お花見の文化

お花見の季節が近づいてきました。もともとこのお花見の起源は諸説ありますが奈良時代の貴族が始めた行事だといわれています。最初は中国より伝来した梅の花を観賞するものからはじまったそうです。

それが平安時代に入るころには、梅の花から桜の花に変わっていきました。「日本後紀」には嵯峨天皇が812年(弘仁3年)に京都の庭園・神泉苑にて「花宴之節(かえんのせち)」を催したと記録があります。最古の記録の「桜の花見」です。また日本最古の庭園書「作庭書」にも、「庭には花(桜)の木を植えるべし」と書かれいるといいます。

梅が桜になった理由は、嵯峨天皇が神社に植えられていた桜の美しさに心を惹かれそこから毎年神社より桜を献上させ花見をすることが貴族の間で広まり文化になったともいわれます。遣唐使が廃止され、天平文化が花咲くころに梅から桜の方へと日本の独自性が磨かれていきます。

もともと梅の花が日本人が古来から深く信仰してきた花だといわれますが、同時に桜もまた日本人の信仰する花でした。それが桜が元々、山の神、田の神であったからです。

梅も桜も先に花が咲き、可憐に清廉で美しく幻想的です。冬枯れした景色のなかで、花が咲く姿は予祝を味わう日本人にはぴったりの花です。また散り方も美しく、春の温かい日に一気に散っていきます。そして新緑の葉が出てきて生命力を魅せてくれます。

どの花からも私たちは元氣をいただきますが、桜は特別にその元氣が満ちているような気がします。厳しい季節を耐え、清らかに咲き、新しい季節の到来を知らせる。

お花見は季節のなかの大切な年中行事として定着したのもよくわかります。忙しい現代だからこそ、この一年に一度しかない一期一会のお花見を味わって暮らしていきたいものです。

子どもたちにお花見のルーツとその素晴らしさを伝承していきたいと思います。

仙人への道

神仙思想というものがあります。これは古代からある信仰の思想です。シンプルに言えば、宇宙と一体になる道の生き方という感じでしょうか。諸説はありますが、この生きる道を道教としてあらゆる宗教と和合して現代にいたります。日本では神道と和合し、土着の信仰になりました。もともとは、神も仙人も和合するつまり多神教であり日本の神道の八百万の神々とも似ています。

古代の宗教は、生きる道でしたからあらゆる生き方が尊重され多様化していました。それが国家や組織に用いられるようになり変容を遂げていきました。しかし、英彦山をはじめお山に棲みお山を深めて幽かに残るその薫りのなかにこの神仙思想が宿っていることを感じるものです。

道教の信仰する神仙は大きく分けて「神」と「仙」の2種類があるといいます。つまり「神」には天神、地祇、物霊、地府神霊、人体の神、人鬼の神などがあります。その中の天神、地祇、陰府神霊、人体の神のような「神」は、先天的に存在する真聖であるといいます。そして「仙」は仙真を指して、仙人と真人を含んで、後天的に修練を経て道を得て神通力を持ち、また不死の人であるといいます。

仙人は白い髭の老人のようなイメージがありますが実際には、仙女といった女神、そして若い子どもなどもいます。仙人には以下の特徴があったといわれます。

身が軽くなって天を飛ぶ。水上を歩いたり、水中に潜ったりする。座ったままで千里の向こうまで見通せる。火中に飛び込んでも焼けない。姿を隠したり、一身を数十人分に分身したりして自由自在に変身する忍術を使う。暗夜においても光を得て物体を察知する。猛獣や毒蛇などを平伏させる。

日本でいえば、天狗のような存在でしょう。山伏や修験者たちも同様に似たような修行をしては次第に仙人のような境涯に入るのかもしれません。

また、神仙思想に憧れた人々は、仙境を目指しました。仙境とは「仙人の棲む土地のことで俗世間を離れた清浄な地」を指します。中国では桃源郷とも呼びましたが清浄で澄み切った高山や島を目指したといいます。修験道には山だけではなく海での修行もあります。かの空海も海の絶島で自然修行を積んだといいます。遍路のルーツです。

そして中国では神通力を持つ人たちのことを自然の化身と考えていました。自然の持っている力を人間が使えるようになっていたということです。雨や風を呼んだり、自然現象を呼び覚ましたともあります。かの三国志の名軍師、諸葛亮孔明もその仙術を使えたという言い伝えも残っています。

時代の変遷を経て、本草学や巫術、呼吸法、按摩、祈祷法など複雑に発展をして今もあります。今ではこの神仙思想や道教はあらゆる宗教と融和して内面に取り入れられています。

英彦山の守静坊には、仙女の絵があり仙人が建具に描かれています。不老不死の妙薬、不老園をつくり、呼吸法や歩行法などを伝道していたことが思いおこされます。修験道というものの根源は何か、形式的な宗教のかたちにこだわらず、ちょうど半僧半俗も百姓も堂々と合法的にできる今だからこそ古から流れ続けている道を探求しているところです。

どんな道にもはじまりがあります、しかし終わりはありません。道は無窮、老子はどうやって仙人になったのか。英彦山の御蔭さまで興味や好奇心は尽きません。不老不死というものも、本来の養生観とは切り離された現代の私たちではだいぶその意味も異なっているのかもしれません。

この時代の不老不死を味わい、道を辿ってみたいと思います。

この記事に感心がある方は英彦山の守静坊に来坊ください。不老の仙薬、今ではお茶ですが共に一服して語り合いたいと思います。

 

英彦山に残る“守静坊のしだれ桜”伝承物語

これは今から二百年以上前の江戸時代から霊峰英彦山の山伏の宿坊、守静坊(しゅじょうぼう)にある一本の老樹、しだれ桜と共に語り継がれているお話です。

霊峰英彦山は九州福岡にあり、日本三大修験場の一つに数えられ修験道のはじまりの聖地であり、古来においては霊験を極めた仙人たちが棲む神仙の地で人々が憧れる天国のようなお山であったといわれる場所です。

現代ではあまり聞きなれない修験道というのは、厳しい自然の中で修行をする修行者のことを指し、金剛杖や法螺貝などを持ち歩き、深山幽谷に入り自然と調和し己を磨きその験徳を実践する方々のことです。

そしてこの守静坊は、戦国時代末期から続く修験者の棲む宿坊で先代の駒沢大学名誉教授の長野覚氏で十一代続いている由緒ある坊です。

守静坊のしだれ桜が英彦山の地に植樹されたちょうど二百二十年年前には約三千人以上の修験者たちが英彦山の中で暮らしていたといわれます。当時の英彦山はとても賑わっており、山伏たちは薬草で仙薬をつくり、信仰者へのお接待やご祈祷や祭祀、護符の授与や生活の知恵の指導などを生業として暮らしていたといわれます。

その当時の面影を残し、今でも清廉に咲き誇る「しだれ桜」が守静坊の敷地内にあります。この桜はもともとは京都の祇園にある桜でした。品種名は一重白彼岸枝垂桜(ひとえしろひがんしだれざくら)といいます。澄みきった可憐さを持つ花びらと、鳳凰のように羽を広げた姿はまるで今にも飛翔していきそうな姿です。

実際には樹齢二百二十年以上、高さ約十五メートル、幅約二十メートルほどあります。言い伝えでは、江戸時代の文化・文政年間に(1804年~1819年)に当時の守静坊の坊主である守静坊普覚氏が二度ほど、英彦山座主の命を受けて京都御所へ上京しました。その時、京都祇園のしだれ桜を株分けしたものを持ち帰りこの英彦山に植樹したといいます。

樹齢としてはもっと長いものがありますが、守静坊のある場所は標高六百メートルほどもあり、冬は特に厳しいもので雪は積もり、鹿などの野生動物も多く被害にあいます。厳しい環境の中で生き抜いてきた老樹は今までも何度も枯死する危険に遭遇しました。平成二十年には台風で倒木し枯れる寸前で花もつかなくなっていたこのしだれ桜を九州ではじめて樹木医と認定された医師による治療の甲斐あってまた満開の花が咲くほどに復活しました。

同時に守静坊も人が住まなくなって数十年ほど経ち坊内や庭園の荒廃が進み倒壊し失われる危機を乗り越え飯塚にある徳積財団が譲り受け皆様よりのお布施の御蔭様のお力をいただき修繕し新たな物語を繋ぎ結い直しました。また甦生で出た屋根の古い茅葺をしだれ桜の周囲に敷き詰め土壌をふかふかにしたことでさらに美しい花を咲かせてくれるようになりました。守静坊の敷地内に苔むした石垣と共に宿坊と見守り合うように凛とそびえ立つ姿はまるで英彦山の伝説にある仙人の佇まいを感じます。

しかしなぜこの京都の円山公園にある伝説の祇園しだれ桜が、ここで生き残っているのかということ。もしかするとむかしは大志を志す同志が共に初志貫徹しあうことを願い、同じ霊木の苗木を分けそれぞれの生きる場所に植えて大輪の花を咲かせようと誓い合ったという言い伝えもあります。その初志を叶えるために今も桜は私たちを見守っているのかもしれません。果たしてどのような浪漫が隠れているのかは、この守静坊のしだれ桜を直接観に来ていただきお感じしたものを語っていただけると有難いです。

私たち一人一人にも誰もが語り継がれてきた歴史を生きています。

先人や先祖の物語の先に今の私たちがそれをさらに一歩進めて結んでいます。今、私たちが生きているということは歴史は終わっていないということです。今も新たに生き続け語られている現在進行形の物語を綴っているということになります。みんなでご縁を結び、かつての壮大な物語に参加することは私たちもその語り継ぐ一人として同じ歴史に入ったことになります。

この守静坊もしだれ桜も偉大な語り部です。私は、毎年この時季の満開の桜を眺めると言葉にならないものが語りかけてくるようでいつも魂が揺さぶられています。

伝統と伝承は純粋な気持ちによって永遠に結ばれ繋がれていくといいます。

大和桜花の季節、霊峰英彦山守静坊にてご縁と邂逅を心から楽しみにしています。

今を共に

私の座右の銘は「一期一会」です。そういえばいつから一期一会を座右にしたのかと思い出そうとしても思い出せません。むかしから奇蹟を観るのが好きで、日々を新たに生きることが喜びでした。マンネリ化するのが嫌いで、自分の感性や感覚、直観を頼りに歩いていくことに興味がありました。それだけ生まれてきてからずっと奇蹟ばかりを観てきた人生だったように思います。

そのためか人との出会いにしても今を生きていてもこれがどうなっていくのかと意味を感じるようになっていきました。気が付くと、誰と出会っても、何をしていても、その意味から感じたままに行動していくようになっていました。行き当たりばったりで自然のあるがままにと歩んでいくうちに、かんながらの道という言葉にも出会いました。そこでこのブログのタイトルにすることにしました。

またもう一つの座右に、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というものがあります。これもよく考えてみると、一期一会とその境地はとても似ているようにも思います。この座右の御蔭様で自分のこの世での役分、役割を楽しみながら運命と全体最適を楽しむような人生になっています。この座右の銘とはもともと、座右は身近に置いていること、そして銘は刻むという意味です。いつも忘れない格言や自戒みたいなものでしょうか。

これらの自分の座右の銘から自己分析をすると自分の人生で忘れたくないものだったのでしょう。一期一会に対しては当たり前になって真心を忘れてしまうことや、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれの方は、自分に執着して身を守り沈んでしまうのでしょう。内省していないとすぐに通り過ぎて失念してしまいます。まさに今を生ききるというのは、今に集中するということですがこの今というのはわかることはありません。わからないからこそ今にいるということになります。

だからこそ一期一会になったのです。どのような結末や結果になるのかがわからないからこそ、どういう状況下でも自分の役割を果たすためにも真心のままでいるということになり、そして身を捨ててこその方もその時々に迷わずにやりきるといった安心の境地で今に没入しようとしたのでしょう。

悟りの境地とか色々といわれますが結局は、それぞれの人が目指してみて体感した同じことを別の言い方で表現しているだけであるように思います。今朝も澄んだ水気の多い朝陽を浴びて、透明な光を感じ、ゆらゆらと音や水の揺らぎと共に静かに呼吸を調える。わかるものではなく、今のままでにいるという感覚です。全てを丸ごと味わっていく人生というのは、一度きりの一生においては何よりも意味深いものだと感じます。

子どもたちや子孫たちの今を共に生きていきたいと思います。

一期一会の聴福人

聴福庵には、多くの人が来られます。その中でも不思議ですが、ご縁がある方とご縁のない方がおられます。ご縁のない方は、なぜか玄関まで来て帰られる方もあれば何回も来ようとするのに何かしらのことが発生し何年も来られない方もいます。その反対にご縁のある方は、いつも絶妙なタイミングで来られます。人生の大切な節目であったり、あるいは何の覚悟を決めたり行動をしようとされている時に偶然に来られることもあります。

もともとこの聴福庵の甦生は、何かの商売をしようとしてはじめたところではなく恩返しや徳積として取り組んできたものです。最初の目的が明確だったからか、思い返すとその目的に関係する方とのご縁ばかりだったような気がします。

人も家も物もご縁がありますが、そのご縁には目的に対する純度や密度があるように思います。

そのものとの出会いもまた、ご縁の一つですがそのご縁を如何に澄ましているか、そのご縁にどれだけの意味を感じているかは場に宿るものです。

もともと宿というのは、宿るという意味もあるように思います。この場には、そういった心の情景や生き方が自然に宿りここに来る人たちの心を癒します。宿というのは、単なる宿泊施設などではなくその主人の生き方や魂が宿る場所でもあるのです。

聴福庵と私は、深い関係性を築きながら今を生きています。家の方は私の年齢の3倍以上を生きた先輩です。その家と一緒に生き、その家と共にご縁を宿します。こうやって代々が変化して、その家と人を育てながら道は続いていくのでしょう。

新たな出会いで何が覚醒していくのか、毎回、この場でのご縁に感謝と喜びを味わっています。いつもこの場で人々の心を助けてくださっている火水の存在にも感謝です。

いつまでも一期一会の聴福人でありたいと思います。

当たり前の逆転

先日、うちの老犬が自宅で繋いでいたリードが何かの拍子に外れてしまいそのまま行方不明になり5日目に側溝の奥深いトンネル内で発見することができました。迷子になったと気づいてからすぐに家族総出で5日間ほど、家の周辺を中心に町中をくまなく探し回っても見つからず、ビラ配りをはじめSNSでの拡散や知人友人にも助けていただいたのですが遂には親切な方が発見してくれて溝から助け出しご連絡をいただき無事に生きたままで再会することができました。

今回、もちろん飼い主の責任としてリードを信頼しすぎて家から老犬がいなくなるような状況が発生したことを反省痛感していますがそれよりも本当に多くの人たちの真心や思いやり、助けを受けて猛烈な感動がありました。

日頃、そこまで接することがないコンビニやスーパー、道の駅で働いておられる方々をはじめ動物病院や近所の方々、同じように犬を飼育している人たちからもとても心配され多大な親切を受けました。老犬が見つかってからご報告にいくと、みなさんが自分のことのように大変喜んでいただき発見できた有難さと相まって涙が出ました。

発見してくださった方も、偶然、溝の分厚く長いトンネルの中にいた老犬が一度だけ吠えた声を聴き、そこでトンネルを覗いてくださって友人にお電話をし、たまたまSNSで迷子犬情報を知っていた方と3人で救い出してくれました。みんなが心配して諦めず祈り行動してくださった御蔭さまの集積で奇蹟の生還となりました。

今は、老犬は数日間の冷えや胃腸の具合が悪く熱もだし血便もして動物病院に連れていき家の中で介護と看護をしています。もう人間でいえば85歳くらいでしょうか。足元もおぼつかず、耳も遠くなり目もあまり見えていません。しかし、ずっと一緒に暮らしてきた家族の一員としてできる限り最期まで一緒に過ごして看取りたいという気持ちはさらに強くなりました。

私たちはつい一緒にいるとそれが当たり前になり、いなくなることが不自然に感じるものです。しかし本当は一緒に暮らしていること自体が有難い奇蹟であり、二度とない一期一会のご縁です。人は失ってみてはじめてその有難さを知ったり、亡くなってみてその存在の偉大さに気づくように思います。

これは本来は当たり前が逆転していて、一緒にいれなくて当たり前、共に生きていることが奇蹟だと感じることが真実なのでしょう。恵まれているときは、恵まれていることに気づき難いものです。謙虚でいたいと、改めて日頃の慢心を気を付けたいと思いました。

このご縁やご恩から学んだ徳を、さらに暮らしの中で磨いていきたいと思います。

ありがとうございました。

矢絣と文様文化

日本は文様文化というものがあります。今でも手ぬぐいや着物などに縁起の善い文様が使われていることがあります。例えば、矢絣文様などはとても有名です。この柄は矢絣(やがすり)元々は矢羽・矢羽根(やばね)文様と呼ばれていたものです。矢羽文様は絣織りという技法で表現していたので矢絣と呼ばれるようになったものです。

もともと矢は武士にとって戦場を生き抜く大切な武具でした。そこからこの文様は武士の衣装や家紋にも使われています。矢の羽には鷹や鷲のものを使いました。縁起担ぎとしては、的を射るや出戻らないなどの意味も出てきました。

日本の文様の歴史を遡れば、縄文時代によるという説もあります。その当時から、縄文土器に文様を刻みその自然の力を取り入れる器として神事等にも用いられました。その存在を顕すという意味もあるのでしょう、

縁起担ぎについては、運気を上昇させたり幸運を引き寄せるための御呪いに似ているものです。中国では吉凶を占うものにも使われていたともあります。これも自然や宇宙の法則の仕組みを取り入れ、それを暮らしに活かした先人たちの知恵の一つでしょう。

時代が変わっても、もともと縁起担ぎで使われていたものは今でも大きな力を持つものです。ただの意匠としての効果だけではなく、そのものが持っている徳性や力を尊び、意識していくことで心の持ち方にも影響がでるものと思います。

伝統というものの面白さとは、こういう不思議な力や徳性を今でも活かすところにこそあります。日々の暮らしのなかで、文様を活かし子どもたちにその価値や意味を伝承していきたいと思います。

御呪いの伝承

「おまじない」という言葉がります。これは呪(まじな)うから来ていて、そこに御がついて御呪いといいます。語源のまじないは、動詞「まじなう」の名詞形「まじない」に接頭語「お(御)」が付いた語です。意味は、神仏や神秘的なものの威力を借りて、災いや病気を除いたり、災いを起こしたりするようにすることです。

もともとこの呪うの漢字は、形声文字「口」の象形と「口の象形とひざまずく人の象形」でできています。つまり、ひざまずいて祈り何かを言葉にしている姿です。今でも、この姿は祈祷をして祝詞やお経をあげるイメージがあります。

御呪いというのは、むかしから様々な伝承が残っています。一つには、家族の無事の祈り、他には健康や安全、願望の実現や相手を苦しめるものもあります。何か自然界や宇宙にある法則の一部を仕組みにしてその不思議な力を活用したのかもしれません。

そもそも言葉というものも、一つのお呪いです。その音で発することで、その音を象徴することを祈っているともいえます。名前なども最古のお呪いの一つだとも言われます。伝承の仕組みも幼い頃から、指切りや握手、流れ星に祈ったり、手を合わせたりと自然に実践したものです。

今でも全国の神社仏閣などにいけば、護摩焚きや水垢離、護符や巫女舞、あるいはお守りや数珠などお呪いばかり発見できます。それくらい、私たちはこのお呪いというものを普段から取り入れているのです。

しかしそうやって形骸化したお呪いが増えてしまい、本来のお呪いの持つ力はあまり発揮され特別なことではなくなっているように思います。現代では、目に観えるものしかあるいは科学的に証明できる可視化できるものしか信じない世の中になっていることもありかつての伝承は加速度的に失われました。

本当は今でも、そのお呪いの本当の意味や伝承を受けた伝道者たちはその力を発揮できる人も残っているように思います。私も伝統の和紙をはじめ、あらゆる伝統職人たちと関わる中でその不思議な力を垣間見ることがたくさんありました。かつての道具には、それを用いる人のお呪いだけでなくそれを創造する人のお呪いも相まってその人を助けていたからです。

最近の年中行事の桃の節句、ひな人形などもお呪いの一つです。

改めて、このお呪いというものを注目していくつか深めてみようと思います。

茶徳

「茶徳」という言葉があります。もともとお茶というのは、お茶を一服というようにむかしはお薬として服用していました。もともとお茶は諸説ありますが、中国やインドではじまったといわれます。伝説によれば中国の漢方の祖といわれる神農(しんのう)がお茶を服用したのがはじまりとも言われます。

この神農は、古代中国の伝説に登場する三皇五帝の一人です。中国では神農大帝と尊ばれ医薬と農業を司る神になっています。別名は薬王大帝や五穀仙帝ともいいます。

漢方の祖となるのは、自分自身で薬草と毒草を見極めるために百草を嘗めて薬効や毒性の有無を検証したと言われています。また神農は本草学の始祖でもあり、最古の本草書『神農本草経』にその名が記されます。

その後、日本にお茶が入ってくるのは平安時代だといわれます。最澄や空海もお茶を持ち帰ったといわれます。その後、鎌倉時代には禅僧の栄西が茶種や抹茶の作法を宋から持ち帰ってきました。その栄西が遺した本に「喫茶養生記」があります。これは栄西が学んだ茶の知識や効能を集約したお茶の本でそこには「茶は養生の仙薬なり」と書かれます。

また栄西からお茶の活用法や栽培方法を伝授された方に明恵上人がいます。この人物は、日本ではじめてお茶を種より栽培した方だといわれます。そこには、お茶の十徳といって湯釜に言葉を刻みその功徳を伝道しました。

そこにはこうあります。

一、諸天加護 茶を喫すれば、仏の守護により幸福になれる
二、父母孝養 父母を養い、孝行するようになる
三、悪魔降伏 悪心邪念を除去して、快適な生活を保障する
四、睡眠自除 睡魔を追い払ってくれる
五、五臓調和 茶を喫すれば、体が整い、健康になる
六、無病息災 病気することなく、寿命が延びる
七、朋友和合 周囲の人とも和合できる
八、正心修身 正常な心で修身できる
九、煩悩消滅 諸悪の根源たる欲望を断ち切ることができる
十、臨終不乱 死に臨み、少しも惑わず、正念が得られる

お茶を何気なく普段から私たちは当たり前に飲んでいますが、本来のお茶とはどのようなものであったか。そしてお茶のはじまりから今に至るまでどのように大事に伝承されてきたか。

改めて深めてみると、この茶徳の偉大さに頭が下がります。時代が変わっても、大切なお茶の徳が伝承され続けるように新しいお茶の徳を私なりに甦生させてみたいと思います。

本草学の伝承と甦生

本草学という学問があります。これは元々は古く中国で発達した不老長寿その他の薬を研究する学問のことです。日本には奈良時代にこの学問が伝来したといわれ、江戸時代が最盛期だといいます。この本草は木と草のことを指しますが、古来薬用植物だけでなく薬として用いられる動物や鉱物などの天産物として薬用があるものがほとんど記されていました。

日本にある最も古い本草書は、701年の中国の古典『新修本草』といわれます。そして江戸に入り李時珍の『本草綱目』があり、そのあとは私の故郷の偉人でもある貝原益軒が江戸中期頃に『大和本草』を出版しました。これは貝原益軒が79歳の時に一生をかけて本草、名物、物産について調べた結果をすべてまとめたものです。そしてもう一つが同じく江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』です。これを著したのは大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であったといいます。もともとは中国の明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典で、約30年余りかけて編纂されたものを参考にしたものです。江戸時代がどれだけこの本草学が充実していたかがよくわかります。これに蘭学が加わり、明治に入るころには植物学・生薬学として受け継がれたといいます。

明治や大正の頃の博物学者、南方熊楠もこの和漢三才図会を前頁書き写したともあります。今の時代のように簡単にプリントアウトできない時代は、一つ一つ手作業で模写していたことを思うと学問への姿勢そのものが違うようにも感じます。

古来からの本草学は、神仙思想と合わさり不老不死を求めてきたものです。英彦山の不老園の歴史を調べると、この本草学の影響を多大に受けていたことがよくわかります。信じられないほどの長い年月を薬草の治験や実証実験を幾度も幾度も繰り返し、そして自然の篩にかけられて改善して磨かれたものだけが残っていきました。

まさに伝統と革新の集積そのものがこの本草学であることは間違いのない事実です。先日からスリランカのアーユルヴェーダ省の大臣も来日され、お互いの国の伝統医療の話など色々と意見交換をしましたが日本の誇る本草学をもっと学び直していきたいと感じる機会になりました。

これだけ研ぎ澄まされてきた学問が、明治以降は残念ながら西洋化の波を受けて失われていきました。これでは先人たちの努力や遺徳への配慮があまりにもないようにも思います。微力ながらこの本草学を私なりの暮らしフルネスの実践で甦生して、多くの方々に本来の日本の薬草の知恵を伝承していきたいと思います。