江戸後期から明治初期にかけてのころ、日本は大変革を迫られ国内で多くの争いが発生しました。それまでの江戸幕府を中心にした藩の体制から国家というものへの変革があったからです。外国から攻め込まれ、急に国家が必要になったともいえます。しかしこの時の国家というものの定義というものは本来は何だったのでしょうか?ではそれまでの日本は国家ではなかったかということになってきます。国のはじまりはどこだったのか、そして世界を巻き込んで国というものが今でも争いの発端になり続けています。
この国というものの持つ、根源的な問題が解決しない限り私たち人類は争いがなくなることもないように思います。孫文に「国とは人の集まりなり、人とは心の器なり。」という言葉があります。
結局は、人が国家を形成するのだから人の心が決めているということになります。人の心というものは、外側にあるものではなくそれぞれの自分の内面にあるものです。これを徳ともいいます。国家は徳によって為るということでしょう。国家のモデルとしての為政者には、孔子を含めその当時から理想をそれぞれの君子たちが追い求めてきました。
現代の為政者の状態はその当時と比べてどうでしょうか。道徳経済というもの、経世済民というものはどれだけ進歩したでしょうか。
国家の真の発展というのは、人の心の真の発展とイコールであることはすぐにわかります。心を磨いていくことは、その時代時代を任せられた国民の責任であることは間違いありません。結局は一人一人の心の中にこそ本当の家があるということです。家が治めることが国であるということ。
論語、大学のこういう言葉があります。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、まずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、まずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修む。 その身を修めんと欲する者は、まずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、まずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。 知を致すは物に格るに在り。」と。
国家とは何かという答えはもう先に出ています。そのために教育があり、学問があり、道徳があり、実践があるのでしょう。人類はあとどれくらい、同じことを繰り返すのでしょうか。なかなか簡単には変わらないものです。しかし変わらない中でも、着実は変わったことで歴史も変化しています。
子どもたちが大人になっていくまでに、少しでも善い世の中にしていくために明徳を明らかにし、家徳を磨いていきたいと思います。