暮らしの徳を調える

人の世の中というのは移り変わります。何が移り変わるかといえば、同じことがないということです。日々に進化して已まず、同じように周回していても同じことは一つとしてありません。天体や地球も周り続けていますが同じようにはなりません。常に同じというものはないのです。

同じがないというのは、とても安心感があります。何をしていてもどうしていても、あるいはじっと静止していても進化しているということです。静止こそ純善たる進化だと私は直感しています。似た言葉に停滞というものがあります。これはむしろ進化しているのに逆らっている状態をいうのでしょう。逆らわずに泰然自若、あるいは自然体で自然の道を自分らしく歩いていく人たちは静かなものです。

人間の寿命は限られています。形としての姿は必ず滅します。しかし人の魂はあらゆるものを依り代にして永続的に継承されていきます。時には、思い出や意識として受け継がれ、また時には場の中に思念や余韻としても継承されていきます。

私たちの肉体の本体は消滅しますが、精進し続けた魂は永遠ともいえます。それは徳という存在によって顕現するものです。

現在、宗教をはじめ目に見えないものは怪しいとされていますがそれを科学が証明すればあやしくはありません。人智の及ばないものは考えることを停止し、人智の及ぶ範囲を最先端だともてはやすというのはとても滑稽なものです。実際に最先端といっている現代のものは、古代や先人たちの叡智の足元にも及びません。どれだけの広さで物事を観ていたのか、どれだけの深さで直感的に捉えていたのか、もはや私たちがいう神様の領域です。仏陀をはじめ、老子や孔子、2500年以上前に出た人物たちの生き方を言語化してそれを教化したくらいから私たちは分化分類してはそれを整理することを知恵と呼びました。しかし実際には、自然が造形し創造したものには敵うことはことはなく、誰も地球ほどの調和を産み出すこともできません。

つまり私たちはどれだけ進化したと言い放って称賛してみても誰一人最初からあったものには敵うことがないということです。

この最初からあったものということに気づくことこそ、私は真の科学ではないかと思います。そして気づいたとしてもそれを何に使うかは人類が決めます。ここに人類の幸不幸が関わっているように思います。

質素で慎まやかな生活をするというのは、現代のような便利で不自然なほどにありあまる大量生産大量消費の人類優先の社会ではあまりいいものとは思われていません。

しかし、それも長くは続かずいつかは終焉がきます。その時、人類は五体満足であることや呼吸ができること、太陽があり水が飲めることなどに感謝するものです。

同じではないというのは、そうやって何度も最初を往来しては変化で気づこう、別の体験をしてみようと繰り返しているだけです。外を静かに眺めると、季節のめぐりとめぐみほど豊かなものはありません。

子孫たちに健やかな未来が譲り遺していけるように、暮らしの徳を調えていきたいと思います。