この数日間、曹洞宗の禅僧と共に禅の作法で食事をとりました。食べる前には、五観の偈を唱えます。この「偈」はサンスクリット語でいう偈文のことで仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べるものをいいます。五観というは、下記のことをいいます。(曹洞宗SOTOZENーNETより)
一つには功の多少を計り 彼の来処を量る
二つには己が徳行の 全欠を忖って供に応ず
三つには心を防ぎ過を離るることは 貪等を宗とす
四つには正に良薬を事とするは 形枯を療ぜんが為なり
五つには成道の為の故に 今此の食を受く
食材の命の尊さと、かけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらせよう
この食事をいただくに値する正しき行いをなそうと努めているか反省しよう
むさぼり、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を誡めていただこう
欲望を満たすためではなく健康を保つための良き薬として受け止めよう
皆で共に仏道を成すことを願い、ありがたくこの食事をいただきましょう
食べる前に、この五観の偈を唱えると身が引き締まる思いがします。そして食べはじめてからも、静かに瞑想のような気持ちで最後までいただきます。またお椀を片付ける前にも、お茶を注ぎお椀一つ一つを調えながら一つ残らずに綺麗に食べ終えます。
食べることを修行にしているという点で、私たちが何を大切にしてきたのかを思い出すことができます。食べるという行為は貪る行為にもなりますが、生きるために必要な行為でもあります。食べることが分かるというのは、自分たちが生きることが分かるということかもしれません。
そういう意味で、禅僧と共に暮らしを味わうと日々の動作の中にすべて修行の初心があり、それを日々に忘れない工夫で満ちていることがわかります。食事も作るときも修行、片付けも修行、消化している時も修行、その食べ物を活かすのも修行、あらゆる日常の全てがまさに修行そのものという生き方を示します。
これは日常、これは修行と使い分けることではなくまさに今、この暮らしそのものがすべて修行という意識で生きていくことは私の言い方ではいつも初心を忘れることがない生き方をするということでもあります。
私の実践する暮らしフルネスもまた同じく、暮らしそのものが修行という意味で同じです。そして修行の定義は、徳を積むことです。徳を積むとは、自分の喜びが全体の喜びになり、みんなの喜びもまた自分の喜びになるという自他一体の境地でいることです。
そうであるために、常に日々を磨いて日々を味わい、日々を一期一会に調えていくという具合です。生き方を同じくする仲間や同志との暮らしは心地よく、味わい深いものです。
子どもたちや子孫に、自然に先人たちの尊い生き方が伝承できるように場を調えていきたいと思います。