お山のお手入れ

梅雨に入り、英彦山ではあちこちで豪雨の影響で水路が壊れています。水路が変わると、本来のところに流れずに別の水路ができそこから道が壊れていきます。ある意味で自然の自浄作用だと放置することもできますが人が住んでいますから舗道や宿坊までの通路などに流れ込むと人が入ってこれなくなります。それに先人たちが設けてくださった石垣も水が流れることで次第に崩れていきます。そうならないように、早めに水路を復旧して回復しないといけません。

むかしは各場所に人が住んでいた宿坊があり、その周囲はそれぞれの宿坊の主人や家人たちが整備してお手入れしてくださっていました。それが今ではほとんどの宿坊が失われ石垣だけが残っています。

先日も宿坊への通路に大量の土砂や水が流れ込んでいて水の流れが変わっていました。雨が落ち着いてから水路を辿ると上流には大量の木材が流れ込んで水をせき止めていました。水路が変わる原因は、木材にこそあります。また誰かが粗大ごみを捨てており、車のタイヤやそのほかの農機具などもありました。ひょっとしたら空き家や周辺の放置されているものが流されてきたのかもしれません。

それを一つ一つ片付けながら水路を復旧していきます。とても一人でできる作業ではありませんが、できるところはこまめに手入れをすれば何とか復旧できます。これも高齢者になると難しいのかなと思いまながらお手入れをしています。

先のことを考えていくと、今のうちに手を打たなければならないことばかりです。この英彦山は福岡県のお水を全地域に流し込む大切な場所です。そのお水の聖域や聖地をどう守るかというのは、下流の人々の暮らしを守る為にも大切でした。

現代は、治水工事も場当たり的になっていますが先人たちは水源のあるお山、つまり上流域を大切にお手入れすることで下流域を守れると信じていました。その証拠に、私が水路を復旧するのも上流からやらなければ下流だけ治してもまた根本的な解決にならないからです。

上流まで辿ると、どこで木材が詰まっているのか、何が流れを悪くしたのかがわかります。それを取り除かないから次の豪雨で水路や地形事破壊されます。むかしは木材は子孫のためにと植林をして伐採をしてお手入れをしていましたが今は、その木材が倒木して子孫を苦しめる結果になっています。

林業や治水が荒廃すると、即座に人々の生活が荒廃します。何がもっとも大切で、何を子孫のために伝承していくのか。それはお山に住めばすぐにわかります。都市化する社会のなかで、今ではそのお山も都市化で毒されてきました。観光という名の破壊は続き、お山にも都市の原理を押し付けてきます。

本来は逆で、都市にお山の原理を押し付ける方が世の中の暮らしはととのっていくのでしょう。引き続き、お山のお手入れをしながら学び直していきたいと思います。

安心と信頼

私たちは、生まれてすぐ赤ちゃんからはじまります。自分だけでは生きられず、親など信頼できる存在があることで生きていくことができます。

ほんの小さな子どもが親がいないと必死に探し回るように、親がなければ不安で生きていけないからです。それだけ、私たちはまず信頼する存在、安心できる存在を求めます。

自然界では、その期間がとても大切な循環の仕組みになっているようにも思います。

この安心や信頼は、この世で成長していくための原動力になります。はじめてこの世に出てから、この世は安心できるや信頼できると思うと自分でいられます。そう考えてみると、自分であること、自分でいるのとは全て安心から始まっているということです。そして、そうさせてもらえる存在によって信頼が始まるのです。

不安や不信はもっとも成長を阻害していきます。

だからこそ、安心や信頼の環境は成長を見守ることにおいて何よりも大切で優先されるものです。

子どもたちや子孫のためにもその環境や仕組みを場で伝承していきたいと思います。

暮らしの中の遊行

ここ数日、遊行を行いました。そもそも遊びというのは、とても奥深いものがあります。子どもは遊んで育つものです。それが次第に大人になって遊ばなくなっていきます。この遊ばなくなることを大人になったといわれることもあります。しかしそんなことはあるはずがありません。人生というものは、遊びがあってこそ喜びや豊かさがあるからです。

この遊びとは何かということです。

遊びとは、遊び心から産まれます。遊び心は、何もないところから発生します。何もないことが楽しいということ、つまりはないことの中に遊びがあるということです。

現代の価値観では、予定があることや何かする理由がないことはしてはいけないような空気感があります。何をするにも何かをするためにあります。何もしないために何もしないということはありません。

本来は、遊び心はその理由がないところから自然に発生してくるものです。何もないから遊んでいるだけという具合です。遊びは無の境地ともいえます。無であるというのは、単に何もないのではなく無尽蔵に遊べる中にあるということでもあります。

遊びの大切さは、行の実践の中にこそあります。その遊びの行とは、一期一会の今のなかですべてを深く味わう境地でもあります。改めて道中をぶらぶらと歩いていくところに、すべての発見や成長があるということです。

子どもたちを見倣って、暮らしの中での遊行を味わっていきたいと思います。

場の記憶

本来、聖域や神域というものは誰でも入れるところではありませんでした。これを結界ともいいます。それだけその場には、特別な何かが宿していると信じられていました。

例えば、穢れというものを入らせない場というのはそれだけその場を大切に守ってきた場面というものがあります。以前、鹿児島の富屋旅館で兵士たちが家族と最期のお別れをする和室の居間があってそこにいくと凛として佇まいを覚えました。これはこの場所を聖域として大切に守り続けてきた人たちの意識と、そのかつての場面の大切な何かがこの場に宿っていると信じられているからです。

場所というのは、その場所でかつて何が発生したか。そしてその場所のその思い出や場面をどれだけ真心で守ってきたかという「場」の記憶があるのです。

場の記憶こそ、本来の場で守るもので私たちは今でもその場の記憶に感覚的に触れることができます。

肉体や精神や色々なものは生まれ変わることで失われていきますが、記憶というのはその空間にいつまでも宿しているものです。消えたのではなく、その場に永遠に遺るのです。しかしその記憶は、乱雑に穢せばその記憶が感じることができません。雑然として物に溢れかえった部屋で何かを探そうとするのと似ていて見つけられないのです。

しかしシンプルにその場が調っていれば、その記憶を直観することができるのです。

場を調えることが分かる人は、記憶を蘇らせることができる人ともいえます。私の甦生家としての本懐はこの一点に由ります。

引き続き、この時代の役割を果たしていきたいと思います。

もったいない

昨日は、BAのお庭にある自然農の野菜を収穫して手間暇をかけて調理をしてみんなで食べました。採ってすぐのものを、そのままあるもので調理をする。当たり前のことですが、採るところから調理して食べてそれを味わい振り返る喜びは食の仕合せを実感させるものです。

毎日の食事をどのようにしているかは、毎日の生き方をどのようにしているかということと結ばれています。

むかしの人たちは、今のようにスーパーに気軽にお金で買い物をするという具合ではありませんでした。特に田舎では、そんな便利な場所はすぐに近くにはありません。というより、家の庭で採れるのでその方が便利といえば便利だったでしょう。

今のようにパソコンやスマホで1クリックすればすぐに品物が届くなどという奇妙な便利さなど存在することはなかったでしょうから便利の意味も変わってきます。便利が人間の欲望にあまりにも近づいてくると、不便というものが敵のようになってきます。

本来は、便利は不便という豊かさを感じさせる大切な要素で敵ではなく仲間のような存在だったように思います。手間暇をかけることは敵ではありませんし、滅多にないものは貴重な体験だと大切にしたように思います。

なぜこうなっているのかというと、忙しすぎるからです。なぜ忙しいかというと、忙しくあることが価値があると社会的に信じられているからでもあります。そういう忙しくしている人々のために便利さは開発されていきました。不便だと敵なのは、より忙しくなると思われているからです。

この時代、物理的にも忙しくなるのは仕方がないことともいえます。しかし心まで忙しくなる必要はありません。心を忙しくしないと決めると、敢えてする手間暇やお休みはとても豊かな時間になり喜びになります。

そしてそれは日常の足元にある不便さに気づくチャンスでもあります。不便というは、それだけ何かをする行程が増えるというものです。しかし、一度しかない人生で一期一会のご縁と時間でそれを達すると終わってしまうと思えば少しでも味わいたいや覚えていたい、楽しみたいと願うものです。

駆け抜けるように振り返りもしないまま、ただやることを増やして前進するというみんなで忙しい社会や環境づくりに没頭していたらとても「もったいない」ことをしているかもしれません。

この「もったいない」とは、単にまだ使えるものをもっと大切に使おうとすることや単に捨てないということではありません。これは豊かさの本質に気づけずにもったいないという意味もあるように私は思います。

暮らしフルネスも今の時代は、なかなか理解できないこともあるかもしれませんが本来は暮らしがあるだけで充分という仕合せの話です。子どもたちや子孫たちに、徳を譲り遺していけるように実践を楽しんでいきたいと思います。

新たな食育

エネルギーというのは、不思議なものでその活用において等価交換するものではありません。少しのエネルギーでも大量の活動をすることもあれば、膨大なエネルギーでも少ししか活動できないものがあります。

エネルギーにも気力体力精神力というようにそれぞれの力のエネルギーが存在します。エネルギーは、他にも徳力や場力、生命力など様々です。

私たちの暮らしではそのエネルギーをあらゆるところから転換して活用しています。これは自然界も等しく、すべての自然はそれぞれにエネルギーを発揮しあい交換しながら循環させています。つまりエネルギーは、私たちの活動のすべての根源ということになります。

このエネルギーという言葉の由来を調べるとギリシャ語で「仕事」を意味するergon(エルゴン)とあります。そして活動している状態のenergos(エネルゴス)を古代ギリシャの哲学者アリストテレスがenergeia(エネルゲイア)と創作したといます。アリストテレスは、種のように動きのないものを「デュナミス」、花のように活動しているものを「エネルゲイア」と呼んだのが起源です。

このエネルギーを一般的に私たちは力とも呼びます。「力」という漢字の成り立ちは、畑を耕す農具である「すき」の形をかたどった象形文字です。そしてこの力のことを私たちは別の言い方で「はたらき」ともいいます。そのものに元々具わっている活動力のことです。

力はそれぞれに性質も種類も異なりますが、すべてのいのちははたらきを以って活動しています。

一汁一菜や一汁三菜というものがあります。これは日本の和食の生き方が形になっているものです。今のように西洋の栄養学が当たり前になっている現代では、高カロリーで肉食をはじめ贅沢なものを摂取することでエネルギーが発揮されるといわれます。しかし実際には、日本人の古来の食文化の方がエネルギー効率も活動も現代よりも数倍から数十倍発揮されます。

私たちは一つのエネルギーを何によって増幅するのか。その一つにお米があります。むかしの人は玄米のおむすびと梅干しやお漬物があれば、相当な活動ができたといいます。

私たち現代人がなぜ疲れたりだるかったりするのか、そこには本来のエネルギー転換の仕組みを忘れてしまっているからかもしれません。本来の食育の伝承は生き方の伝承だったはずです。その一つにこのエネルギーが関係していることは間違いありません。

子孫たちのためにも、古来からのエネルギーの生き方を伝承し、新たな食育を実践していきたいと思います。

徳の実践

現在、伝統在来種の堀池高菜を日子鷹菜としてリブランドしていますが色々と価値や費用のことで考えています。もともと大量生産、大量消費という農業の在り方では伝統在来種の維持や限りなく自然に沿った品質の高いものを作ることとは反比例するものです。

そもそも農業で作物を大量につくろうとすれば次第に農薬や肥料を増やすことになっていきます。みんなが少量を丁寧に手間暇かけてつくるものを、大量にする過程で機械化や合理化、便利な仕組みを導入していきます。一度、そういうものを導入すると大量につくれるようになり大量に消費されていきます。すると、費用や価格は急激に下がっていきます。

この時何が問題なるのかといえば、少量をつくってきた農業や農家が駆逐されてしまいます。それは価格がまったく見合わなくなるからです。少量で手間暇であれば、一つの作物にはその労力や時間、その他の暮らしの中でかけた様々な智慧や工夫が費用になります。その費用は、大量生産大量消費の時の単価と比べたら数倍から数十倍、あるいは数百倍になります。

そうすると消費者は高いということで購入しません。あるいは中間業者も少量だと儲からないからとお店で扱わなくなり流通しなくなります。そうなると存続していくことができずにやめてしまうのです。

本来は農作物というのは、そんなに大量につくることができません。大量に一つのものだけをつくるとそれだけ土や自然に負荷を与えてしまいます。自給自足する分だけで生きていた時代は、日頃よりも少しだけ多めにつくりそれを購入しあっていました。あるいは物々交換をして生業を立てました。

今の時代は、完全にお金を中心にした生活になっているため、お金が流通するのであればそれを是として農業もその基準に合わせていきます。

例えば、大量に生産し大量に消費するための農業が最も正しいという価値になっているということです。

ただ、この弱点は先ほど言った土を疲弊させ、人を疲弊させ、作物の品質を下げ、健康を害するような生き方をするような環境になっていくことです。お米であれば、元氣のないお米が流通していき本来の元氣なお米は流通すらしなくなるということです。その結果として、土は汚れ傷み、休耕田が増え、潰して太陽光発電の田んぼか住宅地になり、高齢化で後継者も増えず、お米の価値は下がり農家がいなくなりました。

この流れをどこかで転換しなければ、最終的には古来から大切にされてきた種も失い、農地も疲弊し、人も失われ伝統も消え最後は人々もいなくなるということになります。今の時代の過疎化をみると、そこには歪な資本主義経済のありようが根本的な原因になっているのがわかります。

どこかで今までの飽和成熟して劣化してきた経済の仕組みを転換する必要性を感じています。真逆にように感じられるかもしれませんが、徳積循環経済はその可能性を感じています。その第一弾として、この伝統在来種のリブランドや甦生はその価値そのものを転換できると信じています。

引き続き、自分の場所で一つずつ徳の実践を積み上げていきたいと思います。

 

大好きなお水

昨日、ようやく浮羽で手掛けている古民家甦生の井戸水が湧いて出てきたのを確認しました。困難続きだった井戸が甦り、お水が湧いてきてくださって心から感動と感謝がありました。

お水はとても澄み切っていて、冷たく、そして清らかでどこか厳粛さのようなものも感じました。私はむかしからお水への感覚が鋭敏のようで少しの違いでも見分けることができます。

特に鋭敏になったのは、30代のころに体調をひどく崩してずっとお水しか飲めなくなったときにその中でも飲めるお水と飲めないお水があることがわかりそれ以来、お水を飲む感覚が鋭くなりました。また肌感覚の方は、3年前に滝行をはじめてから肌で触るとそのお水の感覚が分かるようになってきました。もともと温泉が大好きで、温泉の香りや成分も感じやすい方でしたから今では触るとなんとなくお水の特性のようなものを実感できます。水気や湿気については、石風呂をつくり蒸気をたくさん浴びているうちに空気中の湿気の密度や濃度、また状態なども気づくようになってきました。

特に古民家に住んでいると、お水の質量は一日中変化をして已みません。そのお水の変化を感じながら過ごしていると、次第に風通しや水分補給のタイミングが分かります。湿気においては、蕎麦打ちをしだしてから微細な湿気が蕎麦の水分の影響を与えるので普段から意識するようになりました。また自然農で田んぼや畑をしていると、水はけのよい土を観察しているうちにちょうどいい水分量というものを理解するようになってきました。

またお水の豊かさにおいては、非常に純度の高い鉄瓶のお水を飲んでいるうちにお水が火で変化していくなかで実感しました。

そう考えてみると、私はお水のことが大好きです。お水の御蔭で私があるともいえます。何が好きですかといわれたら、お水が好きですと即答できます。お水の生き方は、私の尊敬する生き方です。

これから新しい井戸とお水と、いよいよ新たな御米のお店作りに入ります。心強い支援を受けて、いよいよ勇んでチャレンジしていきたいと思います。

徳の場

天命や使命というものは、どのようにして訪れてくるのか。これはご縁によってというのは誰もがわかります。しかしどのような人に天命や使命が降りてくるのか、これはその人の徳に由ります。

そもそも人の徳とは何か、そして何をすれば徳を積むのか。天命や使命を生きることにおいてこれはとても大切な実践であることは間違いありません。

孟子は人の徳を仁義礼智の四徳で語り、それを信徳ともいいました。人に信頼されるということはそれだけ徳を磨いてきたということでしょう。ではどのように徳を磨くのか、そこにこの仁義礼智を実践することを説きます。

天命や使命というのは運が決めるともいえます。どのような運命を持っているかはその人がどれだけ徳を磨いたかということです。

徳を磨くというのは、自己を磨くということです。そして何をもって徳を磨くか、つまりその砥石は何にしたかということもとても大切になります。

例えば、ある人は伝統文化で磨き、またある人は自然で磨き、またある人は清浄な場で磨きます。つまり砥石を先人の知恵であったり、自然の叡智であったり、日々の暮らしの中であったりするのです。

徳を積むことで、その人にしかないもの、そしてその人になるのです。

人は勝手に自分になることはなく、常に自己を磨くことで徳を積みはじめて自分になります。

徳がある人は、多くの人がなびきます。これは古今東西の真理です。ないものねだりばかりする世の中ですが、徳は常にその人の隣にあります。その隣徳をどのように大切にしていくかは生き方と実践次第です。

引き続き、徳を磨いて子孫たちへ場をととのえていきたいち思います。

食文化と伝承者

食文化というものがあります。これはその地域や場所で食べ続けられてきたものです。そこには地域特有の風土や人々の暮らし、そして採取できる食べ物の育ち方などで変わってきます。長い年月をかけて変化してきたのは、単なる気候風土だけではなくその関係性や組み合わせなど奇蹟に近いほどに一期一会のものです。

そして食べる目的も、薬としてであったり嗜好品であったりとではまた味も内容も異なります。

つまりはその食文化は、無数に無限に変化を続けて今に生きているということです。この今も、私たちは新しい材料や作り方や道具で変化して已みません。つまり今も食文化を創造し続けているということになります。

しかし何でも組み合わせを雑多にすれば食文化というわけではありません。その食事を食べるにもっともその素材を活かす方法があります。これこそが本来の食文化ではないかと私は思うのです。

その理由に、在来種の高菜をはじめむかしのお米で今、ちょうど新しい食文化を甦生させていますがやり方は無数に試してみても本来の本物の美味しい味がわかるまでに大変な苦労をしました。そのものの味がわかるというのは、そのものの素材の価値がわかるということです。

そのためには、その土地に住み、その風土で育て、共に暮らし、そして食べるというすべてを一貫して実践し通してみてさらに研究を重ねて気づいていくものです。

そういう気づきは、素材そのものとの向きあいになります。その素材を如何に大切に感じているか、そして尊敬しているかで食文化の原点に気づいていくのです。

時間をかけて醸成されてきた味の中には、大切な文化が伝承されています。その人々の思いや祈りや願いも入っています。これからも真摯に伝承者としての役割を果たしていきたいと思います。