場の記憶

本来、聖域や神域というものは誰でも入れるところではありませんでした。これを結界ともいいます。それだけその場には、特別な何かが宿していると信じられていました。

例えば、穢れというものを入らせない場というのはそれだけその場を大切に守ってきた場面というものがあります。以前、鹿児島の富屋旅館で兵士たちが家族と最期のお別れをする和室の居間があってそこにいくと凛として佇まいを覚えました。これはこの場所を聖域として大切に守り続けてきた人たちの意識と、そのかつての場面の大切な何かがこの場に宿っていると信じられているからです。

場所というのは、その場所でかつて何が発生したか。そしてその場所のその思い出や場面をどれだけ真心で守ってきたかという「場」の記憶があるのです。

場の記憶こそ、本来の場で守るもので私たちは今でもその場の記憶に感覚的に触れることができます。

肉体や精神や色々なものは生まれ変わることで失われていきますが、記憶というのはその空間にいつまでも宿しているものです。消えたのではなく、その場に永遠に遺るのです。しかしその記憶は、乱雑に穢せばその記憶が感じることができません。雑然として物に溢れかえった部屋で何かを探そうとするのと似ていて見つけられないのです。

しかしシンプルにその場が調っていれば、その記憶を直観することができるのです。

場を調えることが分かる人は、記憶を蘇らせることができる人ともいえます。私の甦生家としての本懐はこの一点に由ります。

引き続き、この時代の役割を果たしていきたいと思います。