原始からのいのり

例大祭の準備で太鼓をお手入れしています。私のところで使われている太鼓は、明治19年のものです。それを修繕して使っていますが、元々これは滋賀県六地蔵で使われていたものです。私は地蔵尊とのご縁が深く、何か大切なことがあるときはよく地蔵尊に関係するご縁や出来事、物とも出会います。歴史あるものの続きを奏でられることに有難さをいつも感じています。

和太鼓というのは、石笛と同じく縄文時代よりあったといわれます。特に原始的なこの太鼓や石笛というものは、シンプルな音の中に深い自然への畏敬の念を感じるものです。

音というものは、不思議なものでその波動は複雑ではないほどに洗練されています。太古の音色は、叩きかた次第であらゆる心情を表現し、またその場の雰囲気を変えてしまいます。同時に、リズムによって全体との調和や躍動感を引き出していきます。

原始的な祭祀は、歌や舞、踊りをしますがそれはまるで春が来ては鳥たちや魚たち、あらゆる虫たちがいのちを踊るかのように舞い、いのちといのりを表現します。

これから誕生するものへのいのり、これから消えていくものへのいのり、そのどれもが音や波動を通して心情に沁みこみ響き渡ります。

さらに私のところにある最も古い太鼓は戦国時代のものがあります。これは陣太鼓で徳川家への献上品の一つでした。龍虎が描かれ、幻想的です。音を鳴らせばその余韻は深く、いつまでも耳を通して心に残ります。

目を閉じれば、その時代の音が聴こえてくるかのようです。

芸能のルーツは、これらのシンプルで洗練されたものの中にこそ今もまだ生き続けているように私は感じます。妙見神社の例大祭では、この妙を観る境地をみんなで感じ合うところに仕合せや喜びもあります。

子どもたちにいつまでも先人たちのいのりが伝承していけるように、丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

ご縁と直観に感謝

私たちには、運を高める力というものがあるように思います。また力というのは信じることで磨かれていきます。しかしこの力というものの本体は何かと観察するとそこにご縁というものが働いていることに気づきます。つまり、私たちの運や力の正体はご縁に由るということです。そしてこのご縁は、自然と同様に一期一会です。一期一会のご縁をどこまで大切に活かしてきたか、そこに運も力も存在するように思います。

そもそもこの時代にいることや今の環境にあること、そして自分という体、そして心、すべての感情も知識も認識もまたご縁です。今の両親のもとに産まれたことも奇蹟ですし、今生きていること自体も奇蹟です。それは説明すればみんななんとなくは実感するものです。この奇蹟と感じるときこそご縁を感じることです。

奇蹟であるとどれだけ一瞬一瞬に感じるか、不思議なことですが人間はなかなかそうは思いません。同じように朝起きて、朝食を食べてはいつもの家族や友人、仲間たちと仕事に向かっては一日を色々なことをしては終えていき就寝します。そのうち当たり前になってきてはマンネリ化して奇蹟だということも感じにくくなるものです。

しかしその当たり前やマンネリ化が何かの拍子に破壊されてしまうと、実は奇蹟だったということを思い出します。どれもご縁だったと深く感じ直すのです。私たちはご縁の導きによって道を歩んでいきますが、多くの物や機会や人に出会ってはまた分かれていきます。その中で、一期一会とどのように結んだかで人生の運が決まります。

運を信じる生き方というのは、一期一会の生き方ということでしょう。

私は座右の銘が一期一会ですから、毎日、運を信じては力を試して前進していきます。昨日もそして今日も、今も一瞬一瞬がご縁との邂逅です。日々に内省を味わいながら、自分が感じたすべての直観と誠実に対話して応じて実践を積み重ねていきたいと思います。

一期一会の生き方、ご縁と直感に感謝しています。

変化への感謝

マンネリ化という言葉があります。辞書によれば「マンネリ化(まんねりか)とは、マンネリズムにおちいることの別の表現で、同じパターンや状況が繰り返され、新鮮さや刺激が失われることを指す言葉である。例えば、日々の生活や仕事、趣味などで、同じ行動や状況が続くと、人はマンネリ化を感じることがある。マンネリ化は、新たな刺激や変化を求める人間の心理から生じる現象である。」と書かれます。

さらにこのマンネリ化の語源を調べていくとこの「mannerism (マンネリズム)」は文学、芸術、演劇などにおいて型にはまった手法・様式・態度への強い固執といった意味だと出てきます。そしてこのマンネリズムの言葉は、イタリア語のmannerからあるとして、これは行儀や作法や礼儀などの意味になります。さらにマナーにあたるラテン語マネリウムmaneriumは、領主が所領を秩序よく統治するために使われた言葉です。

マンネリ化は、ルールや秩序において形式的なことにこだわるような意味から形骸化や形だけ、馴れあいなどの意味に使われています。人間というのは不思議ですが、なぜそれを創めたのかという最初の理由をすぐに忘れていきます。忘れないように習慣化したらまた習慣化したのちにその意味を忘れます。

新鮮なままで心の状態が保てるかといえば、感動したものがいつまでも持続しないように様々な感情を通して感じ方が変わってきます。この感動というものも、とても絶妙な組み合わせとタイミングで発生するものです。同じことを繰り返しても同じことはありませんから感動が薄れていくのです。感動は新鮮さと直結していて、時間が経てば関係性が変わっていくように鮮度が落ちておくのです。

この鮮度といった新鮮さは、変化のことです。変化というのは、言い換えれば忘れていくということです。忘れないようにするために私たちは色々な工夫をします。その一つが感謝ではないかとも思います。人は感謝するとき、改めて忘れていることがあるのではないかと思い出します。人は思い出すとき、そのものの意味や価値に気づき直します。

そうやって繰り返し鮮度を甦生していくのは、それだけ大切な初心のお手入れをしているからです。古民家の飴色になった暮らしの道具たちや、いぶし銀のような美しさを放つ道具たちもそうやってお手入れをし続けてきた先人たちの感動が宿っているからです。

失ってはじめてわかるのでは悲しく残念です。形式化しないように、当たり前にならないように変化に感謝していきたいと思います。

預言の本質

預言というものがあります。これは辞書を引くと「ある人が神や神霊の代わりとなって、神意を民衆に告げること」とあります。世の中が不安定な時は、色々な預言者が現れ様々な預言をするものです。有名な預言者には、イザヤやエレミア、エゼキエルがいます。少し前ではドイツのシュタイナー、日本にも出口王仁三郎氏がいます。

そもそもこの預言というものは、不思議な直観力を持って見通す力だといわれます。しかし冷静に考えてみると、人間が預言者として尊敬して感動するのはここ数日から数年、あるいは十数年の事実を見通すことや、同様に過去の同じような期間のことを言い当てたことによるように思います。

1万年先や100万年先の未来も過去も、今の自分には関係がないからです。そう考えてみると神様と崇められる存在というのは短い期間の予想ができる人物ということになります。ある意味、組織のリーダーというものはその経営のかじ取りをする上で中長期的な未来予測を絶妙にできる存在が人々によって選出されていくものです。

そしてこれらの予測は、如何にして行われていくのかを観察するとそれは全ての出来事への内省からの深い洞察に裏付けられていることがわかります。

なぜなら、過去の出来事というものはその本質をよく見つめればそれは未来の出来事になるということがわかります。古来からの因果応報、陰陽調和の知恵にあるようにすべては表裏一体であり万物和合しているものです。何かをすれば相応にそのことが調和しゼロになるようなことが発生するのです。

これは預言というよりは、宇宙や自然の仕組みであり避けられない法理であり真実です。最初から存在しているルールというものには、逆らえないのです。どんな預言者であっても肉体的には滅ぶようにこれらのことも避けられません。物質が循環するという法理には逆らえません。

だからこそ預言は一般的には神の霊感とか言われますが実際に私が感じるのは非常に深い内省からの洞察でありどこまで物事の陰陽を微小に偉大に観ているかというです。これを科学で突き詰めるのなら、AIなどはその情報量のインプットと分析によってある程度の人類の未来は予測できるように思います。人間が受け入れないだけで、すでにAIは人間の業を分析済みであるのです。

ただ、人間は起きてくる真実とは別にどう生きるか、どう感じるかは人によって選べるものです。それはどのような宿命が待っていたにせよ、自分がその最後の瞬間までどうあるかは自由にできるということです。

なので、こうなった時はどうするか。こうあった時はどうあるかなどはある程度はシュミレーションできるものです。どんなに大金持ちであっても地球規模の大災害からは逃げられません。この世に宿命から逃れられる人はいないのです。結局は、その逃れた行為から別の業が発生していきますからこれも法理として決められた布置からは逃げることはできないということでしょう。タイムマシーンのようなものがあったとしてもまた別の運命に翻弄されるだけです。

先ほどの出口王仁三郎氏は、「この世で起こる出来事や事件はあの世に現れている」ともいいました。この世が陽であれば、あの世は陰ということではないかと私は思います。これは三浦梅園先生も同様なことを仰っていました。

また出口氏はこうもいいます。

「1日先のことがわかれば大金持ちになれる。1ヶ月先のことがわかれば大宗教家になれる。10年先、100年先のことを見通せば、頭が変だと危険視される」

これに1万年後とか10万年後のことを言うと、普通過ぎて誰からも気づかれない人になるようにも思います。結局は、預言というものの本質はそのような感じのものです。

だからこそ、今、どうあるかに集中することで過去も未来も調えていくことができるものです。過去をよく観察し学び伝承することは、未来そのものを善くなるように循環に導く大切な今になります。

今を大切にするのは、それが子どもたちや子孫の未来に直結するからです。自分がどうなるかを心配するよりも先に、自分よりも先の世代のことを慮り自分が多少大変であっても過去から学び未来を繋ぐことの方が預言の仕合せはあるように思います。

引き続き、かんながらの道を歩み徳を磨いていきたいと思います。

素直を磨く

果物には完熟期というものがります。これか果樹を観察するとよくわかりますが、周りの動物たちや鳥たちもその時期を分かって食べにきます。本来の自然というのは、いつ食べることがいいのか、そして食べる色がどうなっているのかをよく分かっているものです。

現代では、人間は色を着色して食べ物を出しています。脳がまずその色を見ては、この色は美味しいだろうと認識します。そして食べればその味を補正していきます。自分の知っているうまさに近いものに修正していくのです。一年中どこでも同じものが食べられることを目標にすると、本来自然にあったものを食べなくなっていくものです。

それだけ人間は思い込みである程度のことを判断しているということになります。私たちは感覚を発動させるために、先に脳が動きます。これは危険を事前に察知したり、あるいは情報を収集して最適な状況をつくりだすために行われてきたものです。

しかしその機能だけを発達させて他を使わないでいるとバランスが崩れていくものです。現在、様々な脳の病気や心疾患が増えるのもこの思い込みの仕組みばかりを使っているからかもしれません。

思い込みを外すというのはとても重要なことです。そのためには、日頃から自然の感覚を研ぎ澄ませている必要があります。この自然というのは、思い込まないということです。本来のものをあるがままに素直になって観るという生き方のことでもあります。

素直であればすべての真実を実感することができます。素直になるには、何が素直であるかを日頃から磨く必要があります。素直を磨いている人は、自然体に近づきます。自然体になれば、先ほどのような思い込みを使いません。全体が調和して感覚を使え、仕合せを深く味わえる暮らしがととのいます。

暮らしフルネスというのは、この素直を磨くことにも似ています。何が素直であるか、何が素直を磨くのかを体験することで人は自然体に回帰するのです。引き続き、暮らしの食をととのえながら素直を磨いていきたいと思います。

非常食の知恵

災害や震災など非常時には非常食が必要になります。しかしその非常食は、今の便利な世の中の常食に対しての非常食ですから本来の非常食ではありません。むかしは、天候の変化や飢饉などで食べ物自体がないことがありました。その時は何を食べてうえをしのいだか、またどのような対策を立ててきたか。つまり非常食といっても、その定義が異なるように思います。

むかしの非常食とは保存食です。味噌をはじめ、干して乾燥したもの、漬物など常温で保存できるものをたくさん備蓄していました。緊急時の保存食は乾燥したもの、水を使わないもの、塩などです。昭和のころは、かんぱんなどが非常食になっていました。

実際に自然災害に被災すると、水もない火もないということがあります。そうなると先ほどのような乾燥したもの味噌、漬物など持ち運びできるもので栄養があるものとなります。しかし水と火があるのなら、温かいものを食べたいと思うのです。調理ができれば、それだけ心身が癒されます。食べるというのは、単に栄養素がありいのちが生き延びるものではありません。コンビニにあるようなゼリー状のものだったりレンジでチンする便利なものは心身が元氣になるようなものではないあくまでサプリとしての役割になるように思います。

私は日頃から、炭火を使い調理をすることが多くあります。またお水も井戸水や湧水を利用します。なので、素材を活かした調理ばかりをつくるので元氣が出るものばかりを食べているように思います。この元氣さというものは、いのちがあるものを食べるときに湧いてきます。

水がなければすべての生き物は生きていけませんが、同じく温かくなければすべての活動が止まってしまいます。この水や温度は私たちの心身の循環に大いに役立つものでそれを保っているままでいることで元氣も循環していきます。

未曽有の災害はこれからもますます増えていくように思います。人類が自然から離れるほどに未曽有の災害が増えるからです。危機に備えるというのは、むかしの知恵を活かすということです。

引き続き、子孫のためにも暮らしの中で先祖からの知恵を守り続けて伝承していきたいと思います。

本当の変化

時代が変わってしまうと懐かしいものが新しいものになります。その理由は、時代の変化と共に価値観が変わり本来であったものが発展していく過程で複雑になっていくからです。ある程度まで複雑になってしまったものは、成熟してしまい変化ができなくなっていきます。つまり現代の価値観の中における変化というのは、複雑化していくということです。

その複雑化したものを原点回帰してまたはじめて新しいものにしていく。こうやって時代は何回も同じことを繰り返しているようでシンプルになることと複雑になることを往来しているともいえます。

例えば、料理でいえば最初はとてもシンプルだったものが様々な時代の流れや新たな料理が開発されていくなかで品数も増え味つけや方法も増えていきます。しかしある程度までいくと元に戻らなければそこから増やしていくことができなくなります。つまり変化がなくなっていくのです。老舗の味などは、このやり方とは異なり同じ味を時代が変わっても追及するなかで微細な変化を続けています。これは先ほどの足し算ではなく引き算によって変化を長く続けようとする仕組みです。

短期的な変化は、複雑化していくことですが長期的な変化は原点回帰を続けることです。これを不易と流行ともいいます。何を変えて何を変えないか、このあり方に生き方や生きざま、取り組み方や姿勢がすべて入ってきます。

和魂洋才や和魂漢才などの和魂という言葉があります。これも本来の日本人として生き方は変えないままにその時々の海外の文化を吸収して活用するということです。元を変えないということで原点回帰を続けていく仕組みです。しかし変化が長期的でゆっくりです。明治時代以降、日本は短期的でスピーディーな変化を採用してきました。つまり先ほどの言葉では、洋魂和才、漢魂和才ともいうのでしょう。変化はでて複雑化して発展しましたが成熟して変化が失われてきました。変化しないものは、滅びるのがこの世の常ですが変化は生きていることにおいて何よりも重要なテーマです。

今の時代、複雑化を変化と呼ぶ人があまりにも多くなっていますから新しいことばかりを求めては懐かしいものには目もくれません。しかし先ほどの老舗や長期的な取り組みを生きるかつての和魂のある日本人は懐かしいものを変化と呼びました。

私の取り組む懐かしい未来や懐かしくて新しいものは、本当の変化への挑戦になります。ここ数年、これに気付ける人たちが集まってきては、変化の核を形成してきました。遅々たる速度ですが、それが日本的な引き算の美徳と変化の本懐です。

引き続き、日本の未来をよくよく見据え今に積み重ねていきたいと思います。

暮らしの甦生

現代は、火はガスや電気があり水は水道がありとても便利です。一昔前まではそんな便利なものはありませんでしたからライフラインの確保は本当は大変なことだったように思います。

火は森の近くに、水は川や井戸の近くに確保しては人間の方が自然に合わせて移動をしていたように思います。今では、人間の方に便利な仕組みでライフラインを確保します。お金さえ払えば、どんな場所でも電気水道ガスは来ます。今ではそれが当たり前になっています。

しかしこの当たり前というのは、本来は当たり前ではないことを思いだす必要を感じます。そういうところから、人間の本来の自然の感性は鈍っていくからです。

私たちは火や水には毎日のように暮らしの中で感謝を忘れませんでした。それはライフラインだからです。これを失えばすぐに私たちは死に直面します。死を意識するのはこれらの火や水が失われることです。そのうえに衣食住があります。

その存在の有難さを忘れることもなく、いつも朝起きては火の神様、水の神様に拝み、また日々に何度もその存在を実感してはありがとうございますとお礼を言っては使わせていただいていたように思います。

私は古民家甦生をしてから、火や水のことをとても身近に感じるようになりました。その理由は、むかしの人たちがとても火や水を日常の暮らしの中でとても大切にしてきたことが家の様子から伝わってくるからです。

現代は暮らしというのも、人間都合のものばかりを暮らしと呼びます。少し仕事とは違う、非日常のことや、余裕や心のゆとりなども暮らしなどと定義しますが本来はそうものが暮らしではなく、先述したような火や水への感謝を忘れないことこそ暮らしなのだと私は感じます。

私の言う暮らしフルネスは、感謝の暮らしのことです。

現代のような時代、なかなかこれだけ便利で人間都合になればなるほど私が言っているのは時代遅れや潔癖や気狂いなどとも感じるかもしれません。しかし、私は今の時代こそ最先端であり必然であり、生きる力そのものとなるものだと思います。

便利さがこれだけ当たり前になる世の中では、人間本来の危機感も崩れてしまうものです。時代に流されず、子孫のためにも大切なことを守り続けながら人々に暮らしの甦生を伝道していきたいと思います。

恵まれている人生

思い返せば、私はずっと人に恵まれてきた人生を送ってこれたように思います。出会いやご縁を大切に生きてきた御蔭で、素晴らしい人たちの尊敬する部分、美点、魅力をたくさん体験して共感し学ぶことができました。人に興味を持ち、人の奥底にある役割や目的を丸ごと愛するように心がけてきました。

癖が強い人、こだわりがある人、あるいは繊細な人、器の大きい人、たくさんの人たちに出会っていく中で人間の魅力を感じて自分の糧にしてきました。似たところもあれば、まったく似ていないところもあったり不思議ですが関心はなくなりません。

人生の前半はずっと話すことに力を入れていましたが、後半からは聴くことに注力してきました。その御蔭で話を聴くうちに、周囲の人たちの存在がとても有難く感じるようになりました。人間はそれぞれに守るものがあり、それぞれの目的があります。時にはちぐはぐな人がいたり、またある時には思い込みで自分を見失っている人がいたりします。みんな何かに困っていたり、あるいは苦しんでいたりと、それぞれの悩みもあります。そういうことを丁寧に聴いて思いやりで接していく中で、その人のことが少し観えてきます。すると他人事ではなく自分のことのように感じて、取り組んでいくうちに気が付くと自分もあらゆることで助けられてきたように思います。

人間の不思議な関係は、「助け合い」をすることができるということです。助け合うことで、人生はとても恵み深いものになります。どうしても自分に余裕がなかったり自分が大変なときほど、自分でいっぱいになってしまうものです。

しかし恵まれてきたこと、今も恵まれていることに気づくことで周囲の有難さに気づいていくこともできるように思います。

この恵みというものの正体は、与えあう素晴らしさを実感できているということでしょう。むかしから奪い合えば足りず、与えあえば足りるという言葉もあります。与えるのが好きな人はそれだけ恵まれていることに感謝している人なのかもしれません。

豊かさもまた、その恵みを実感できる暮らしの中にあるものです。生き続き、感謝や徳を磨きながら日々の暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

山伏の柚子胡椒

昨日、英彦山でとても有名な柚子胡椒の会社、柚乃香本舗の代表がお越しになりました。先代の長野覚先生の時から守静坊の柚子を柚子胡椒にしていることをお聴きしており、毎年山伏屋敷の柚子胡椒として当坊の柚子を使っていただいております。

はじめて食べてみると、他の柚子胡椒よりも野生の味わいが強く元氣が漲るような感覚があります。もともと山伏の秘薬として、あるいは宿坊庭園の観賞用としてむかしから植えられていたといいますが時代の変遷を経て柚子胡椒として英彦山を代表するお土産、名品となっているのは素晴らしいことです。

お話をお伺いすると、祖父の方が創業者で柚子胡椒の元祖であることをお聴きしました。それまでの歴史や商品を研究してきた苦労、そして実業家でもあり山伏の家系として生き方、とても示唆のあるお話に有難く思いました。

そもそも歴史というものは、生もので過去にあったことが止まったままではありません。時代を超えて形を変えて、今の人たちがその歴史を生きたままに伝承していきます。人間が感知する歴史は、50年くらいたてばもはや何がその当時に行われていたのかは生きている人から伝わらなくなってくるものです。生もののように鮮度があるのです。いくら教科書や記録に書かれていても標本のようになっていても、動いているもの生きているものではなければ真実がわかりません。

しかしそれを観た人が多数生きていて、今もそれを大切に扱い、それぞれの記憶や実体験を口伝等でお伺いしていくなかで生きたままの鮮度を甦生させて生の歴史を知ることができます。

柚乃香本舗は創業者の祖父の実業を受け継がれ、今でもその初心と共にお仕事をなさっておられました。私も宿坊にある柚子と共にこれからも英彦山をはじめ柚乃香本舗のお役に立てることに感謝の思いがします。宿坊甦生の際にいくつかの木を作業できないからと切ってしまったことに深く反省しました。改めて英彦山の柚子の木をもっと大切にしなければと反省と決意をいただきました。

英彦山とのご縁は、この人生においてとても大きなものです。英彦山に関係する人たちと出会い、生きた歴史を知り、生きたままに歴史を味わう。こんな仕合せや喜びはありません。

丁寧に歴史を紡ぎながら、志や伝承を紡ぐ方々と共に子孫へと真心を結んでいきたいと思います。