お金というものは改めて観察すると不思議なものです。お金そのものは交換する道具として発明され、それが信頼関係を築く道具になったり、戦争をする道具になったりします。これらの道具というのは、包丁やハサミなどと同じく使う人の使い方次第で武器にもなれば暮らしを助けるものにもなります。道具という意味では、どれも同じでしょう。
だからこそ、道具が問題ではなくそれを用いる人によります。しかし道具には発明することであまりにも危険なものがあります。原子力なども、原発の事故でも感じましたが平和利用といっても子孫に多大なツケを遺すようなものを用いるのは危険であることが分かります。
現在、経済戦争といって経済が戦争で使われることが当たり前になりました。本来の経済の意味は経世済民ですから経済戦争という言葉自体がおかしなものであることがあかります。これは別のものにすると、道徳戦争みたいな造語です。
そもそも大前提として道具はどういうものかということがズレてしまえば何を作って何を発明してもその道具はよくないことに使われます。道具を人間の欲望だけで便利に使えば使うほど、道具が世の中を住みにくくするということがあるように思います。
例えば、むかしの道具は自然物でつくられていました。お手入れをしてお世話をしないと壊れたり痛むものばかりでどれも大切に使っていました。同時に、むかしの道具は人間が心を労して疲れることが多いものばかりでした。しかしその方が、真心を入れられ、丁寧に丹誠を練りこめるために重宝されました。
つまりむかしの道具は、大前提として真心が必要なものばかりでした。むかしは心を交わして心を交換していたということでしょう。交換という言い方よりも、心を結び合わせていたという言い方の方がいいかもしれません。そういう時代のお金は、現代のようなブラックボックス化された基軸通貨でもなければ、金融資産でもありません。
金融資産で得たお金の交換というものは、果たしてどういうものでしょうか。真心を籠めて労を厭わずに取り組んだものが果たしてお互いに心を結び合わせることができるでしょうか。
自然とのつながりや結びつきが薄れるほどに心の結び合わせも失われてきました。人間というのは、どうしても人間同士だけになるとお互いの損得利害ばかりに道具が用いられるものです。自然物が自然を道具にしているように、私たちは本来の自然をどのように道具にするのかを考え直す必要を感じています。
大切な資源を真心の道具で結び合う、仕合せというものをどう豊かに味わっていくかが新しい経世済民、主義を超えたものになるように私は思います。色々と挑戦は時間も心も使いますが子孫のためにも丁寧に取り組んでいきたいと思います。