むかしの田んぼ

今日は、千葉県神崎にあるカグヤのむかしの田んぼで田植えが行われます。今朝から雨が降っており、雨模様の中での田植えになります。しかしよく考えてみると田植えというのは本来は雨の日が多かったいいます。その理由は、水が豊富な地域なら問題ありませんが水が少ない地域は雨次第では田植えができなかったからです。

私もお米作りをはじめてから最初に水利権のことを色々と聞かされました。物騒な話ですが、農家は水で争い人が亡くなることもあったとも。それくらい水の取り合いには大変な苦労があったといいます。

少し想像してみるとわかります。雨が降らなければ田んぼに水をはることができません。いくら苗を育ててみても、田んぼの方へ植えることができなければお米は育ちません。

雨は自然のものですから、むかしは雨乞いといってご祈祷をしたりみんなで手分けして水を運んで流し入れたり、井戸をくみ上げて流したりと本当に大変な状態を乗り越えてきたように思います。

それに田植えとなると、雨の降る短い期間でやり遂げないといけませんが大勢で一気に田植えをします。この期間は、雨の中、ずぶ濡れになりながらみんなで協力して田植えをしたのでしょう。

私たちはお米がある御蔭で生きていくことができます。お金があってもお米がなければ生きていけません。それにお米がなければ加工品もできませんから、御餅もお酒も麹菌を培養することなどもできません。

お米というのは、お水や空気と同じくらい今の私たちの生活を根元から支えているものです。特に高温多湿で水の多い島国の日本では、稲作は私たちをずっと助けてきました。時代が変わっても、助けられてきたものの存在を忘れないということもあって私たちの会社ではむかしの田んぼの取り組みを実践しています。

今の時代は、自然に合わせるよりも自然を征服するような技術革新を続けてきました。雨が降ってなくてもなんとかでき、機械で人手がなくても田植えができ、肥料や農薬で除草や生育を促します。そのために大量の費用と材料が必要でお金がなければ実現しない農法になっています。お金で自然を征服することに努めてきた時代ともいえます。

しかし自然から離れることで、得たものと同時に失ったものがたくさんあることがわかります。それは田んぼの地力であったり、人々の真心や協力、絆や助け合いであったり、元氣の漲る生命力のある種であったり、コスパやタイパではない真の豊かさや喜びであったりと本来得られていたお米の陰の役割が消えていきました。

今でも私たちの家々の神棚にはしめ縄があります。そしてお米やお酒なども奉納しています。ここには、単に食べる物としてのお米の役割ではないことが言葉でなくても形になって私たちにその恩恵や徳が授かっていることに気づくものです。

子どもたちに大切なことをそのままに継承していけるように、生き方と働き方を丁寧に紡いでいきたいと思います。