和に学ぶ

人間というものは、それぞれに正義があります。しかしこの正義とは、お互いに自分が正しいと決めて悪を倒すときに使われます。つまりどちらかが悪であると決めて、正義こそ自分であると正当化するときに用いられます。

何が正義なのかと、どちらが悪なのかというのはこれはその時々の人の価値観に由るもので変化していきます。

戦争などでは、悪という言葉がよく使われます。戦争を正当化するために悪を用いるのです。よく観察していると、どちらも悍ましい殺し合いをして正義をぶつけ合い殺戮を繰り返します。その状態を観ては、何が正義なのか、何が悪なのかと思うことが多いように思います。

本来、思いやりや真心、そして善い徳行などはこの正義とは関係がありません。いくら正義があって自分を正当化しても、そこに思いやりや真心や善い実践などがなければどれもが悪とさほど変わらない土俵にあるものです。本来の正義はこれら思いやりや真心や徳などが大前提にあって、それを元にきまりを設けてお互いを大切にしていこうとする仕組みのことです。

しかしその大前提が失われると、きまりを悪用する人たちが増えて正義も悪も同質のものに変化していくものです。正義の名のもとに、どれだけ悲惨なことを行ってきたかは歴史をみればすぐにわかります。裁く心というのは、憎悪を増やし敵をつくります。敵がいないところに正義はないともいえます。

そういわれてみると、勧善懲悪という言葉がありますがあれは本来は善か悪かではなく、思いやりを大切にして裁く気持ちを懲らしめようという意味ではないかと思います。裁くことや裁かれることには、どちらかが正しくてどちらかが悪いという思想です。これは結局、裁くことで得られる罪や罰の意識をどちらかが片方が与えることで成り立ちます。

そしてその意識から開放されたいとまた新たな争いを続けていきます。これが戦争の歴史です。自分をみんなが正当化すれば、争いは永遠になくならないということです。そして自分がしたことを常に正当化するために、裁き合い、罪と罰を与え続けるというのは真に解決にはならないと思います。

本来、思いやりをお互いに持つことができれば裁かれなくても済んだものです。正当化することや正義を振りかざすのはいつも自分の思想の起点が誰かや何かと争っているからでしょう。争いは、自分というものを正当化しようとする現れでありそこは和がありません。和というのは、常に自己を深く省みて生き方として真心や思いやりを優先しようとする実践のように私は思います。

子どもたちには、和を以って尊しとなすといった先人や先祖の智慧を伝承していきたいと思います。