純粋さというものがあります。これは「余計なものが入っていないこと」や「私利私欲のない、まっすぐな気持ち」または「混じりけがないもの」や「一途でひたむき」であることなどが言われます。
そういう人に出会うと人は感動するものです。しかしその逆を言えば、そういう人が少ないからこそ感動するのでしょう。なぜ少ないのか、そこには純粋でない何かが入っているからです。では何が入っているのかということです。それを少し考えてみると、他人との比較、本当の自分というものではないことが混じっているということが分かります。
例えば、自分の天命を突き詰めていく人は純粋性を増していきます。自分自身の魂の道を研ぎ澄ませていく人ほど純粋性も高まります。そこには理由や言い訳など何か誰かに説明するものを用意しているのではなく、已むに已まれぬ何かがあるからその人は全身全霊をその天命に傾けていきます。そういう人には、混じりようがない自己との対話があり同時に周囲にどう思われようが自分自身を生き切ることに専念していきます。
偉人であれば吉田松陰氏などは、まさに純粋さを生きた方だったことが遺された文章などからも伝わってきます。
よく考えてみると、私も尊敬する偉人は誰ですかといわれると色々と出てきますが尊敬する誰かというよりはその人の生きざまや生き方に憧れて尊敬したように思います。
純粋に生きている人を観ると、自分もそうありたいと魂が揺さぶられます。するとその人物を尊敬するのですが実際には生き方の方を尊敬しているのです。
自分がどう生きたいか、どうありたいかは本当は自分にしかわかりません。他の誰かのこともわかりませんし、他の誰かがわかることもありません。その人にしかない役割や与えられた天命があります。それを真摯に向き合い、自己を研鑽し、精進をすることによって混じりけというものは流されて澄んだ純水のように透明になります。
もともと透明だったものが透明ではなくなり、そして透明になっていくというのが生死の循環であろうと私は思います。どう濾過するのか、どう浄化するのかが本来の自己を取り戻すプロセスであろうとも思います。
私が取り組み暮らしフルネスを通した甦生の仕法は、その中心にこの浄化の体験を場を通して実践することで感化していくものです。子どもたちがいつまでも本来の自己を創造し真に自立して仕合せに生きられる世の中にしていくために、子ども心を磨いてかんながらの道を歩んでいきたいと思います。