物や方法を考え出すことであるとし、また自然法則を利用した技術的思想の創作のうち、高度なものともあり、物の道理を明らかにするものともあります。

私の興味関心は自然にこそあり、人間の知識ではなく自然そのものを明らかにしたいということが好きであることがわかります。本当のことを知りたい欲求や、元々がどうだったのかということを学びたいという願望はとても強いように思います。このかんながらの道ブログも、元来の道を探るために日々に深めているものでもあります。いついかなる時も、自然を観察して自然の道理を読もうという意味では自然科学者に憧れたのかもしれません。三浦梅園先生を尊敬するのもその根っこのところの共感にあるようにも思います。

また他にも好きなことといえば、浄化することです。この浄化は、今の言い方ではシンプルにすること、洗練させることです。磨くことといってもいいかもしれません。何かを為さなくても、日々に磨いたり洗練させたりシンプルにするのがとても好きです。もっと言えば、本物が好きともいえます。本物にしたいのです。

この本物というものの定義は自然になるということです。不自然を正して自然に帰す。先ほどは、発明ということで自然を知りたい願望でしたがそのあとは自然を知って自然に原点回帰したいという願望です。それも単にむかしに戻すというようなことが自然とは思ってはいません。今更縄文時代にというのは不自然です。今の時代に産まれているのが自然ですから、今の時代でもどうあれば不自然ではないかを試行錯誤するのが好きなのです。

それを突き詰めていたら、暮らしフルネスになっていくということでしょう。そう考えてみると、好きなことをやっているものです。せっかくなのでそれを世の中のために役立てようとして、それが仕事になるものを探しているということです。世の中の人に貢献するために発明していますが、なかなかこの発明が時代に適合するのには時間がかかります。

引き続き、それも楽しみ味わいながら発明の人生と自然の道を歩んでいきたいと思います。

場と気の流れ

私たちは場を考えるとき、空間というものの中にあるものを捉えます。空間は空っぽではなく、その空間には気が宿ります。この気というものは、気の流れともいいますがそれぞれが結ばれて気を関係しあうことで空間の中に絶妙な調和をもたらすものです。

例えば、自然界でいってもどの位置に山があり谷があり川があるのかでもその空間の場の空気は変わってきます。よく空気が美味しいという言い方もしますが、そこには空気を美味しくするような場が調っているということです。

これは空気に限らず、水でも火でも、絶妙な調和をもたらせている場所が力を宿す場になっているということです。むかしからそのような場所は、祈りの場所にしたり、癒しの場所にしたりと工夫されてきました。

私たちの感じる居心地のよさというもののまた調和をするときに感じるものです。つまりこの調和を本能的に自覚しているということになります。安心ともいい、喜びともいいます。

こういう場づくりはどのように行うのか、私は自然の中にその調和を見出していきます。そこにはそうなるように絶妙に仕組まれた経緯があります。その経緯を読むのです。

経緯というものは、ご縁とも言い換えることができます。これでは抽象的になりますが、実際には場と縁というのは切っても切り離すことができないものです。このお互いの関係性に気付けるかどうかが善い場を形成するための要諦になります。

ある山に入り、光と水と風、そして木々と音と火や煙、土と岩の絶妙な場所で人が祈る。これだけでもそこには見事な調和や場が誕生します。

つまりこれは気の流れの話です。気をどうするのか、気をどうしたのか、これはその気が観えていること、気を動かせる人、気を鎮められる人というように調和に導く存在の関係性の中で醸成されていきます。

私が場の道場のなかで特に磨いているのはこの一点といっても過言ではありません。この気の流れを読む力は、日々の一期一会のご縁を大切にしていく生き方によって高まっていくものです。

何のために場をつくるのか、この問いが大事になります。

引き続き、子どもたち、子孫のためにも廃れていくものを拾い集め、本来のいのちを場に置き換えてさらなる徳を磨いていきたいと思います。

先人からの願い

昨日は、千葉のむかしの田んぼと福岡の場で新嘗感謝祭を行いました。この行事も会社みんなで取り組みはじめて10年以上になります。毎年、お田植祭から草刈り、そして収穫し食べているお米の新米を御蔭様に感謝してみんなで一緒に食卓を囲み団欒します。汗水流して共に働く仲間と同じ釜の飯を食べることの仕合せは本当に格別なものです。

私は今回は、縁あって福岡の場でお祀りしたり祈祷をしたりすることが中心になりましたがこうやって毎年、色々なことがあっても有難いお米を一緒に食べられる喜びを深く感じています。

私たちは現代の食生活ではお米離れが増えていきました。お米がなくても生きていけると勘違いするくらい、お米以外のものを食べています。また食生活が変わると、お米に対する思いも失われてきています。

そもそもお米が日本になかったころは、植物では山にある樹木の実などを採取して食べていました。人口が少ない時はまだしも、現代のようにこれだけの人口を養える食べ物などはほとんどありません。

よく考えてみると、地球の人口が80億人を超えるというのはそれだけ食べ物があるということです。食べ物がなければ人口を維持することは不可能です。私たちの食糧問題というものは、大量生産大量消費するなかで発生したことで本質は増産できる仕組みが発明されたことによって発生したともいえます。

この増産の仕組みは、冷静に観察すれば一気一斉に搾取する技術を発展させたということです。自然のルールを人類は無視しようと決めたということでもあります。資源をこれでもかと自然から絞り出す仕組みを考え、後のことなど考えずに取り続けるという手法の発展です。これは資源が取れなくなったらそこで終了ですから、取りきれるまではありとあらゆる方法を使って続けられるということです。

もはや誰も気にとめないほど当たり前になっている世の中になって久しいものですが産業革命以降、資本主義もですが膨大にあると考えられた地球の資源をそれぞれの国家が我先にと奪い合い続けてきました。そのためには、人口を増やし貨幣を増産し流通させ、潤沢な資源を世界に売りさばき他の資源を買い続けて国力を富ましていきました。国力を増す際に、軍事力も増強しミサイルを増やし続け、同時に金融も増やしてきました。

世界は少しずつ資源が失われていくなかで、残りの資源の奪い合いが熾烈になっていくのも予想できます。

むかしの稲作は、みんなで手を取り合って作物を育てていきました。豊作の時は、みんなで食べ物がある喜びに感謝して仕合せを嚙みしめたように思います。自然のルールと等しく、食べ物があることが当たり前ではないほどにぎりぎりの生活をみんなで送っていました。時には飢饉が起きてたくさんの人が亡くなりました。しかし、そのことがかえってお米の大切さや日頃から備えることへの重要性を学び、助け合いや思いやりなどの相互扶助の精神も育っていきました。謙虚さを磨いて自然に対する姿勢を育ててきたのです。

しかしあまりにも膨大な資源が目の前にあればそんなことは感じないかもしれません。以前報道で作りすぎた野菜を大量に捨てているものをみても少し足りないくらいの方が、みんなが大切にしようと思うものです。いくらでもある資源、あるだけ使い切る資源というのはかえって徳を損ね、本来の有難さや感謝を感じにくくするものかもしれません。例えば、空気がなくなるといったら人類はどうなるでしょうか。もっと汚さないように、もっとなくならないようにと丁寧に呼吸をするはずです。

常に有難いと思う気持ちのままでいることは、私たちのいのちを長く助けます。引き続き、子孫のためにも先人からいただいた遺徳をさらに善いものへと発展させ、暮らしを紡いでいきたいと思います。

真の知識

文字という発明は、私たちに知識を固定する仕組みを与えてくれたともいえます。本来なら口伝や一子相伝のように文字ではないもので伝承するものが文字によって大勢の人たちの間で理解されて使うことができるようになりました。

私も法螺貝をはじめてから、結局は耳や吹き方、その生き方などは貝から学ぶことを通してかつての文字がなかった時の伝承に触れて理解したことがあります。実際には文字では伝承できないことがほとんどで私たちは渾然一体になっているものをそのまま直感することで真の知識を会得しているともいえます。

しかしこの言葉の問題というのは、言葉で理解する限界があります。最初に分化したものを使ってそこから一つにしていくというのは難しいからです。言い換えるのなら、分かれたものを一つに戻すというのはできないことだからです。戻そうとしても、戻った時には別のものになります。つまりはこの世の中は、常に新しくなっているもので同じものはありません。一つとして同じものはなく、同じように見えても明らかに別のものになるからです。

そう考えたときに、私たちが錯覚するのは同じものがあると勘違いすることです。同じ日がある、同じことがある、みんな同じなど、あり得ないことを想像しては同じではないことに苦悶するのです。知識ばかりを持つと、この同じものがあると思い込むようになるように思います。

一期一会というものもまた、人生二度なしというものもまた、状態が常に何かと呼応して変化し続けているということです。

私は今、足を骨折して安静にしていますがじっとして何もしないと動かないでいると周りが動いているのがよくわかります。自分が静止することで、周囲の動きがよく観えるようになるという具合です。変化というものも、同じことを同じように繰り返していればいるほどに同じではないものがよく観えます。

日々の日記や反省、振り返りなども同じように過ごしても感じること気づいたことはほとんど新しいものです。これは常に何かが融合し続けて已むことがないことを意味します。

人間関係も然り、自分の身体も然り、そして運命もご縁も然りです。

三浦梅園先生は、反観合一という思想を持ち座右としていまし。これは反転にして観察し、一に統合するように言われます。もともと何のためにこれをするのか。自然というのは渾然一体です。それを観察して科学にするのだから、当然分かれたものを観る必要があります。しかし分かれたものを観ても、元の姿がわからないのだからそれを反転させてもう一度、最初が何かを直感する必要があります。

私は先ほどのように、同じものはなく常に新しくなるのだからその新しいものを知り、古いものを融合し続けることが真の知識には必要だと感じています。そしてそれは切り取られた知識にするのではなく、実際に生活に即してその人の性格や人格になったときはじめて実現するものです。簡単に言えば、法螺貝を知識で学ぶのではなく法螺貝のようになったときに真の知識を得るという具合です。

そこには、そのものと対話しそのものと一つになろうとする精進が必要です。そういうものを仙人ともいい、道とも呼んだのかもしれません。引き続き、自分の実体験を以って、自分の観察したものでかんながらの道を拓いていきたいと思います。

水のある暮らし

ここ数年は、寒暖差が激しく英彦山においても突然に積雪がということがよくあります。昨年は、配管が凍結で破損したことなどもあり早めに対応してきました。もともとこの配管が破裂するのは、科学的には水が氷ることによって約1.1倍の大きさに体積が膨張するからです。

水というのはとても不思議で、よく考えると蒸発したり凍ったり、あるいは混ざり合ったりあらゆるものに変化していきます。そしてそのどれもが不思議なものです。

例えば、水は体積で自分よりも密度が高いものが沈みます。そうではないものが浮かびます。それに浸透圧で様々なものの溶け込んでいきます。植物をはじめ私たち人間もこの水によっていのちは巡り、水が通ることによって循環を促します。

水を知ることが、何よりも山の暮らしには必要なことです。英彦山の宿坊では井戸を甦生し、井戸を利用しています。水道も来ていますが、今ではほとんど井戸が中心です。

井戸水は年中一定の温度を保たれています。それは地中の水を使うからです。この地中の水は凍っておらず常に地下を流れ続けています。植物たちもこの地中の流れている水を使うから冬も活動を続けています。

氷河期を乗り越えてきた生き物たちは、ほとんどがこの地中の熱によって守られてきました。火を使わなくても温かい温度を確保できる地中は、私たちにとっては何よりも有難く、また水が動ける状態であるから私たちも生きていくことができています。

この水が凍らない状態をどう保つかということに知恵が必要です。宿坊はすでにかなりの冷え込みで、冬の厳しさがますます家全体に響きます。梅雨から夏の湿気が嘘のように今度は激しい乾燥がはじまります。厳しい冬を乗り越えるために、雪国と同じような水を絶やさない生活がはじまります。

都会にいれば、便利な生活の中でそんなに水のことを真摯に向き合って大切にしようとはなかなか思えないものです。環境の力というのは偉大で、学ばなくても自然にその環境によって意識も感性も磨かれていきます。

子孫のため、先人からの教えを伝承するためにも水のある暮らしを繋いでいきたいと思います。

本来の在り方

私の尊敬する三浦梅園先生は、ご先祖様への信仰が大変深い方でした。常に先祖を敬う心に篤く、実父の死後には三浦家一統の墓石を一ヶ所に集め、一日三度の墓参を欠かさなかったともいわれます。これは最晩年まで続き、老齢に至ってからも、一日二度の墓参は欠かさなかったそうです。そして梅園がこの墓参をやめたのは、自身の死の数日前であったともいわれます。

私も、幼い時から家から2キロほどあるお地蔵様のある場所にご先祖様とのご縁を深く感じて今でも欠かさずお参りにいきます。その関係性は、親子のようでもあり、親友のようでもあり、あるいは夫婦のようでもあり、いついかなる時も見守ってくださっている大切な存在です。

私が最も尊敬するところは、この墓前や先人、況や先人やご先祖様という自分が今まで結ばれてきたものとの深い対話こそ後世に遺すべき真の学問の在り方ではないかと直感するところです。まさにこの生き方は、真実を見極めるためにもとても大切な実践であると私は感じます。

人は何のために学問をするのかということがあります。三浦梅園先生は、こういう言葉を遺しています。

「学問とは、飯と心得るべし。腹に飽くがためなり。掛物のごとく人に見千ためにあらず・・学問は置き所によって善し悪しがわかる。臍の下善し、鼻の先悪し」

とも。知識というものを持つと、人はすぐに掛物や見世物のようにすぐに使おうとします。現代は情報化社会で、それを生業にしている仕事もありますから特段それが悪いことのようには思わないものです。しかし、本来の学問とはどういうものか。それは生き方です。その人そのものの存在が学問をする姿勢かどうかは特に気を付けていく必要を感じます。またこうも言います。

「知識というものはそれが学習者の心に同化し、かつその人の性格に顕れるときのみ真の知識となる。」

真の知識とは何か、それは人格になったときとも。人間力と学問は一体になっているということでしょう。なぜ人間は学ぶのか、何のために学ぶのか、学ぶとな何か、そもそも人間とは何かということを見極めた言葉のように感じます。

私が今回、シンポジウムを三浦梅園先生の生家にこだわったのもそれが三浦梅園先生の遺徳を学ぶことになると直感するからです。それは長子、三浦黄鶴が父親についてこういう言葉を遺したからです。

「死に仕ふることかくのごとし。生に仕ふること、知るべし」

みんなで墓前に参り、そのあとに、生家で語り合うことの偉大さ。そして真の遺徳とはご先祖さまのことを尊重してこその真の学問への道であると確信するからです。

今の時代もむかしの時代も関係がなく、本来の在り方を見つめていきたいと思います。