計算というもの

私たちは日々の生活の中で無意識に足し算や引き算をしています。あるいは掛け算をしたり割り算もしています。それは自分を中心に物事を計算しているということです。何かあれば計算をし自分が割に合うかどうかを考えているともいえます。割に合えばやり、割に合わなければやらない。貸し借りなどもそれで計算したりします。

これをまた別の角度から見るとある人は、足るを知り引き算で生きている、またあるい人は、もっともっとと欲望を足し算で生きるというものもあります。これは根底にその人の生き方が関係していて、同じ計算であってもどんどん貧しくなるものもあれば豊かになるものもあります。つまり計算とは生き方そのものということです。

また物質的な世界では足し算や掛け算というのは増えていくのに最適な計算方法です。物は目に見えますからそうなります。富も財産を増やすにも足し算と掛け算です。しかし心の世界になってくると、目に見えませんから引き算や割り算などが用いられます。足すよりも引いた方が、物ではない心の方が増えていくからです。物と心は同じ豊かさであっても、反比例することもあります。物と心を両面が豊かになるというのは、バランス感覚があるということでしょう。それは比べるのではなく、生き方の尺度が定まっているということかもしれません。

例えば、私たちの身体のことを考えてみます。

ある人は栄養をしっかりととっていくのがいいと信じて食べすぎ飲みすぎに加えビタミンなどをサプリで摂取します。またある人は一汁一菜で腹八分目、自然で採れた野菜や野草を最小限のものだけを摂取します。貨幣経済が跋扈する世の中ではお金があると、選択肢がいくらでも増えますがどれを選ぶかはその人の自由です。

この計算というのは一見、とても便利で合理的ではありますが敢えて計算をしないということも不便ですが実は「真の合理性がある」ともいえます。この真の合理性とは例えば日本人本来の美意識であったり、見返りを求めないで天命を全うすることであったり、運をよくするために徳を積んだりというものです。

私たちが計算するのは、自分をその尺度に入れて計算します。本来宇宙や自然は計算されているのですが計算をしていません。人が計算をしようとするとき、その計算によって自然の計算から外れてしまいます。自然の計算から離れるとき、損か得かばかりを憂うようになるのでしょう。計算外のことが起きることを怖がり、如何に計算取りにいくかをみんながやっていたらこの世はとてもアンバランスなものになります。

それが富の集中にも出てきているのがよくわかります世界人口の5分の1の人々が世界の所得の82.7%を所有して、世界でもっとも貧しい5分の1の人々は、世界の所得の1.4%しか所有していません。計算の成れの果てにつくり上げた世界が、今の富に帰結しています。

本来の自然というものは、自分の自然天命を生きるとき同時に周囲にも天命の豊かさが享受される仕組みになっています。これは計算外のようにみえますが、実は宇宙の尺度で計算通りです。その計算が乱れれば、天候不順や自然災害などで調整します。

私たちの心臓の鼓動がやまず臓器が協力し合って身体が健康を保つように、自然の計算は見事に調和しています。それを敢えて崩そうとすれば、身体もその分疲弊しますし、健康を害していきます。今の世のなかの経済というのは、如何に一部の人間の計算取りに事を運ぶかということに執着があります。

自然に計算されているのだから計算は任せるという生き方は運命を好転させていくようにも思います。ご縁を信じて、ご縁のあるがままに任せていくとこの世を去り土に還るときも計算通りぴったりということでしょう。そんな自然天命に委ねることができる人は、後世に偉大に役立つような偉業を為す人が多いように思います。學問とは、畢竟、そういう生き方を磨くための砥石のようなものかもしれません。

別に自分の思い通りの計算通りということが悪いとは思いませんが、計算にはいちいちその人の生き方がにじみ出てくると思うと計算という意識自体を磨いていきたいと思うものです。

どんなことがあってもすべて計算通りと笑って明るく今を生き切る生き方は自然計算を学んでいるのかもしれません。自然の生命に習いながら、道を歩んでいきたいと思います。