歴史を学び直す中で、古代史に目を向けていると古代史は結構いい加減なことをそれぞれが学説で語っていることがわかります。実際には、次々と遺跡が出てきては科学的に分析し判明してもそれまで教科書に書いてあるものとは違うことはなかなか認めません。むしろ教科書というのは、今振り返ってみても歴史においては曖昧なことを年号を記憶したなと思うくらいです。実際に体感する自分で味わう歴史は果たして本当にそうかというのは自分で納得するまで突き詰めていく必要を感じます。
例えば古代史では、稲作というのは弥生時代に渡来したことになっています。しかし実際には、6000年くらいまでの縄文時代の遺跡にお米をつくり育てて食べている形跡が出てきているといいます。先日、蕎麦を深めていても縄文時代から育てて食べていたとあります。しかもお米よりも前からあったともいわれます。
さらに水田も縄文時代からあったことも遺跡からわかってきています。中国から渡来したといわれていますが、実際には日本発祥ではないかともいわれるほどです。それくらい古代の歴史は、まだまだ未知なことが多いものです。
古代史は私たちのルーツでもあります。実際に、その地形や地図を歩いたり、自然や気候を観察したり、その地方の文化や作物がどのように変化しているのかなども観察をすることで観えてくるものです。
私たちの郷里でも、むかしの遺跡がたくさん出土します。土器はもとより横穴式の墳墓なども多く出ます。地域のお年寄りに聴くと、昭和以降に田んぼをつくるときにはあちこちたくさん遺跡が出たそうです。
いつからはじまったのかというのは、私たちが思っているほどの古代ではなくもっとずっとその前から存在していると思った方がいいことは誰でもわかります。最初の一人からはじまったことを考えても、その間、見つからないほどの狭い場所で相当な長い年月の暮らしがあったことも想像できます。
大勢に広がっていく段階というのが弥生以降だったということでしょう。歴史はほとんどが大多数の常識と思い込みでつくられます。本当の歴史を学ぶことは、自分の思い込みを捨て、大多数の常識をそぎ落としていくことが大切になります。
子どもたちにも自分で感じて味わい、現地でつかみ取った歴史を楽しめるような学び方を伝承していきたいと思います。