本来の人間らしさについて考える機会がありました。今年は辰年ということもあり、なぜ龍が水に棲むのかなど龍に関することに触れる機会が多いからかもしれません。
そもそも龍というものは水にいるものです。魚も同様に水の中で自由に動きます。鳥も空で自由に飛びまわります。たまに水も空も大丈夫なものもありますが、それはまたそれとしてそのものの徳性です。
この徳性というものは、そのものの本来の徳のことを指しています。徳性を養うという言い方もします。人間であれば、人間らしさを涵養するということでしょう。この涵養は水が沁みこむように育っていくということです。
よく考えてみると、私たちのいのちは水が必要です。水がなければ生きていくことはできません。水というものから離れたらそこでいのちはお仕舞です。だから水は私たちの本体でもあり、水があることで存在しているともいえます。
先ほどの龍や魚も水がなければ自由になりません。人間も同様に水がないところでは活動できません。宇宙空間にいけば水がなければそこまでです。水は私たちにとっての徳そのものともいえます。
その水の徳を顕す言葉はあちこちの故事や禅語、中国の書物などに出てきます。そしてそれを龍とも呼びました。水の徳が龍であり、龍が徳の本体のような表現です。
そのものがそのままに力やいのちを発揮できるというのは徳が顕現したともいえます。徳を磨いていくのは、本来の人間らしさを取り戻すということでもあります。
では本来の人間らしさとは何かということです。
現代ではAIやロボットが急速に発展してきて、人間の代わりを務めるようになってきました。クローンなどもでき、ますます人間らしさとはという問いが増えてきています。
一般的な人間らしさは見た目のことです。見た目が人間風に近づけば人間らしいとし、人間のような感情を示せば人間くさいとも言われます。しかし真の人間とは何かということをあまり語られることはありません。
それは魚とは何か、龍とは何か、鳥とは何かということと同じレベルでの議論です。しかし、それを語る前、その大前提に私たちのいのちとは何かということを考えなければなりません。私たちのいのちは水です。水は自然です。自然は宇宙です。宇宙は全体と一体です。それはあるがままであり、古語ではかんながらともいいます。
色々とこれから何が自然で何が不自然かということを篩にかけられる時代が到来している予感もします。普遍的な生き方や徳を遺してくださったご先祖様には本当に頭が下がります。丁寧に伝承を紡いで、子孫へと徳を譲り渡していきたいと思います。