魂の詩

私をずっと支えてくださっていた恩人の詩があります。その恩人はいつも一行詩を私に贈ってくれました。いつまでも心に薫り続けるのが詩です。今思えば、詩を贈ってくださった真心に涙がでます。

もうこの世では、お電話することも詩を贈ることもできませんが心の中で詩と共にいつも一緒にこの先も歩んでいきたいと思います。

詩「暮らしフルネス」

「かつて日本には自然と一体となった

モノにも礼儀を正す循環型の美しい暮らしがあった

その象徴が藁葺家

自然と共生し

仕事と暮らしを一体化するかんながらの道

暮らし方を変えることが

働き方を変えることになり

新しい豊かな社會を創造する

子どもも大人も育つはたらき方

和の文化と場の文化の甦生

仕事場は仕合せ場

日々を新たに 心を磨く それが 暮らしフルネス 」

清水義晴

ご冥福を心からお祈りしています。変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから、決して奢らず謙虚に素直に憧れた背中をこれからも歩み続けていきたいと思います。

魂の詩、ありがとうございました。

最高の先生

私の尊敬するメンターの一人が天に還られました。まるで生身のままで魂がむき出しになったような覚悟と凄みのある純粋な方でした。はじめてお会いしたのが、点塾という研修施設です。半身不随で車椅子に乗りながら一期一会の研修をしていただきました。深い思想と哲学、そして実践と生き方を身近で感じて魂が震える体験をしました。激しい思いを持ちながらも何よりも安らかで平和な祈りをもっておられました。

その後は、私の初めての著書を出版するお手伝いをいただきその強い思いで私の後押しをしてくださいました。編集をしながら私のことを深く理解していただき、その著書の巻頭言には紹介文を書いてくださいました。

身体は動けなくても心や魂はいつも一緒だとあらゆる場面で深く応援し支えていただきました。そしてアドバイスの一言一言が何よりも本質的で真っすぐで深く澄み切っておられました。

何かに迷うときや、自信がないときはご連絡すればすぐに真摯に聴いてくださりあまりにも的確にそして鋭く語ってくださいました。肺が片方動かなくなって咳き込みながら何度もお話を休止することがありましたが、大切な時や助言のときにはまるでそんな状態を微塵も感じさせないほどに気魄と真剣な言葉を休止することなく伝えてくださいました。

一期一会にどの瞬間も真摯に生き切り、天に貯金をする、天の蔵に徳を積むことの大切さを教えていただきました。また福祉や教育のことも自分の実体験からの洞察や未来への予知があまりにも鮮明でいつも圧倒されました。自分が教えてきた場所で今度は自分が体験してはじめてわかったと、謙虚に素直に学んでおられました。

また私の人生に大きく影響を与える志のある方々を次々とご紹介していただき会いにいくたびに人生が変わっていきました。私の成長や成功を誰よりも喜んでくださり、それはよかったですねと電話口から心からの笑顔が伝わってきました。

私の中で今でもそしてこれからも憧れる最高の先生でした。

まだまだ記したいことがたくさんありますが、今は静かにお通夜とご葬儀が待っています。この瞬間も一期一会に味わい魂を重ねていきたいと思います。

暮らしの喜び

現在の祭事などは、イベントのような雰囲気があるものです。しかし実際には、大勢の人たちがきて多額の費用がかかり派手に開催するイベントとは別に暮らしの中で暮らしの一部として丁寧に繰り返し行われるお祭りとは別の雰囲気があるものです。

この理由は、イベントはその時だけでプロジェクトとして実施することになりがちですが暮らしの中のお祭りは日常の中で当たり前に取り組まれていくものです。特別なものではなく、日常であるというところが異なるようにも思います。

この暮らしの中でというのは居心地がよく余計な大変さがありません。肩をはったり我を出したり派手に振舞ったりすることもなく、いつも通りに当たり前に実践に取り組むのです。こういう暮らしの中のものには、生き方が顕現してきます。

例えば、信仰においても暮らしの中での信仰はとても静かで穏やかで落ち着いたものです。一人でも丁寧に行っているものをいつも通りに決めた日時に実践していきます。特段、普段と変わらず暮らしの一部です。

いつも通りというのは、いつもそうであるということです。その時だけのものというのではありません。

私たちは忘れてしまっていますが、本来は誰かに見せるものでもなく何かに評価されるものでもなく、大勢に知ってもらおうとするものでもないものが暮らしです。

暮らしを安心して営んでいくなかにこそ仕合せや幸福があるからです。先人たちはそういう場に触れたり、そういう暮らしに入ることもまたご縁であり喜びでした。

色々と思うところがあり、現在の世の中の流れと逆行することも増えてきましたが暮らしの喜びを優先して日々を積み重ねていきたいと思います。

歴史と伝承

昨日は、ご縁あって福岡県の秋月藩黒田家のご子孫の方が主催する塾に参加して色々と現地を巡り交流する機会がありました。秋月という場所は、周囲を山に囲まれた要塞の中に城下町があり今でもその頃の生活文化を実感できるところです。

私が尊敬する和紙職人がおられ、そのご縁で鎧揃えといった日本三大揃えの一つの継承活動にも参加させていただいています。

他にも秋月は、職人たちが今でもむかしからの特産品を大切に守り育てています。葛や川海苔は今でも大切に継承されています。伝統文化というものは、形の方を語られることが多いように思います。もう一つ、そこに伝承文化というものがあるように私は思います。伝統は、変化していきますが伝承は変化していきません。つまり、変わるものは伝統であり変わらないものが伝承なのです。

伝承というものは、純粋性が必要です。歴史であれば口伝のようにそれを大切に代々が語り継いでいくのです。職人であればそれを職人技によって伝えあっていくのです。そこに混じりけがあればそれは伝承にはなりません。混じりけはないからこそ、そのまま伝わっていくのです。

現代の歴史というものはそもそも遺っているものはすべて勝者の歴史です。特に教科書や本に記されるものは、記す側が認めていることが前提ですから不都合な真実は改ざんされるか消去されます。あるいは、別のものに挿げ替えます。こうやって歴史は現在の勝者たち、権力者たちのものになっていきます。

しかし、その中で人々が文字にはせずに語り継いでいるなかには勝者ではない側、つまりは敗者がわの歴史があることに気づきます。つまりは歴史の一部ではなく、歴史の全容が垣間見れるのです。

すると本当に学ぶべきものに出会えます。つまり温故知新することができ、懐かしさから徳を引き出し現在に智慧として活かすことができるのです。現代の問題点は、歴史を勝者側の片方からしか学ばないからです。ちゃんと歴史に学べば、智慧は今でも活かされ続けます。それを私は伝承と呼びます。

歴史的な場所に、伝承者がいるということで先人たちの智慧は子孫たちへと継承されます。それは目先の利益ではなく、まさに徳積です。

これからも仲間たち共に、今こそ必要な智慧を発信し続けていきたいと思います。

変化を味わう

先人たちやご先祖様のことを大切にするのは、その時間軸に触れることからはじまります。これを私は縦軸とも呼びます。もっと言えば、目には観えないけれどずっと繋がって途切れたことがないことがこの縦軸です。

私たちのご縁はこの縦軸を中心に横糸を編み込んでいきます。横軸は現在出会っている人たちや事物とのご縁のことです。同じようなことを何度も繰り返しては、以前よりももっと善いものへしていこうとするのが私たちの人生です。

私たちは変化を已むことはありません。同じことは二度とは発生しませんし同じということはありません。なので、時代を超えて役割を持ち、また使命を果たすというように繰り返しても同じではなく別の新しい繰り返しをすることになります。

これは毎日朝起きて夜眠り、日々を繰り返すのと似ています。同じ日は二度とありません。なので今度は、これを善くなるように、あるいは反省して気をつけようと新たにしていくのです。

その中で、先ほどの縦軸はとても大切です。

出会いやご縁はつながっていると言いましたが、繋がっているから今度はこうしてほしいという願いもあります。その願いを聴き届けながら別のプロセスを辿るように依頼されます。変わってほしくないことと、変えてほしいことがはっきりしてくるのです。

変化というのは、変化そのものに善し悪しがあるのではなく変化しないために変化するのです。

矛盾しているようですが、変えたくないものがありその普遍的なものを守り続けるために自分を変化させていくのです。外部環境が変われば変えてはいけないものまで変わっていきます。でもその変化は変化ではなくただ留まっただけです。この地球が回転するように動きを止めることはありません。回転する地球をはじめ太陽系、銀河宇宙全体が回転しているのだから同じように巡っても同じはありません。

だからこそ私たちは変化に対してバランスを保つのです。中庸ともいい、回転を維持するには中心軸は常にバランスを保っていないとその回転を守れません。私たちが変化するのはこのバランスのためです。

そしてこのバランスを保つためには、縦軸があってことというのは独楽でもすぐにわかります。独楽も中心軸の縦軸があるから真っすぐに立ち回転し続けます。その回転もよわくなったり強くなったりするので、私たちもそれに合わせて回転を続けるために変化し続けないといけないのです。

真理というものは、何千年、何万年も変わりません。しかしその真理も時代の変化で変えられていきますから元の真理に原点回帰を何度も繰り返していくのでしょう。

子孫たちのためにも、場を調えてバランスを保ち変化を味わっていきたいと思います。

似て非なるもの

この世の中には似て非なるものというものがたくさんあります。例えば、本物には決して足さないような添加物を入れたり、作り方も正直ではない効率や小手先の技術で胡麻化すようなことをしたり、文章や宣伝、広告で過剰に悪いところを除いてさも本物のように表現したりしている偽物と本来の本物は同じものではありません。

しかし今の時代は、偽物が本物に挿げ替えられ本物はさも偽物のように表現されています。これは偽物でも、大勢の人たちが買うものが本物であるといった経済詐欺の仕組みが世界全体の価値観に浸透しているからです。民主主義といったものの、その実態は大勢の民衆が正しいといえばあるいは信じたのであればそれは本物であるといった刷り込みにほかなりません。

環境の影響で刷り込まれれば、似て非なるものがわからなくなります。何が本物で何が偽物かがわからないというのは、致命的な感性や感覚のズレを起こします。つまり事実まで歪められるのです。

この偽物を本物にする技術というのは、現代病の最も大きな根本原因になります。そしてこの現代病を推し進めてきたものが金融経済、あるいは現在のマネー資本主義です。

本来は、事実や実体というのは嘘がないものです。むかしから自然と共生していたころに発明された道具をはじめすべての物は正直に自然にできていました。自然物を用いる技法は、本物です。しかしそこに、まったく別のものを持ち込みそれを本物の代わりにしました。わかりやすいものでいえば、畳などもイグサを育て用いて編み込んで藁をいれてつくるものが今では合成のプラスチックとスポンジをいれて商品名はカビの出ない畳としてホームセンターで「畳」という名前で売られています。隣に本物の畳が置いてあるのならまだしも、もう商品の陳列コーナーにはこのプラスチックの畳しかありません。

それを購入する人は、安くて便利で畳だからとマンション向きのこの畳風のものを畳として認識して子どもたちに教えたりします。そのうちこの似て非なるものが本物になるのは時間の問題です。

こういうことは果たして罪ではないのかと私は思います。それなら別の名前にしてせめて畳風プラスチック床や、もう畳という言葉をいれずにカビのでないマットでもいいのではないかと思います。それに畳という言葉をいれて、畳という商品で販売する、そして購入者もそれを畳として認識して使うというのに問題があると思うのです。

これがOKとなるのなら、マグロでもマグロに切り身が似てればマグロにして、お米もお米風の別の種でもお米に似てればもうお米でいいとなり、そのうち見た目さえ似ていれば全部本物みたいに規制も緩和し企業の利益優先でどんどん無法状態で勝手に宣伝して教育していたら文化など一瞬で滅んでしまいます。

子どもたちの未来のことに対する責任として、社会や教育に関わる人は最低限で絶対的にこの似て非なるものの環境からまず何とかしなければならないのではないかと私は思います。環境が人をつくるのだから当然、環境をまずなんとかするのが真の教育者ではないですか?皆さんはどう思われますか?

私の親しい覚悟をもった伝統職人たちをはじめそれぞれの仲間は誇りをもって本物を保っています。彼らこそ真の教育者です。もちろん現代の発明や道具は時代に合わせて用いますが、●●風にはしないように特に厳格に生き方を常に反省して日々に注意して克己復礼して取り組んでいます。

仲間たちと共に、本物を次世代へと譲り徳を守っていきたいと思います。

人の願い

人は願いを懸けたあとそれが成就しますが、長い年月をかけて成就したものへの感謝を忘れるものです。しかしよく考えてみると、願いは一つの思いになって祈ったものですからそれが巡り巡ってまた元のところに戻ってくるものです。

この世の中は、反射の仕組みによって成り立ちます。私たちの眼に見えるものも反射の仕組みです。音が聴こえるのも反射、それが出入りすることが陰陽ともいえます。そう考えてみると、願いもまたどこかに届きそれが戻ってきているともいえるものです。それを別の言い方では波動ともいい、仏教ではご縁ともいいます。

決して消えてなくなったものではなく、永久的に反射している存在としてありそれが響き合い重なり合うことで増幅したり或いは和合したりして存在を続けています。そしてその存在があるところを私は「場」と呼ぶのです。

善い場には、善い場を創造した波動があります。その波動は常に何か日々の暮らしの中で研ぎ澄ませてきたものがあります。

場を調えるというのは、願いを聴き届ける場でもあります。私たちが鏡に祈るように、私たちの存在は過去の願いで仕上がっているものです。その願いは悠久の年月、先人や先祖たちが願ったものです。

そのことに対する感謝と、また同じように子孫へ願うことが私たちの最も反射する仕組みが増幅したり和合するために大切になるように思います。不協和音を消していくと、澄み切った和音が聴こえてくるものです。それはまるで夜明け前の静かな夜であったり、瞑想をして無心のときに聴こえているものです。

願いに生かされているという実感は丁寧な暮らしと共にあります。暮らしフルネスの実践を紡いでいきたいと思います。

種の使命

昨日は乾燥していた伝統在来種の高菜の種取りを行いました。今年は有難いことに多くの健康な種を確保することができそうです。これから少しずつ故郷にまた伝統高菜が増えていくように種を丁寧に弘めていこうと思っています。

現在、何でもお金にする世の中で空気もですが種もお金で売買されるようになりました。種苗法が改正してから登録されているものは種苗法による自家増殖原則禁止になったときは色々と物議をかもしました。

そもそも種を所有し、その権利を奪いお金儲けをしようとする人が出たからそれを法律で防ごうということです。もともと種は誰のものかということを深く考えてみると、種はみんなのものであることは自明の理です。

そうやって人類は、種を分け合いみんなで育ててきたから地域の伝統在来種が守られてきました。これは決して種だけのことではありません。現在の地域の文化財なども等しく、あれは一個人で所有して守ってきたものではなくみんなで守ってきたものです。

この所有権というのは、用い方や使い方が間違えると色々と人間の欲望と結びつきかえって世の中を暗くしていきます。経済の在り方が現代のように、個人の所有と大量と消費、世間大多数の正義を優先するようになってから破壊は増え続けています。

そもそも分け合うことや贈与すること、あるいは徳を積むということは何のために行うのか。それは単なる物だけが循環しているのではなく、そこにいのちや感謝や恩徳の循環があるからです。

種はこれから人類を目覚めさせる大切な存在として役割を果たしていくでしょう。それぞれの地域で、守る人たちが立ち上がることだと私は思います。

私は私の使命を全うしていきたいと思います。

すべては種のために

私がこの在来種の高菜を販売していくようにしたのは、故郷の伝統野菜を子孫へと引き継いでいきたいからです。そしてこの美味しい味を後世に残していきたいからです。現代では、大量生産大量消費、そして農薬や肥料や改良された種の野菜が出回るなかで本物の古来からある種や味を食べてもらいたいということもあります。

伝統在来種がこの種と味になるまでに千数百年、あるいは数千年の年月を経てこの土地と風土でここまで辿り着いてきたものです。これは先人たちの汗と涙と苦労の結晶ですし、共に厳しい自然を生き抜いてきた仲間としての愛情もあります。

今さえよければいいと、安易に改良をして歴史を途絶えさせたり或いは安価で便利だからと先人の智慧よりも目先の科学技術を優先すれば取り返しのつかないことになってしまいます。

これはこの伝統野菜だけの話ではなく、人類の話も同じです。

今の私たちがあるのもまた、人類がはじまってから遥かな歳月を経て今に至ります。私たちの身体をはじめ、智慧の数々は先人たちの汗と涙の結晶です。その大切ないのちをどう次のために使っていくかというのが私たちの本来の使命です。

すべては種のためにあるといっても過言ではありません。

その種を守るためには、伝承をこの時代でも丹誠を籠めて取り組むしかありません。その方法は、伝統の革新、また本物を提供するということです。伝統の革新については、この時代でも美味しいものをさらに追及するということです。美味しければこの時代でもたくさんの方々の賛同が得られみんなで食べ繋いていけます。費用も時間もその価値に見合うものになります。そして本物については、誤魔化さずに正直に取り組むことです。作り方から育て方、そして加工の仕方に至るまで先人たちの智慧、自然の仕組みにこだわることです。

そうすればこの種をいつまでも守っていくことができます。そして同様にこの種の道を守る仲間が増えていけば、そのうちお米が田んぼ全体に広がっていくようにこの種もまた広がっていきます。

この日子鷹菜にはその未来へ種を託す願いが込められています。

民主主義をはじめ資本主義の中では民衆が賛同したことが正義です。主義というのはそういうものです。しかし、先人たちへの深い感謝と未来の子孫へ恩を譲るために徳を積んでみようとするのがこの試みです。

購入ではなく喜捨のつもりでこの日子鷹菜に関わっていただけますと幸甚です。徳積堂でも、この日子鷹菜を美味しく食べられる場を用意しています。また一緒に農作業のめぐりを体験し種を持ち帰ることができる行事も実施しています。ぜひ、足を運んでいただけますと幸甚です。

ありがとうございます。

美しい味~日子鷹菜~

日子鷹菜にはたくさんの乳酸菌が入っています。この乳酸菌とは「糖を利用して乳酸を大量に作り出す微生物の総称」のことをいいます。

簡単に言うとヒトの腸を通して健康に善い影響を与える「善玉菌たち」のことです。一般的にはお漬物やお味噌、醤油など古来から発酵して和食を支える中心になっている微生物のことです。

この乳酸菌は、科学的には乳酸発酵によって糖類から多量の乳酸を産生して悪臭の原因になるような腐敗物質を作らない作用があります。常に樽の中で微生物が数分から数時間で生死の巡りを何度も繰り返して新しい菌と死菌が蓄積していきます。お漬物はこの発酵作用によって発酵して熟成します。

世間で売られているような浅漬けで余計な旨味調味料などを添加しなくても、長時間木樽で熟成すれば次第に乳酸菌たちの醸す自然の滋味や旨味も出てきます。

それに植物由来の高菜の乳酸菌は、常に塩分濃度や酸度が高かったり糖が少なかったりと過酷な環境でも生き抜けるため動物由来乳酸菌と比べて強い生命力を持つといわれています。

実際にはこれらの乳酸菌は腸まで届く前にはほとんど死んでしまいます。たとえ腸に生きたまま届いてもすぐに消えてしまい乳酸菌がそのまま腸に住み着くことはほとんどありません。

しかしこの乳酸菌は、『触媒』といって腸の中の他の善玉菌たちを元氣にしてヒトを腸から健康にする大切なお役目を果たします。乳酸菌を日々の暮らしの中で摂取し続けていれば、それだけ健康が長く保てるということになります。最近の研究では、むしろ死菌の方が触媒としての効果を大いに発揮するともいわれます。

私たちの伝統在来種の高菜漬けは、少なくても180日間、長いものは15年ほど森の中にある漬物小屋の木樽の中で漬け込んでいます。お塩も天然天日塩で精製塩ではありません。また余計な添加物は一切なく、お水とお塩のみです。木樽の中の乳酸菌は何千億、何兆という数が今も発酵を続けています。

それをそのままに半日かけて乾燥させ、日子鷹菜スパイスにするとその数千憶単位の乳酸菌を日々に摂取することができます。本来、この乳酸菌はどれだけ日常的に摂取するかで腸内フローラや免疫、および健康を左右します。

最後に私たちが心から美味しいと感じるものは、私たちの腸内をはじめもっとも健康に保てるものを感じたときに一番深く感じられるものです。舌先三寸を誤魔化すような化学添加物で味わう「オイシイ」ではなく、心身全てで「美味しい」と感じられる美しい味わいを楽しんでいただければと思います。

むかしながらの大切な在来種の種でもっとも真心をこめてつくる味のなかには先人たちの知恵と美しい生き方があります。この美しい味をいつまでも子孫へ伝承していくために引き続き精進していきたいと思います。