暮らしの灯

私たちの文明はかなりの発展を遂げて今があります。国家というものが世界にここまで乱立し、世界は交通手段をはじめインターネットも普及し情報で結ばれ、宇宙開発も盛んで宇宙から地球を眺めるほどです。金融で象った経済も全人類のほとんどをカバーしています。そして医療をはじめ、工業技術はAIの誕生によりますます緻密に向上していくのでしょう。

私たちが何かを得るとき、同時に何かを失います。両方を失わないというのは、中庸をとるということでそれは人間力を磨き高めるということを選択するということです。

かつての人類、いや始まりの人類はどうしていたのだろうかと思いを馳せます。

すると、そこには自然と共生し暮らしを積み重ねてきた人類の姿を想像できます。最初は国家というものもなく、文明もありませんでした。きっと今の野生の動植物のように本能に従い、暮らしを循環し永続できるように自然を観察し活かして日々を生きたのでしょう。

このむかしの暮らしで考えてみると、現在、在来種の高菜を栽培してみて気づくことですが1200年も前に日本に伝来してから今までこれが保っているのは毎年、いや毎日の暮らしでこの高菜を見守り育てた先人たちがいることはすぐにわかります。

この種の発芽率を思えば、もって数年です。その間、植え続けなければこの高菜という野菜は終わってしまいます。私たちは自然と共生することで今食べる野菜が享受されているということです。いくらその間に、戦争が起きようが異常気象で地球が冷えようが諦めずにコツコツと暮らしを営んできたから今も生きているということです。

そう考えると、私たちは今の文明の前にあったものは暮らしだったということでしょう。この暮らしは怠ると滅んでしまいます。先ほどの高菜であれば、いくらお金や銭が大量にあっても誰かが暮らしの中で見守り育てなければそこで終了です。種が消えたら、復活することはまずありません。それが絶滅ということです。

現在、地球では日々にこの瞬間にも種が次第に絶滅しています。これは何が失われているかといえば「暮らし」であることは間違いありません。種が消えるということは、自然と共生して守り続けてきたそれまでの「暮らし」が消えたということです。

私が「暮らしフルネス」を実践していこうと提唱するのも、種に大きな影響があるからです。少子化の本当の問題もまたこの暮らしにあります。暮らし方が変わり、暮らしをやめているから種が消えるのです。

人口が増えているのは、在来種を守る暮らし、自然と共生する暮らしをやめているからです。工業のように大量生産し標準化すると種も増えます。しかしその種は、何万年も維持してきた自然の種ではなく人工的な種ということになります。人工的な種はその場しのぎですから長くは持ちません。それに人工的なものは、自然との共生が難しくそのために大量の費用がかかります。人類は、銭金を追い続けて増やしてきたからこそこの負のスパイラルから抜け出せません。

だからこそ、今こそ原点回帰して「暮らし」を換える必要があると私は感じるのです。この時の暮らしは、暮らし方の転換であり、生き方の転換です。日々に何をすることが自然の循環となるのか、もっと言えばどう生きれば徳が循環するのかを意識して暮らしを改革していくのです。

そのうち人類は、自然と共生することが暮らしでしかできないことに目覚めます。すると、文明を否定することではなく中庸であることを尊ぶ新しい意識が誕生します。両方をとればいいということです。

しかしそうあるには、暮らしとは何か、暮らしを新しくするのはどういうことかから始める必要があります。それくらいこの数百年の教育や変化のなかで私たちはそれを捨ててきたからです。捨てたものを拾い新しくすることが、人類の夜明けには必要だと私は感じています。

実はこの暮らしは、誰にでも変革できます。一人でもできます。むしろ一人でやるものです。どんな時も私たちは自然が味方になってくれています。思い出して忘れたことを思い出し、今ならどう新しくできるのか、時代時代に普遍的な道を求めた人たちが闇夜を照らすものです。

子どもたちのためにも、暮らしの灯をともしていこうと思います。