誠の道

現在、ご縁あってお米に親しむ取り組みを深めていますがお米はとても偉大な歴史を持っています。その歴史は、縄文時代から食べて育てて共に暮らしその調理方法も変化させてきました。

まさに今、私たちが食べているお米は伝統文化そのものです。その伝統文化をどれくらい本気で伝承している人がいるかといえばほんのごくわずかです、私は自然農にご縁をいただき、川口由一先生の生き方を学び、誠のお米作りを真似てきました。

田んぼに一人で立ち、自然に寄り添いお水をととのえあるがままの美しいお米の徳を引き出す農的暮らし。本来の伝統文化としてのお米作りは、その生き方を伝承する人たちにのみ継承されていくものです。

そしてこれを私は真の歴史と呼びます。現代の歴史は、歴史とはとても呼べるものではありません。過去の終わったもの、あるいはいのちのない物体として分類したものを歴史と処理して専門家たちが言葉によって表現し伝えられるものになっています。

しかし真の歴史とは、今もむかしから継承し継続しているものであり終わったものを歴史とは私は呼びません。私の取り組む暮らしフルネスもまた、今も変わらずに知恵を伝承しているものが中心です。それは生き方の伝承のことでもあります。

古からの生き方を守らずに、今に歴史を語ることほど愚かなことはありません。たとえ知識がなくても、有名でなくても、評価されなくても、専門的な資格がなかろうとも、その人物が古来からの大切な智慧を実践して継承しているのならそれが真の歴史であり誠の今ということでしょう。

今とは、誠実さを欠けては今とは呼べません。お米が今、本来のお米であるためには親祖から大切にしてきた生き方を守ることです。

そのうえで新しくなることを今を生きるともいいます。論語に温故知新とありますが、古きを温めるということがどういうことか。これは生き方の話ということでしょう。

未来の子孫たちのためにも、誠の道を実践していきたいと思います。

お米に親しむ2

私たち日本人はお米をずっと食べ続けてきました。日本の気候風土にも適応し、私たちの暮らしを根から下支えしてきた存在こそお米です。

お米は、元氣を育てるものです。この氣の元ともいえるお米を食べることで私たちはご神氣というものをいただき氣を補充できるともいわれます。むかしから「一粒のお米には七人の神様がいる」とも言われてきました。具体的には「太陽」「雲」「風」「水」「土」「虫」「人」といった自然の恵みであるともいわれます。他にも七福神などという説もありますが、確かにお米はこのすべての存在があってはじめて実をつけますからそれを神様が宿っているといっても過言ではありません。ここでは詳しくは書きませんが、むかしうちの会社のクルーがブログで書いていた記事を紹介します。

日本人が氣力が漲っていたのもまたお米にあるといわれます。そのお米を弱体化するために、農薬や肥料で田んぼを弱らせ、改良された種と育てかたで元氣が失われていったともいわれます。

私は自然農法で、伝統在来種の高菜を育てていて初めて気づいたこともたくさんあります。先ほどの七柱の神様は、お米だけに宿るものではありません。高菜にも同じことがいえます。この太陽、雲、風、水、土、虫、人は、すべてが役割分担して野菜のいのちが育つのを見守ります。

野生のものには人は入らないかもしれませんが、他はそれも存在します。人が栽培するときに、人の真心や手間が神様になります。

特にお米は、八十八の手間がかかるといわれます。お米という字も、八と十と八の合体してできている字です。もともと八というのは、末広がりの意味もありそれだけ多いや大きいという意味にもなります。つまり大量の手間がかかるということで八十八の手間がかかるといいます。

この「手間」という言葉は、元々は動詞「手まねく」から派生した言葉です。 手まねくとは手を用いて何かを作り出したり行動したりすることです。つまりお米作りは、それだけの作業が発生する大変な作物ということです。

お米作りに比べると、高菜の方がそんなに手間はかかりません。冬野菜で葉物、それに高菜は逞しく強いので手間はかかりますがそこませ繊細ではありません。しかし元氣が漲る味があるものは、やはりこの七柱の神様と人の手間がちゃんとかかるものです。

そう考えてみると、私たちの食べ物はすべてこの元氣に通じています。元氣というのは、私たちには決して欠かせないものです。医食同源ともいいますが、本来は私たちは元氣溌剌に活動するためにご飯を食べます。元氣のあるお米やご飯は、私たちのいのちや暮らしを根底から支えていくものです。

お米に親しみ、お米を尊重し、お米を新しくしていきたいと思います。

お水に親しむ

水垢離という言葉があります。これはもともと垢離(こり)といって神仏に祈願する時に、冷水を浴びる行為のことをいいます。別の言い方では水行(すいぎょう)とも言います。

具体的には身体に付着した不浄なものを川水に流してしまおうとするものです。垢離の字は、当て字で川降り(かわおり)の音がこりに変化していったともいわれます。垢離の漢字は「無量寿経」が出典とあり、尊者または清僧となるための修行者に課せられた儀礼のことをいうといいます。

また水垢離は修験道的な言い方で、古神道では禊ともいわれます。その起源は記紀神話に、 伊弉諾尊 が濁穢 (けがれ)を除くために禊祓 (みそぎはらい)をしたとある故事からです。

穢れは、気枯れともいい、元氣が失われていることをいいます。水気がなくなって枯れそうな植物が、また水分を吸収して元氣溌剌としている様子に似ています。つまり水垢離も水行も実際には元氣を甦生するために行われてきたものではないかと思います。

私も滝行や水垢離をしますが、この時期は特に清々しく、澄んだ水に触れることで元氣が出てきます。水に親しむというのは、私たちの先祖から今に至るまで何よりも大切にしてきたことです。

私が居る場でも、常に水が生活の中心になります。朝は必ずお祀りしている神様のお水を換えいのります。榊の水も交換します。日々にお水からはじまり、寝る前にもお水で終わります。私たちは火に親しむよりも、多くお水に親しみます。

お水の存在が私たちの生命の根源であるのは、暮らしを通してもすぐに気付きます。どれだけお水を大切にしているかで、その意識でお水との親しみ方も変わります。

尊敬というものは、この親しみや関係性が重要です。寄り添うことや見守ること、信頼することは親しみからです。親しみの中にはお互いへの深い尊重があります。当たり前ではないことをどれだけかたじけないと実感できるか。

そういう意味で、水垢離は私たちにとても大切なことを教えてくださっているように思います。引き続き、遊行を楽しんでいきたいと思います。

 

徳を積む生き方

アメリカからの懐かしい友との話の中で「発酵道」につて語り合いました。もともと酒蔵、寺田本家の二十三代目の当主、寺田啓佐さんと親しかったこともあり色々と生前のことをお聴きしました。

私はどこか生き方が似ているところが多いようで、共通点がたくさんあります。微生物についても、むかしからずっと親しくしていてお漬物などの発酵食品づくりをはじめ、自然農の田んぼや畑、また会社経営にもその発酵の仕組みを取り入れています。

自然界は腐敗と発酵というものがあります。しかしこれは腐敗VS発酵ではなくどちらも大きな意味では発酵です。腐敗も自然界に循環するための大切な発酵の一つということです。しかし人類にとって悪い作用を施すのを腐敗と呼んでいるのです。実際には、腐敗も一つの浄化作用ともいえます。この辺になってくると、どれが善い悪いではなく愛と調和の話になってきます。

発酵道のなかでもその辺はよく語られています。以前、俳優の窪塚洋介さんが私のいる聴福庵や場に来られたとき私の実践する「腸活」の体験をしていただきました。諸事情があって彼の番組にはなりませんでしたが、腸が活き活きしすぎて大変なデトックスになったととても喜んでおられました。本質的に腸活になったこと、発酵の一期一会になったことを覚えています。

もともと私はこれらの実践を発酵という言い方ではなく最近ではもっぱら「徳」という言い方をします。私にとっては発酵=徳という定義です。発酵について、寺田啓佐さんはその著書「発酵道」でこのような言葉を遺しています。

「それは決して嫌々やっていることではなく、微生物にとってそうすることが快くて、自分の好きなことをしている。そして、楽しく働いている。私には、そう感じられる。生命のおもむく方向へ、自ら進んで行っているのではないかと。きっとそうやって自分らしく生きることが、微生物にとっては自然なのだろう。まさに微生物というのは、本当の意味で自分のために生きている、「自分好き」なのだ。こうやって微生物の世界をのぞいているうちに、生命のおもむくまま、「自分にとって最も快いことを選択していく」ことが、実は自分を生かす最良の生き方なのではと思うようになってきた。」

ここからわかるのは自分の喜びそのものが全体の喜びになっているのが発酵ということです。そして自分が好きなこと、喜びになることに専念している、その自分自身を深く愛しているからこそ自立して自由にこの世界を素晴らしいものにしていく生き方となるというのでしょう。

これが発酵する生き方、私にすれば徳を積む生き方のことです。

自他を活かす、全体快適に生きる、まさに嬉しき楽しき有難きという仕合せないのちの響き合いです。酒造りの智慧は、生き方の智慧ともいえます。日本酒がなぜ神様の大切な供物の一つなのかはここからも気づけます。

今年はお米のことに深く関わる機会をたくさんいただいています。何よりもかたじけなく有難く思います。引き続き、徳を精進していきたいと思います。

七夕と徳

昨日から色々な友人たちが遠くから遊びにきていただいています。ちょうど本日は七夕ということもあり、これからそうめんを茹でてみんなで無病息災を祈り味わいます。

私たちが何気なく暮らしの中で味わっている行事には歴史があります。その意味もわからずなんとなくそれぞれに楽しんでいますが意味がわかるとより一層その行事の効果や伝承の醍醐味も味わえるものです。

形式的な行事よりも暮らしに溶け込んでいるものの方が私たちは素直に伝承していくことができますが、ふとみんなで意味を感じ直すとその歴史に積み重ねられた豊かさに感動するものです。

いつの時代も、物語と歴史と行事はセットで伝承されてきました。失いたくない大切な教訓や知恵、そして記憶は今を生きる私たちの中にも結ばれていますから新鮮さを忘れないでいたいものです。

七夕にそうめんを食べるというのは、色々な説があります。一つはそうめんを織姫が使う糸に見立てたものとあったり、中国では元々病や魔よけのために小麦粉を練って作られた菓子を食べていたというものもあります。他には中国では帝の子が7月7日に亡くなりその霊を供養するためや、乞巧奠(きこうでん)という手芸が芸事の上達を祈る行事で糸を祭壇にお供えするときに似た供物としてというものもあります。天の川に見立てたり、陰陽五行の5色のそうめんもあります。

不思議ですが、私の家族を含め友人たちもこの時期にはそうめんが食べたくなります。長い年月、行われてきた伝統行事は心を和ませる効果もあるように思います。ご先祖様がそうしてきたように、今も私たちが体験できるというのはとても仕合せなことです。

暮らしの中で信仰を保てることは、何よりも自分自身の喜びがあり徳が積めます。引き続き子どもたちの未来のためにも暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

七夕のものがたり

明日は七夕です。もともとこの七夕の行事は中国から渡来したものが日本文化と融合したものです。「たなばた」という言葉も、本来は「しちせき」と呼ばれていました。これが日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」伝説と重なります。

この「棚機つ女」は神様を迎えるために水辺に設けた機屋に入り棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣(かんみそ)を織りあげる女性の呼び名です。この「棚」は神棚ともいうように神様が籠る神聖な場のことをいい、機はそれを実現する法具や神具のことです。

日本古来の神話によれば七月六日には水辺の機屋(はたや)で神さまの訪れを待ちます。水の神様をお迎えした女性はその夜に天から降りてくる神様の一夜妻になり、女性自身も神さまになると信じられていましたそしてその女性がその夜に織りあげた布を棚に置き機屋を出て水辺で禊をすると町や村が豊穣になり、厄を祓えるという伝承です。同時に川で禊をし髪を洗うと髪が美しくなるともいわれたそうです。

また願い事を「梶」の葉に書く事から書道の上達をも願うようにもなりました。それに技芸の上達及び福徳を願うようになり特に弁財天、弁天様が豊饒と技芸の上達を叶えるてくれるということで弁天祭と習合しました。そして陰陽五行の五色の短冊に願い事を書き、飾り物を笹に吊すだけの簡略化された七夕祭りになっています。また笹竹は天の神様が依りつくところ(依り代)とされていて願いを込めた飾りものを笹竹につるすようになりました。

そう思うと、色々な伝説が集合して今の七夕になっています。

似たようなものに、神仏習合というものがあります。最初のお水の神様が水分の神で瀬織津姫や宗像三女神と呼ばれたり、仏教が伝来しそれが龍神や弁財天や不動明王になったりと混淆しています。祈り方やお祭りも色々なものが組み合わさっています。

そう考えてみると私たちの先祖は、海外から来た神話や伝説も受容してそれを上手に取り入れて味わいました。それぞれの風土で誕生したものも、同じ願いや祈りを持っているものなら共に祈りお祀りして行事として実践をしてきたのです。

私たちはつい簡略化されたものばかりを見知って関心が薄れていますが、本来はどのようにその行事が発生したのかを深めていると先人たちの大切にしてきた真心を感じるものです。

大切な節目として、味わい深い暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

変化と感覚

人間の感覚というのはとても鋭敏です。例えば、何かに力が入りすぎたりすると「力む」状態になります。よく緊張している状態で身体が強張ります。すると無駄に力が入ることで瞬発力もなくなり、怪我をしたりします。また肩こりや筋肉痛なども発生します。すぐに緊張するタイプは、力んでしまうタイプともいえます。

しかし力むということが分かるというのは、力んだことがあるからです。力まないがわかるのも力まなかったことがあるからです。つまりはこれは感覚でつかむものです。

いくら頭でわかっても、実際に力まないはわかりません。何度も繰り返し、感覚でその状態に近づけていくしかありません。実際には、自分の身体の感覚というのは変化を已みません。その時の体調の善し悪しもあれば、蓄積してきた疲労とかもあります。また精神的なものや心の中の状態なども変化します。

つまりその時の状況は変化し続けますからその変化に気づく感覚が必要になります。力む力まないというのは、感覚で行うものです。そしてこれは心身だけでなく、その時の今、つまり一期一会の状況を味わうや活かすといった瞬間と場との変化にも適応していることになります。

同じ状況など一切ないというのが感覚の世界です。これは音の世界も同じで、同じ音なども一切ないということです。一度、聴いてしまった音は二回目には同じ音には聴こえません。それは自分の中にその音が入っているからです。これは経験も同じです。同じ経験は二度とありません、一度体験したらその次は別の経験になっているからです。

毎回、自分の感じるその感覚が変わっていることに気付けるか。これが先ほどの力まない状態に近づいていくことに似ているということでしょう。

感覚の世界というのは、全身全霊を活用します。そしてそれは全体最適を目指していることに似ています。別の言い方では、中庸でありバランス感覚、柔軟性ともいえます。

毎回、その感覚の世界を味わい生きている人は新鮮さを失いません。そして最高の状態というものを自覚していきます。これはそのものの持ち味を喜び、徳を引き出すことにも似ています。

感覚を磨くというのは、どの分野においても大切な要素です。身体的な感覚を法螺貝を通して磨いていきたいと思います。

日本人の真心を味わう

お米というのは、私たち日本人にはとても尊いものです。お米を食べて今まで生きてきましたが、身体を支えていただいているだけでなく心や精神までも深く結ばれているように思います。

私たちはお米作りをしながら神事を行います。お米作りを単なる食べ物を物として栽培するのではなくまさにお米を私たちのいのちを深く支える尊い存在として共存共栄してきた伴侶のように大切にしてきたように思います。

お米はそれだけ歴史があるように、私たちとの深い関係性があり私たちのいのりに通じているようにも思います。その証拠に、お米の味わいなどに変化が出てくるからです。化学肥料や農薬を使っているお米は、えぐみのようなものが出てきます。特に私は玄米食ですから、お米を丸ごと食べています。すると、そのお米の味や香りがはっきりとわかります。白米にして削れば、おおよそ味は強くでませんが玄米のままだとはっきりと味がわかります。

その時、生産する人たちがお米にどのような心や姿勢で関わったかで味が変わるのです。以前、北海道にある牛がひらく牧場の斎藤牧場さんにお伺いしてはじめて牛乳を飲みましたがその味は忘れられません。牛をどれだけ大切に共存共栄する存在として接してきたかが味に現れていました。他にも鶏の卵なども同様です。愛情や思いやりといった真心や感謝は確実に味に現れます。

その味を活かそうとすれば、その味のままに加工していく必要があります。つまりは生産した人の心のままに料理をするのです。

私が在来種の高菜なども自分で種を蒔き育てお漬物にして加工して料理して提供するのは、その「まごころの味」をお伝えしたいからです。これは日本人の真心のことをいいます。

「日本人の真心を味わう時間」こそ、私は日本人の甦生になると信じています。引き続き、小さな実践ではありますが求めている人には革命的な気づきがあることを信じて丁寧に丹誠を籠めて取り組んでいきたいと思います。

日本人の本当の心

日本人とは何か、これを何度も反芻してきましたがそれは先祖伝来の懐かしい暮らしの中にあることを感じています。そしてそれを私は「暮らしフルネス」と名付けて実践しています。

そもそも神道をはじめ修験道、茶道も華道も道というあらゆるものは暮らしの中に存在しているものです。その暮らしは、口伝のように人の暮らしの実践の伝承によって人伝えに智慧の継承が行われてきました。

それを体系化し、組織化し、知識として学問にしたことで宗派と呼ばれるような派閥や系統に分かれていきました。仏道と仏教が異なるように、仏教は数多く宗派が分かれています。分かれたものが一つになることは難しく、その違いが諍いになっていたりもします。

例えば、私たちもどこかの国家に属します。国家に属しているから国家が戦争をすればその戦争に国民として巻き込まれます。本来、地球は一つ、世界は一つだったといってもこれだけ国家が分かれれば一つに戻ることはなかなかできません。

しかし遠い先祖はどうだったでしょうか。

そこにはただ、「道」がありました。

その道は争いのない分断のない清らかな心がありました。常に清らかであろうと心掛けました。これこそ私は日本人の本当の心ではないかと思います。そのために、私たちは場を清めます。

私が実践する場の道場では結局はやっていることは、お水を大切にお祀りして場を磨きととのえるだけです。そうすることで、清らかな気持ちになります。清らかになれば分断や分裂がなくなっていきます。

私たちは教義だけでは、そう簡単に清らかになることはできません。だからこそ場に自分を運び、そこで場に佇み共に磨き合うことで道に入ります。これを私は「場と道」として場道と名付けています。それを実践する人を場道家ということです。

時代が変わっても、日本人の本当の心はいつまでも継承していき子孫たちへも伝承していきたいと思います。

徳の伝承

古典、易経に「義は利の本なり、利は義の和なり」があります。また孔子の春秋左氏伝に「義は利の本なり」があります。これは義=利であり、利とは義のことであるという意味です。

現代はこの利と義は別のものになっているといいます。利益は損益と比較されますが自分が損をすることは利ではない、自分が損をしないことを利とも定義しています。また義というのは、大義とあるように全体最適、自分を含めて全体みんなに利があることをいいます。

孔子は「君子は義に喩り、小人は利に喩る」ともいいます。また「利に放って行えば怨み多し」ともいいました。これは自分だけの利益を追うのは本来の人間の徳ではなく、全体の喜び中に自分の喜びもあることが徳の人であるといいます。そして自分の利益だけを追求すると、怨みが増えると。つまりは、世の中がネガティブで不平や不満やネガティブな感情に包まれていくといいます。

経済が道徳であり、道徳こそが経済であるという言葉に道徳経済の一致というものがあります。これは先ほどの利=義と同じ意味です。

そもそもが、本来の経済とは何かを突き詰めていけばみんなの仕合せと徳の循環です。そして道徳を同じく突き詰めれば、自分の喜びがみんなの喜びになるような本来の人間の徳を積むことが全体最適であり大義になるという意味でしょう。

なぜ今、こうではなくなったのか。

それは利と義を反発させようとする力が働いているからでしょう。不和ともいい、お互いに譲り合うことを忘れ、謙虚さを失い、勝ち負けにこだわり、法律ばかりを増やしては権利ばかりを主張する。これに和はありません。そもそも和というのは、思いやりのことです。お互いを思いやるなかでこそ、利も義も調和していきます。先ほどの怨み多しとは、利に放っているからです。

何のための利益かという、そもそもの動機や理念を定めずに単に目先の利益だけを追いかける仕組みになっているともいえます。例えば、長期的な利益、つまり1000年後など何世代も先のためのことやあるいは地球全体のいのちへの思いやりなどといった動機があれば利益は目先にばかりにならないはずです。

現代は何でも近視眼的になり、みんなが目先のことばかりに追いかけられています。それは余裕のなさやゆとりのなさにあるとも言えますが、これは義に喩る活動が減退しているからでしょう。

かつての私塾、懐徳堂や適塾、昌平坂学問所のような仁義を学ぶところが失われ目先の損得ばかりを学ぶところが増えたともいえます。

私はこういう世の中だからこそ今こそ、日本の先人たちの遺徳を偲び、現代にその思想や学びを甦生させていく必要を感じています。

私の取り組みは小さくても、その値打ちは偉大だと思っています。徳積堂を中心に、子孫たちへと徳を伝承していきたいと思います。