日本人の本当の心

日本人とは何か、これを何度も反芻してきましたがそれは先祖伝来の懐かしい暮らしの中にあることを感じています。そしてそれを私は「暮らしフルネス」と名付けて実践しています。

そもそも神道をはじめ修験道、茶道も華道も道というあらゆるものは暮らしの中に存在しているものです。その暮らしは、口伝のように人の暮らしの実践の伝承によって人伝えに智慧の継承が行われてきました。

それを体系化し、組織化し、知識として学問にしたことで宗派と呼ばれるような派閥や系統に分かれていきました。仏道と仏教が異なるように、仏教は数多く宗派が分かれています。分かれたものが一つになることは難しく、その違いが諍いになっていたりもします。

例えば、私たちもどこかの国家に属します。国家に属しているから国家が戦争をすればその戦争に国民として巻き込まれます。本来、地球は一つ、世界は一つだったといってもこれだけ国家が分かれれば一つに戻ることはなかなかできません。

しかし遠い先祖はどうだったでしょうか。

そこにはただ、「道」がありました。

その道は争いのない分断のない清らかな心がありました。常に清らかであろうと心掛けました。これこそ私は日本人の本当の心ではないかと思います。そのために、私たちは場を清めます。

私が実践する場の道場では結局はやっていることは、お水を大切にお祀りして場を磨きととのえるだけです。そうすることで、清らかな気持ちになります。清らかになれば分断や分裂がなくなっていきます。

私たちは教義だけでは、そう簡単に清らかになることはできません。だからこそ場に自分を運び、そこで場に佇み共に磨き合うことで道に入ります。これを私は「場と道」として場道と名付けています。それを実践する人を場道家ということです。

時代が変わっても、日本人の本当の心はいつまでも継承していき子孫たちへも伝承していきたいと思います。

徳の伝承

古典、易経に「義は利の本なり、利は義の和なり」があります。また孔子の春秋左氏伝に「義は利の本なり」があります。これは義=利であり、利とは義のことであるという意味です。

現代はこの利と義は別のものになっているといいます。利益は損益と比較されますが自分が損をすることは利ではない、自分が損をしないことを利とも定義しています。また義というのは、大義とあるように全体最適、自分を含めて全体みんなに利があることをいいます。

孔子は「君子は義に喩り、小人は利に喩る」ともいいます。また「利に放って行えば怨み多し」ともいいました。これは自分だけの利益を追うのは本来の人間の徳ではなく、全体の喜び中に自分の喜びもあることが徳の人であるといいます。そして自分の利益だけを追求すると、怨みが増えると。つまりは、世の中がネガティブで不平や不満やネガティブな感情に包まれていくといいます。

経済が道徳であり、道徳こそが経済であるという言葉に道徳経済の一致というものがあります。これは先ほどの利=義と同じ意味です。

そもそもが、本来の経済とは何かを突き詰めていけばみんなの仕合せと徳の循環です。そして道徳を同じく突き詰めれば、自分の喜びがみんなの喜びになるような本来の人間の徳を積むことが全体最適であり大義になるという意味でしょう。

なぜ今、こうではなくなったのか。

それは利と義を反発させようとする力が働いているからでしょう。不和ともいい、お互いに譲り合うことを忘れ、謙虚さを失い、勝ち負けにこだわり、法律ばかりを増やしては権利ばかりを主張する。これに和はありません。そもそも和というのは、思いやりのことです。お互いを思いやるなかでこそ、利も義も調和していきます。先ほどの怨み多しとは、利に放っているからです。

何のための利益かという、そもそもの動機や理念を定めずに単に目先の利益だけを追いかける仕組みになっているともいえます。例えば、長期的な利益、つまり1000年後など何世代も先のためのことやあるいは地球全体のいのちへの思いやりなどといった動機があれば利益は目先にばかりにならないはずです。

現代は何でも近視眼的になり、みんなが目先のことばかりに追いかけられています。それは余裕のなさやゆとりのなさにあるとも言えますが、これは義に喩る活動が減退しているからでしょう。

かつての私塾、懐徳堂や適塾、昌平坂学問所のような仁義を学ぶところが失われ目先の損得ばかりを学ぶところが増えたともいえます。

私はこういう世の中だからこそ今こそ、日本の先人たちの遺徳を偲び、現代にその思想や学びを甦生させていく必要を感じています。

私の取り組みは小さくても、その値打ちは偉大だと思っています。徳積堂を中心に、子孫たちへと徳を伝承していきたいと思います。

古代からの感覚

お山にいくとお水があります。そのお水の清らかさは明らかに平地とは異なり澄み切った冷涼な透明感があります。そしてそのお水の傍から吹いてくる風がまた同様に清々しいものです。

私たちはこのお山のお水を感じるとき、言葉にできない清浄な元氣を味わっているともいえます。これは本質的には、お山そのもの元氣をいただいているということです。

私たちの元氣というものは、根源的ないのちの正体ともいえます。私たちの身体は元氣と一体になって活動しています。元氣がなければ、いくら身体が動いても気力がなく何もしようとは思えません。この元氣を蓄えるのは、お山の元氣をいただくときに実現するものです。

お山を歩いているだけでも元氣は蓄積します。そしてこのお山の元氣を目に見える形にしているのがお水ということです。お水にはお山の元氣が溶け込んでいるということです。

私たちの元氣は、この溶け込んでいるお水を取り入れるときに発生します。お水がいのちの根源ということです。そのお水をどのように取り入れるかは意識に左右されます。

お水に対する尊敬やお山に対する畏敬があれはあるほどにお水の元氣をいただきます。だからこそ、私たちはお山で祈るのです。そしてお水の力は、火によって顕現します。火はお水を反射してそのお水の持つ徳を活かしていきます。

あらゆる古代の信仰は、このお水からはじまったといっても過言ではありません。そしてお水をお祀りするためにお火を用いたということでしょう。火は自分たちの中にある熱であり水が形を変えたものです。

感覚を研ぎ澄ませていくと、古代から伝承されている叡智に気づくものです。

引き続き自分に流れる古代からの感覚を信じて、精進していきたいと思います。