天命と人道というものがあります。これは天はそのまま命であり、人はそのまま道であるともいいます。天地自然と人間社会の中で生き活かされている私たちは、その両輪を暮らしの常としています。
そもそも天命というものは、俟つことしかありません。これはその人に命じ与えられた命令であり役割とも言えます。不思議ですが、天命というのは自分の真心や素直さに応じて、またその時々の純粋な喜びによって感じ得るものです。別に運命とか宿命とかもいいますが、結局は天命は自分ではどうにもならない事実のことです。その事実は事実そのままですから諦めてはじめて真の事実を直感できるものです。自分は他人ではなく、自分にしかない人生を生きるのなら人はみんな自分に正直に自分の天命に従うことしかできません。
全ての生き物は、その天命を感じて自然と歩んでいます。この自然というものが天命というもので、それを古来日本では「かんながら」とも呼びます。日本人の持つ自然観は、この自然に逆らわずに応じて天命のままにあるがままということでしょう。
そして道というものは、人間の道です。これは思いやり助け合うという徳で結ばれた繋がりによって仕合せを生きることです。みんなの喜びが自分の喜びであり、自分の喜びがみんなの喜びになるように世の中が安寧に安心して平和であることに向かっていこうとすることです。これも不思議なことですが、人間は(というよりすべての生き物)はみんなで助け合い生きることを最初から具わって生まれてきます。分類わけされた生命ではなく、すべての生命は全体が調和し循環することを通してみんなで助け合い思いやり生きようとすることです。
絶滅なども求めてはなく、みんなで地球の中で循環して暮らしていこうとするのが生きる道なのです。その最たるものとして、人間はみんなが仕合せになるようにと頭で考えて取り組んできました。それが道の極み、つまり人道だったからです。人道とは、シンプルに言えば徳の政治を行うことでありみんなが如何に助け合い思いやり仕合せで暮らしていくかを実現していくことです。自他一体、全体快適を目指して生きてきたともいえます。
今の時代、人道が廃れたといえる理由は徳が循環をやめ、生き物たちは日々にこの瞬間も絶滅を繰り返しています。これは天命の問題ではなく、人道の問題です。この天道と人道というものは、本来は表裏一体です。
人道もまた私利私欲を諦めることによって、本来の自分に目覚め真心に従うと素直になり謙虚になって人は優しくなるものです。つまりこの天と人には共通の道があるのです。
人事を盡して天命を俟つことも、天命を盡して人事を俟つことも道の歩き方の格言です。この世も人も、本来は知識などなく知恵もありません。本来はそのままあるがままに存在しているだけです。実体などなく、何もない、しかし何かあるように私たちは生きていきます。
悟ることがゴールでもなく、単に人は歩んでいるだけですがそこに確かな道なるものは目には見えにくくなてきたとしても普遍的に存在します。この普遍的な道をどう歩むかということだけは、途切れることはなく確かに存在しているのを感じます。それを志とも言い、この心のままに生きる道は無窮で無限ということかもしれません。
今の時代もまた先人たちの時代の集積によって今の道に続いています。これから新たな道を辿るのに問題解決をするために発明するのも大切ですが、後かたずけや方向転換なども同じくらい重要になります。今を生きてきた連続にある今が道である以上、私たちは道を振り返り、またこれからの道をどう歩むかを一人一人の覚悟で決めていくしかありません。私も私なりのかんながらの道を歩んでいきたいと思います。