昨日は浮羽の古民家で井戸掘りを行いました。大勢の方々が雨で寒い中でも駆けつけてご加勢いただき豊かで笑いの多い懐かしいお時間を味わうことができました。
まず金蘭の禅僧によるご供養と祈祷からはじまりみんなでお水や神様にお祈りをしました。そして人生で100本以上の井戸を掘り上げてこられた方からお手本を見せていただき、それを見守りました。お昼にはみんなで弁当を食べて歓談し、龍の音を奏でる奏者より即興演奏の奉納とひふみ祝詞を奏上していただきました。
そのあとは、みんなで交代で井戸掘りを行い歓声や応援をし見守りながら掘り進めていきました。子どもたちも来ていて、現場は心地よい空気が流れていました。
この浮羽の場所は本来はみんな浅い井戸を掘っていたといいます。それが果樹園ができ農薬を大量に散布するようになり浅い井戸に農薬が入り込むため深井戸を掘るようになったといいます。そのうち市が提供する水道を使い現在では各家家に水をひいているそうです。
この場所のほんの近くには石垣山観音寺という禅寺がありその境内には清水湧水という名水100選の素晴らしい水源があります。そこにはこういう物語が残っています。
【1062年(康平5年)晩秋のお話です。真夜中に「ゴーン、ゴーン」と鳴る鐘の音に住職は驚いて目が覚めました。この不思議な出来事は来る夜も来る夜も起こりました。そして、鐘の音の後、牛や馬が煙のように消えて、やがて村の娘や子供までいなくなり、村人の不安は募るばかりでした。そこで村人たちは相談して、当時、観音寺の住職だった金光坊然廓上人の法力にすがることにしました。上人は、宝剣を持ち、意を決して鐘つき堂に隠れ、夜中に鐘をつくものの正体をつきとめることにしました。
夜がふけると、雷雨と暗闇がすべて覆い尽くすと一陣の風と共に現れたのは、頭は牛、体つきは鬼という、体長は優に5mを超える、ものすごい怪物でした。上人は修行を積んだ高僧でしたが、この時ばかりは全身に鳥肌が立ち足の震えをどうすることもできませんでした。この怪物「牛鬼(うしおに)」も上人に気づき、真っ赤な口を開けて今にも飛び掛からんばかりでした。思わず、上人はお経を唱え始めました。すると、牛鬼は急に苦しみだし、読経と宝剣により神通力も失い、立ち上がった上人は、宝剣の鞘を払うと牛鬼の手首と耳たぶを切り落しました。
その時、牛鬼はその場にしゃがみこんで泣きだしてしまいました。「私ら山に棲む鬼は、人さまとの共存を心がけてまいりました。ところが、山を荒らすよからぬ者が谷川に毒を流し、その毒を飲んだ私奴はかくの如く頭が牛の姿に成り果てたのでございます。生きる甲斐もなく、ならばせめて人間社会に仕返しをと考えたのでございます」と言い残すと、牛鬼は、とうとう鐘つき堂で死に絶えてしまいました。
事情を聞いて同情した上人は、その日から三日三晩、牛鬼の安泰を願って祈り続けました。そして上人は、谷間に毒を流して、鬼を化け物にした奴が許せませんでした。
そこで上人は決断します。切り取った手首は寺の宝として永久保存することにして、牛鬼の手首を切った我が罪が許されるかもとの思いを込めて、朝な夕な供養の経を唱えれることにしました。そしてもう一方の耳たぶは、切り落した足代(むかしの耳納山の呼び名)の山中に埋めることにしました。
この時、牛鬼の耳をとって山頂に埋めたので、それからこの山を耳納山と呼ぶようになったとも言われています。また、観音寺に伝わる「牛鬼の手」は、このとき切断されたものであるとされています。】
この話はとても心が痛みます。山で共存していたが、自然を荒らすものが川に毒を流して自分たちは病気になってしまい仕返しをしようとしたと。もっとも美しい水が流れる場所に農薬を散布するというのは残念ながら似た話ではないかとも。どれくらい先を見越してこの物語があったのか、今ではどうにもわかりません。
しかしこの場所は、水に関する話、観音様に纏わる伝説の大切な場所でもあります。今回の井戸掘りで色々と考えさせられることがありました。いのちのお水に対して、またお山での暮らしに対して子孫へ向けてどうあればいいのか。伝承や実践から学び直していきたいと思います。