古典、易経に「義は利の本なり、利は義の和なり」があります。また孔子の春秋左氏伝に「義は利の本なり」があります。これは義=利であり、利とは義のことであるという意味です。
現代はこの利と義は別のものになっているといいます。利益は損益と比較されますが自分が損をすることは利ではない、自分が損をしないことを利とも定義しています。また義というのは、大義とあるように全体最適、自分を含めて全体みんなに利があることをいいます。
孔子は「君子は義に喩り、小人は利に喩る」ともいいます。また「利に放って行えば怨み多し」ともいいました。これは自分だけの利益を追うのは本来の人間の徳ではなく、全体の喜び中に自分の喜びもあることが徳の人であるといいます。そして自分の利益だけを追求すると、怨みが増えると。つまりは、世の中がネガティブで不平や不満やネガティブな感情に包まれていくといいます。
経済が道徳であり、道徳こそが経済であるという言葉に道徳経済の一致というものがあります。これは先ほどの利=義と同じ意味です。
そもそもが、本来の経済とは何かを突き詰めていけばみんなの仕合せと徳の循環です。そして道徳を同じく突き詰めれば、自分の喜びがみんなの喜びになるような本来の人間の徳を積むことが全体最適であり大義になるという意味でしょう。
なぜ今、こうではなくなったのか。
それは利と義を反発させようとする力が働いているからでしょう。不和ともいい、お互いに譲り合うことを忘れ、謙虚さを失い、勝ち負けにこだわり、法律ばかりを増やしては権利ばかりを主張する。これに和はありません。そもそも和というのは、思いやりのことです。お互いを思いやるなかでこそ、利も義も調和していきます。先ほどの怨み多しとは、利に放っているからです。
何のための利益かという、そもそもの動機や理念を定めずに単に目先の利益だけを追いかける仕組みになっているともいえます。例えば、長期的な利益、つまり1000年後など何世代も先のためのことやあるいは地球全体のいのちへの思いやりなどといった動機があれば利益は目先にばかりにならないはずです。
現代は何でも近視眼的になり、みんなが目先のことばかりに追いかけられています。それは余裕のなさやゆとりのなさにあるとも言えますが、これは義に喩る活動が減退しているからでしょう。
かつての私塾、懐徳堂や適塾、昌平坂学問所のような仁義を学ぶところが失われ目先の損得ばかりを学ぶところが増えたともいえます。
私はこういう世の中だからこそ今こそ、日本の先人たちの遺徳を偲び、現代にその思想や学びを甦生させていく必要を感じています。
私の取り組みは小さくても、その値打ちは偉大だと思っています。徳積堂を中心に、子孫たちへと徳を伝承していきたいと思います。