感覚と記憶

昨日から聴福庵に来客があっていますが、その方は感覚を最優先して物事を理解されている方です。外国の方なので言葉は通じませんが、感覚で色々なことを伝えてきます。言語というものを用いなくても、人はコミュニケーションをたくさんとっていることを再認識します。

つい対話には言葉ができないとと考えてしまうものですが、実際には言葉を用いなくても様々なものと対話をしています。むしろ言葉にすることによって、そのものを感じることやそのものと対話することよりも先入観や自分の思い込みを走らせてしまい対話を濁らせていることの方が往々にしてよくあるのです。

一日、喋らないで過ごしているだけで精神が研ぎ澄まされ濁らなくなった経験もたくさんあります。特に山の中で静かに作務をして、瞑想や坐禅、あるいは静かに山の風や音に耳を傾けていると自分が澄んでいく感覚になります。

私たちは言語化していくことで、感覚を閉じてしまいそのことであらゆるものが便利に使えるようになってきました。この道具というものは、知識となりその知識量の多さで感覚を用いなくてもよくなってきました。

しかし根源的なものや、原始的なものに触れようとするのならやはり人間も感覚を最優先していかなければそのものと触れることができないように思います。

感覚というものは、無二のものです。

だからこそ、頭で考えないということが必要なのでしょう。矛盾があるのはこのブログは言語化していることです。言語化するというのは、自分の中の整理で使いますし忘れないようにと記しますがこの文章は物事のほんの一端を忘れないように記録しているだけです。記録は記憶のほんの一部を記すものです。

そう考えてみると、感覚と記憶というものは無限です。

今日も、感性の喜びや感謝を忘れないようにして過ごしていきたいと思います。