夜明け前の鐘

盂蘭盆会の期間は、私がご縁の深い場所のご供養をして過ごしています。むかしから毎年続けている場所、そして新たに加わった場所、減ることはなく増えていく一方ですからその豊かさも増えていることになります。

また親友の初盆にも参列してきました。両親ともお話をして彼を偲びましたが47年の生涯でしたが彼にとって長かったのか短かったのか、彼にしかわかりません。よく怪我をしたもので、体質的な病気も抱えていました。好きなことをした人生というよりは、親孝行をしていた人生だったようにも思います。私のことを心から応援してくれて何があっても味方になってくれていました。彼の妹に子どもができて、家族にまた光があったとお聴きしました。人は生まれ変わり、希望と共に前に進みます。

私ももう48歳、夢のような人生はあと残された時間はどれくらいあるのか。勝手に人生の後半だと思っていますが実は終盤だったりすることもあります。尊敬する先達や恩師、同志のように私も天命天寿を生き切りたいと願っています。

王陽明の48歳の時の詩に「睡起偶成」というものがあります。

「四十餘年睡夢中 而今醒眼始朦朧 不知日已過亭午 起向高樓撞曉鐘」(四十余年睡夢の中 いま醒眼始めて朦朧(もうろう)知らず日すでに亭午を過ぐるを 起って高楼に向んで暁鐘を撞く )

意訳ですが、「私はこの四十数年夢の中で朦朧として過ごしてきた。ようやく覚醒したらもう正午を過ぎていた。これから起きてすぐに高楼に鐘を鳴らしにいくぞ。」と。

人間は、常識や思い込みや刷り込み、時代の大衆の価値観や所属する国家や政治、比較や競争などの環境によってほとんどの人生を目の前に追われて目覚めることなく毎日を過ごしては本当のことや真実に気付かないままに人生を終えてしまうものです。

夢のようなあっという間の人生なのです。

しかし、ある時、本当はこうではなかったと気づくときに人生が目覚めます。本当は何をしにこの世に来たのか、何が自分の使命なのかと目覚めてしまうのです。

朦朧とした夢うつつの日常から志に覚めるのです。

王陽明は詩の続きにこういいます。

「起向高楼撞暁鐘 尚多昏睡正懵懵 縦令日暮醒猶得 不信人閒耳盡聾」(起きて高楼に向かい暁鐘を撞く なお多くの昏睡まさに懵懵たり たちひ日暮るも醒猶お得ん
信ぜず人間の耳ことごとく聾なるを)

これも意訳ですが、「起きて高楼に向かって夜明けの鐘をついても多くの人はまだ眠ったまま朦朧をして少しも目覚めない。このままもしも日が暮れてしまったとしていつか目覚める人はいるはず。私はみんなが耳が聴こえない人とは信じないぞ。」と。

周囲の人々に、「こんな暮らしは本来おかしい」と声高々に発しても一瞬目が覚めたと思えばまた元に戻っていく。それでもしつこく、一人でも目覚める人がいるはずと信じて鐘を撞くことが大切なことだと。

もっとも普遍的で当たり前であるほど、空気のように人はその存在に気づきません。空気が大事だといっても、そうだねと言われて取り合わないのと同じです。しかしこの空気こそを換えないといけないと目覚める人は一人でも増やそうとするのは愛があるからです。

人類は、夜明け前にいるという感覚を持つ人たちが「徳に目覚める」はずです。

私たちのすべてのいのちは地球の中で空気でつながっています。同じ空気を吸っては交換し合ってお互いに一緒一体に暮らしていきます。一度、空気を入れ替えてみると清々しい空気に仕合せを感じるものです。

あっという間の人生にいつも鐘の音が響くように仲間と場を磨いていきたいと思います。