徳天合一

世間の常識から外れている人は、人々は奇人・変人とも呼びます。また、よほどの大志があり異常な情熱を持っている人を人々は狂人とも呼びます。結局は、常識というものの中で人々は常識的にふるまうことでそこから外れないようにルールを設けて意識を保っているということです。

そうやって常識から外れないことで、お互いに普通の人として距離感を保ちある枠内においての共通の感受性を安定させるように思います。こうやって人々の共通の感受性のなかで、それを歪めないようにとみんなで保っていることで安心するように思います。

他の人とあまりにも異なり独善的になると、批判や非難があるものです。

しかし芸術家というものは、その常識から少し離れたところにあるものです。最近では、その芸術というものも経済活動のためのものになり常識の枠内で語られるようなものになってきました。あまりにも常識から外れた芸術こそが本来の奇人・変人・狂人でありそれに触れることで人は自分の常識を見つめ直す切っ掛けにもなるように思います。

中国の荘子に「畸人(きじん)なる者は、人に畸(き)して、そうして天にひとし。」という言葉があります。これは奇人は他人から見れば奇人でも天と一体になっているという言葉もあります。

物事を別の角度からひっくり返してみると、人間の方が自然から観るとだいぶ狂っていることをしていると感じるものです。つまり人間の中の常識は自然では非常識であり、自然の中の常識は人間には非常識ということになるのでしょう。

この常識の問題は、今の時代には取り返しがつかないほどに問題を大きくさせていきました。人間界の常識をありとあらゆるものへ押し付けているうちに人間だけが非常識になってしまったということでしょう。

荘子はこうもいいます。「其の愚を知る者は、大愚にあらざるなり。其の惑を知る者は、大惑にあらざるなり。大惑なる者は終身解せず、大愚なの者は終身霊ならず。」と。

人間は常識を疑い、何が真実かを学び実践することで愚や惑に気づくものです。常識の善し悪しではなく、常識に気づくことが大切だと私は思います。そのうえで、自分なりに徳を積んでいくことで常識に縛られない生き方ができるようにも思います。

徳天合一ということでしょう。

ひきつづき、子孫のためにも精進していきたいと思います。

在来種のふりかけ

「ふりかけ」というものがあります。これを知らない日本人はあまりいないと思いますが、日本の食文化の一つです。ご飯にかけるふりかけは、一度は食べたことがあると思います。

このふりかけを調べていると色々と面白いことがわかってきます。もともとの起源は、鎌倉時代の『厨事類記』に鯛・サケ・サメの肉を細かく切り塩干しにした「楚割(すわやり)」、「はなかつほ(花鰹)」すなわち削り節のことが記されます。 また、室町時代の大草流の料理書に赤飯にごま塩を添える祝儀食の作法にもふりかけの源流があります。あくまで想像を膨らませていけば、きっと縄文時代くらいから食べ物の残りかすのようなものや、削ったり、石臼などで粉にしたものをふりかけていたように思います。私たちは、ものを捨てない民族でしたから最後の少しでも工夫して使っていたはずです。それだけ、食べ物を大切にしてきたことが食文化の中心にあるように私は思います。

現代のふりかけになっていく変遷は、1913年の大正時代のころになります。これは熊本県で当時薬剤師として働いていた吉丸末吉氏が、日本人の栄養不足を心配して考案してからだといわれます。これが当時大人気になって現代のふりかけの原型になったそうです。今でも熊本にあるフタバという会社が引継ぎ、「御飯の友」として販売を続けています。それまでは、「~の友」という商品名でしたが1959年の昭和時代のころに全国ふりかけ協会が設立され「ふりかけ」という名前になります。

その後は、有名な丸美屋がのりたまのふりかけを開発してそれがアニメとコラボしらこともあって子どもたちに大人気となりふりかけが子どもたちに食べられるようになりました。今ではふりかけは子どもの食べ物のように言われることもありますが、本来は大人が食べる高級なものばかりだったといわれます。

時代の変遷と共にふりかけは変わらなくても、ふりかけの用いられ方は変わっていくのは当たり前です。在来種の高菜を使ったふりかけもまもなく完成しますが、故郷にいつまでも懐かしい味が残り続けるように取り組んでいきたいと思います。

クラシフリー

昨日、会津にいる友人から「PhaseFree(フェーズフリー)」という言葉を聞きました。これは平常時(日常時)や災害時(非常時)などのフェーズ(社会の状態)に関わらず、適切な生活の質を確保しようとする概念のことをいうそうです。

これは防災の概念から産まれた言葉の一つだといいます。では防災とはどう違うのかというと、人々が備えることを前提としているのが防災、人々は備えられないことを前提としているのがフェーズフリーであるといいます。

また具体的には、平常時と防災時と対応をわけるのではなく常に日常そのものが防災的な暮らしをしているということだと私は思います。普段でも活用できるもので防災時にもそのまま活用できるという平時も防災も選ばない普遍的な状態を保つということでしょう。

またフェーズフリーの5原則というものがあります。そこにはこうあります。

常活性 どのような状況においても利用できること。
日常性 日常から使えること。日常の感性に合っていること。
直感性 使い方、使用限界、利用限界が分かりやすいこと。
触発性 気づき、意識、災害に対するイメージを生むこと。
普及性 参加でき、広めたりできること。

これが最近では、商品開発などでも使われています。昨日の友人は、玄米ポンセンを取り扱っていて日常食としても防災食としてもそのまま役に立つことが大事だと話をしていました。

これはよく考えてみると、今の日本のようにありあまる富と豊富な物資、消費経済のなかで廃棄することも価値のようになっている金融が中心になっている世の中においてはそもそもが防災対応ではなく嗜好的なライフスタイルに傾いているものです。

本来は、先人たちが暮らしそのものがこのフェーズフリーでしたがそうではない世の中になるとこれが新しい概念ということになるのでしょう。

私は古民家甦生をはじめ、暮らしフルネスを実践していますのでフェーズフリーの生活をしているともいえます。漬物をはじめとした発酵食、また炭を中心に井戸水での暮らし。身近な畑に野草、薬草を取り入れ、乾燥野菜や保存食もつくります。また暮らしの道具たちも先人たちが大切にしてきた知恵のあるむかしの道具ばかりです。

もちろん現代の道具もフル活用しますが、それだけではなく先人たちの懐かしい暮らしは保っています。これは別に防災のためということではなく、暮らしが豊かになり幸福が増すからです。

例えば、ガスでつくる料理は早く便利ですが炭火で火吹き竹をつかいつくる料理は別の意味で格別なものです。火の通り方も異なりますが、その火に触れる時間、また味も意識もまったく変わります。

そう考えてみると、災害時はお金を稼ぐ活動に時間が使えなくなりますからその分、豊かな時間がたくさん増えるということでしょう。私たちは金融的な経済活動を優先するあまり防災する暇もなくなっているという悪循環の生活スタイルを生きているともいえます。

子どもたちには、防災を学ぶことも大切ですがなぜ防災意識そのものが失われるのかのことも同時に現実として伝えていきたいものです。まさに暮らしが中心、知恵のある生き方、知恵を実践する暮らしフルネスはクラシフリーとしてこの先も必ず知恵と共に人々を助けていくように思います。

 

お水

私たちの先祖はお水というものをとても大切にしました。西洋でいうところのウォーターではなく、オミズ(お水)といってそれは命のある存在、神様として大切にしてきました。

これは当たり前の事実ですが、私たちがもっとも生命を維持するのに欠かせないものはお水です。現代では、スマートフォンがなくなったらという人もいますがそれはなくても何とかなるものです。しかしお水がなくなれば、すぐに生命の危機になります。

現代の日本では水道水をはじめあたりまえにどこでも手に入るものになりました。蛇口をひねればすぐにじゃぶじゃぶと流れていきます。お風呂やシャワーなども大量に無制限にあるように感じてしまいますが、実際に私たちが飲めるものは地球上のほんのわずかしかありません。

私たちの国土、日本はお水に恵まれた場所です。気候の御蔭や地球上の立地、また森林によってたくさんのお水が流れてきます。それを田んぼによって貯水し、さらに国土をお水で包みます。

先人たちが長い時間をかけて、どのようにお水を循環させていくともっとも国土が豊かになるのかを試行錯誤してきた知恵の結晶です。

その分、お水への感謝というのは欠かせないものでした。水源地には水神( 水分神 (みくまりのかみ))さまとしてお祀りしてきました。お山の神様と深い結びつきがあり、共に尊敬してお祀りします。また農耕以外の日常生活で使用する水については、井戸・水汲み場にもお祀りしています。古来から水神の象徴は河童 、 蛇 、 龍 などに観立てられ大切にしてきました。

空を眺めれば雲が流れる様子に龍を感じ、川を遠くから眺めれば蛇のように感じ、湖畔や河には河童がいると感じました。まるで一つの生き物のようにお水の存在を感じて接していたのがわかります。

現代の水道の蛇口をひねってもそれがいるようには感じないものです。私は幸運にも、古民家甦生で井戸に接する機会や、宿坊での生活で山の湧水などに触れる機会が多いため、お水の存在を身近にいつも感じています。

私たちの身体をはじめ、地球はお水に包まれていますからお水の形を変えては記憶を辿り流れ続けていくことができます。お水への接し方は、一つではなく尊敬の深さや信仰の厚みによって変わっていくものです。

お水への配慮を忘れないように丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

生き方を磨く

人生というのは、自分に最も相応しいことが今発生しているとも言えます。なぜなら、それが現実であり今、感じられることの全てだからです。では相応しくないというものはどういうことかといえば、今を感じなくなることです。

今というのものは、今の連続で今があります。今此処というのは、禅でもよく語られますが本来は生きているのはこの今です。この今の瞬間瞬間がどう生きているかで生き方というものが磨かれていきます。つまり、思想でもなく哲学でもなく実践というもの。それが生き方を磨いていくことです。

そして生き方を磨いているとまず最初に向き合うものは、今をどう感じているかということです。今の感じ方そのものが生き方そのものになっているからです。

例えば、今仕合せと感じる生き方、あるいは今有難いと感じる生き方、それは瞬間瞬間の実践です。周りがどう評価しようが、世間からどう思われようが、自分自身が今この瞬間をどう感じるかは自分が主体的に選べる自由があります。

この自分の自由は、感じ方の自由です。

周囲からみてどんなに幸福ですべてを持っているような人であっても、本人がそう感じていなければ残念なことです。あるいは、その逆であったとして本人が何よりもその喜びを感じて仕合せであればそれが真の豊かさや幸福と繋がっています。

私たちは感じ方というものを学び直すことで人生を変えていくことができます。

感じ方を磨くには、生き方から磨き直す必要があります。それはどのように実践するのか、そこには場があり暮らしがあるのは間違いありません。先人たちの生き方を学べば学ぶほどにその生き方に徳を感じます。

子孫たちがこの先も、あらゆる環境や教育によって自分軸を見失いそうになったとしてもいつまでも場を譲り、徳を伝承していきたいと思います。

自分の生き方軸

自分軸という言葉があります。世の中や常識に縛られず、自分の人生の目的や使命に真摯に生き切っているという生き方のことです。何かを我慢したり、諦めたりするのではなく、あるがままの全てを自分の初心を忘れずに実践するという感じでしょうか。

実際には、人は周囲を気にして周囲に合わせる生き物ですから知らず知らずに周囲の影響を受けるものです。幼い頃から教育によって、平均値の中にいることが最もいいことだと刷り込まれ、周囲の目や評価を気にするような比較競争の環境に置かれると気が付いたら自分のままであることや、自分の魂が自由に開放して生きることも忘れてしまうものです。

本当は、誰しもがこの世に産まれてきたのだから自然界の生き物のようにあるがままを謳歌することができるものです。特に心というものには制限がありませんから、心は自由になるものです。

この心の自由は、何を選択するかにかかっているように思います。自分が決めたこと、あるいは決めることを、一瞬一瞬、今ここに連続して行っていく主体性のことです。

生き方というのは、自分で決められるものです。たとえ、ご縁が向こうから来てもそのご縁を活かすかどうかは自分自身です。それは日々の微細な変化に対して決心を連続することです。

何かの初心や目的、生き方を決めたら人はあらゆる変化に気づくようになります。自分がどうあるかをその都度に選択するのです。それが自由を創造します。そして覚悟を決めて心を定めるときに開放される実感があります。

自分を閉じ込めて動けなくするのも自分自身です。自分自身が生き方を決めて、その生き方に忠実に生き切るならそこに真の自由や開放が発生します。そう考えてみると、自分軸というものは自分の生き方軸ということです。生き方を羅針盤にして道を歩んでいくところに真の人生があるということでしょう。

自分らしくというのもまた、自分の生き方らしくということでしょう。

子どもたちに少しでも生き方のお手本が遺せるように真摯に自分に挑んでいきたいと思います。

よみがえりの智慧

「よみがえる」という言葉があります。この「よみ」これは大和言葉です。「よみ」と呼ぶのは、黄泉や夜見、陰府や闇なども漢字を当てられます。他にも月読みともあります。

甦るというのは、黄泉のクニから帰ってくるという日本神話の話もあります。これは「よもつかみ」という黄泉にいるとされる神がいて、現世へと帰りたいイザナミがそのことを黄泉神に相談した話です。またその後はイザナミは「黄泉津大神(よもつおおかみ)」となります。

この「黄泉」は、中国からの漢語があてられた理由は古代中国の「黄泉(こうせん)」という言葉でこれは死者が向かう地下の世界(地下の泉)という意味で使われていました。須弥が黄泉になったともいわれます。

他には、こよみ(暦)もよみを使いますがこれは日読み(かよみ)から転じているともいわれます。毎日を数えるときの大和言葉です。

甦るというのは、暗闇から光が当たるという意味にも近いように思います。

他には、夜の世界から朝の世界に変わることをいうのかもしれません。いくら物理的に明るくても暗い世の中というものもあります。心の明るさを取り戻すこともまた甦るというのでしょう。

そういう意味では、私たちは日々を甦り続けているともいえます。どのように甦るかは生き方が決めます。甦生に取り組むとき、私はその甦生のなかに徳の循環を感じます。

子孫のためにも、よみがえりの知恵を伝承していきたいと思います。

水と火の徳

水と火というものは、私たちの生活には欠かせないものです。その水と火にどれくらい感謝できているかというと当たり前になってしまって忘れてしまうものです。毎日、神棚にお水をあげご先祖様にお線香で供養していましたがそれも大切な存在を忘れないための日々の実践にもなります

私たちの脳や神経は、便利な機能があり同じことを自動で繰り返すことができるようになっています。本来は、いのちがあったり五感六感をフル稼働して使わないといけないものも道具にしたり仕組み化することで自動化していくものです。

しかしその自動化するうちに、本来のもっている徳性や力を引き出せなくなっていたりします。そのものの持つ力を引き出す方法として、水や火というものはシンプルながらもとても偉大な存在であると私は思います。

これが土であれば、土にも徳性があります。土はあらゆるものを浄化し、そして産み育てます。ひとたび、発酵してその作物や場と調和すれば生命を育む循環の徳が顕現します。いい土は、まさに私たちの生命を深く底から助けてくれます。

火や水もまた同様に、徳性や力を持っています。むかしの遠い先人たちは、それを子孫へと見せてくれました。火は単に燃やすだけではないもの、水もまた同様に流すだけではないもの。浄化の方法も、調和の方法も、どのような徳があるのかもご祈祷や御祭りなどによって伝承してくれていました。

私たちは感覚を研ぎ澄ますことがなくても、便利に水も火も土も使います。しかしその力はほんのわずかなものであり、そして徳もそんなに活かすものでもありません。

最先端のテクノロジーばかりを追い求めているうちに、真の最先端の智慧の技術を捨てていきました。一見、進歩発展してように思えてもその実はあべこべで逆行して後退荒廃しているという現象も起きています。

地球や宇宙、水や火のように自然から与えられている存在がどれだけ偉大かを忘れるのはとても残念なことです。それは宗教でもなく、科学でもなく、徳であることを思い出すことからが甦生のはじまりだと感じます。

子孫へ水や火の徳を伝承していきたいと思います。

和に学ぶ

人間というものは、それぞれに正義があります。しかしこの正義とは、お互いに自分が正しいと決めて悪を倒すときに使われます。つまりどちらかが悪であると決めて、正義こそ自分であると正当化するときに用いられます。

何が正義なのかと、どちらが悪なのかというのはこれはその時々の人の価値観に由るもので変化していきます。

戦争などでは、悪という言葉がよく使われます。戦争を正当化するために悪を用いるのです。よく観察していると、どちらも悍ましい殺し合いをして正義をぶつけ合い殺戮を繰り返します。その状態を観ては、何が正義なのか、何が悪なのかと思うことが多いように思います。

本来、思いやりや真心、そして善い徳行などはこの正義とは関係がありません。いくら正義があって自分を正当化しても、そこに思いやりや真心や善い実践などがなければどれもが悪とさほど変わらない土俵にあるものです。本来の正義はこれら思いやりや真心や徳などが大前提にあって、それを元にきまりを設けてお互いを大切にしていこうとする仕組みのことです。

しかしその大前提が失われると、きまりを悪用する人たちが増えて正義も悪も同質のものに変化していくものです。正義の名のもとに、どれだけ悲惨なことを行ってきたかは歴史をみればすぐにわかります。裁く心というのは、憎悪を増やし敵をつくります。敵がいないところに正義はないともいえます。

そういわれてみると、勧善懲悪という言葉がありますがあれは本来は善か悪かではなく、思いやりを大切にして裁く気持ちを懲らしめようという意味ではないかと思います。裁くことや裁かれることには、どちらかが正しくてどちらかが悪いという思想です。これは結局、裁くことで得られる罪や罰の意識をどちらかが片方が与えることで成り立ちます。

そしてその意識から開放されたいとまた新たな争いを続けていきます。これが戦争の歴史です。自分をみんなが正当化すれば、争いは永遠になくならないということです。そして自分がしたことを常に正当化するために、裁き合い、罪と罰を与え続けるというのは真に解決にはならないと思います。

本来、思いやりをお互いに持つことができれば裁かれなくても済んだものです。正当化することや正義を振りかざすのはいつも自分の思想の起点が誰かや何かと争っているからでしょう。争いは、自分というものを正当化しようとする現れでありそこは和がありません。和というのは、常に自己を深く省みて生き方として真心や思いやりを優先しようとする実践のように私は思います。

子どもたちには、和を以って尊しとなすといった先人や先祖の智慧を伝承していきたいと思います。

呼吸の徳

呼吸や息というのは不思議なものです。動物をはじめ私たちは、酸素を吸って二酸化炭素を出しています。これは科学的なものです。しかし実際には科学的ではないものも存在していることがわかります。

呼吸法を学ぶと、呼吸には単に酸素を吸い込んで出しているだけではなくそこには心身を統一したり、自律神経を調整したり、波動を落ち着かせたり、意識を変えたりと不思議な力があることがわかります。

昨日は、篠笛やフルートの奏者と、石笛や法螺貝などを交えて色々と知恵を共有したり試行錯誤の練習をしていましたが意識によって音が変化することをたくさん確認しました。

この音は、呼吸によって行われますがどのような意識で音を出すかによってその音の状態が完全に変容します。例えば、時代的に懐かしい原風景を心に抱き音を出せばその時代の音が訪れます。また或いは、自分の生命エネルギーを強く発揮して音を放てばその音が周囲を元氣にしていきます。

私たちの呼吸というものは、周囲と結ばれ全体に大きな影響を与えています。その一つの要素が音に顕れるということです。

そして呼吸というのは、よく観察すると人ではないものでもすべて呼吸をしていることがわかります。それは樹木であったり、土であったり、あるいは石にしても地球にしても呼吸しています。この呼吸は、長い時間をかけて呼吸するものもあれば小刻みに呼吸するものもあります。あるいは寒い中での呼吸や、熱いものの中での呼吸、あるいは低い重たい呼吸もあれば羽のように軽い呼吸もしています。

これらの呼吸は、心の状態をはじめあらゆる感覚と結ばれ振動しています。呼吸というものの価値は、まだまだ未発見の部分が多く、これはまだまだ新たな発明も出てくるでしょう。

古来からの呼吸の知恵と徳を、子孫へと伝承していきたいと思います。