真の知識

文字という発明は、私たちに知識を固定する仕組みを与えてくれたともいえます。本来なら口伝や一子相伝のように文字ではないもので伝承するものが文字によって大勢の人たちの間で理解されて使うことができるようになりました。

私も法螺貝をはじめてから、結局は耳や吹き方、その生き方などは貝から学ぶことを通してかつての文字がなかった時の伝承に触れて理解したことがあります。実際には文字では伝承できないことがほとんどで私たちは渾然一体になっているものをそのまま直感することで真の知識を会得しているともいえます。

しかしこの言葉の問題というのは、言葉で理解する限界があります。最初に分化したものを使ってそこから一つにしていくというのは難しいからです。言い換えるのなら、分かれたものを一つに戻すというのはできないことだからです。戻そうとしても、戻った時には別のものになります。つまりはこの世の中は、常に新しくなっているもので同じものはありません。一つとして同じものはなく、同じように見えても明らかに別のものになるからです。

そう考えたときに、私たちが錯覚するのは同じものがあると勘違いすることです。同じ日がある、同じことがある、みんな同じなど、あり得ないことを想像しては同じではないことに苦悶するのです。知識ばかりを持つと、この同じものがあると思い込むようになるように思います。

一期一会というものもまた、人生二度なしというものもまた、状態が常に何かと呼応して変化し続けているということです。

私は今、足を骨折して安静にしていますがじっとして何もしないと動かないでいると周りが動いているのがよくわかります。自分が静止することで、周囲の動きがよく観えるようになるという具合です。変化というものも、同じことを同じように繰り返していればいるほどに同じではないものがよく観えます。

日々の日記や反省、振り返りなども同じように過ごしても感じること気づいたことはほとんど新しいものです。これは常に何かが融合し続けて已むことがないことを意味します。

人間関係も然り、自分の身体も然り、そして運命もご縁も然りです。

三浦梅園先生は、反観合一という思想を持ち座右としていまし。これは反転にして観察し、一に統合するように言われます。もともと何のためにこれをするのか。自然というのは渾然一体です。それを観察して科学にするのだから、当然分かれたものを観る必要があります。しかし分かれたものを観ても、元の姿がわからないのだからそれを反転させてもう一度、最初が何かを直感する必要があります。

私は先ほどのように、同じものはなく常に新しくなるのだからその新しいものを知り、古いものを融合し続けることが真の知識には必要だと感じています。そしてそれは切り取られた知識にするのではなく、実際に生活に即してその人の性格や人格になったときはじめて実現するものです。簡単に言えば、法螺貝を知識で学ぶのではなく法螺貝のようになったときに真の知識を得るという具合です。

そこには、そのものと対話しそのものと一つになろうとする精進が必要です。そういうものを仙人ともいい、道とも呼んだのかもしれません。引き続き、自分の実体験を以って、自分の観察したものでかんながらの道を拓いていきたいと思います。