美味しさの本質

昨日は、食感というものを学び直すいいご縁をいただきました。もともと美味しいというものは、舌だけで感じるものではないことは気づいていました。例えば、心が籠ったものなどは胸の奥のところで味わえる感覚があります。他にも、しっかりとぶくぶくシュワシュワと発酵したものを食べると腸が美味しさを喜んでいる感覚もあります。五感を総動員して私たちは美味しいというものを感じる感覚を持っています。

その一つの食感というものがあります。これは例えば、食べたときのしっとり、ネバネバ、モチモチ、ふわふわなどと表現する部分です。つまり食感とは、口触り、噛みごたえ、粘度など手に持ったときから口の中でそれの複雑な存在の本質を味わうときに美味しいと感じるものです。

これは私の直観ですが、もともと人類はこれは安全で長く食べられるものを美味しいと認識し、危険で生存を脅かす食材を不味いと長い年月をかけて食感を磨いてきたのではないかと思います。それにもっともバランスよく食べられるように、その時々の状況で変わるように美味しさというものの感覚を使ってきたのではないかとも思います。

例えば、体が求めているもの、心が求めているもの、魂が求めているものを認識するために五感を総動員するのです。新鮮なものを食べるときは、まだ魂があるものかを認識します。お腹がすいてくると体が求めているものをその量を欲します。心は、味と場と雰囲気や誰とといった安心を求めます。

つまり美味しさというのは、一つの構成物で成り立っているのではなく総合的な感覚のバランスによってはじめてできているということでしょう。

美味しさの追及というのは、なので五感の総動員で美味しいものを追及するということです。部分最適に意識が間違わないように気を付けつつ、お米文化を守る為に精進していきたいと思います。