場の流儀

「場の道場」では、そのほとんどは場を磨き調える実践ばかりに取り組みます。仕事をしやすいような環境はありますが、仕事の前には常に場を調えるためのお手入れやお掃除をしていますからいちいち長い時間がかかります。

通常、都会のオフィスでは掃除屋さんが入っていたりしてゴミも綺麗に片づけられて翌朝、出社したらすぐに仕事だけをします。あとは、時間に追われながらひたすらに仕事をするだけです。

しかし私たちの「場」は、自分で掃除しお片付けも自分です。室礼をはじめ、お花の手入れや畑の草取り、あるいは妙見神社などの掃除やお水換え等々、やることが多くてすぐに仕事ができません。忙しい人には向かない場所です。またお昼ご飯も畑で採れたもので工夫して調理をし、みんなで一緒に食卓を囲みます。お茶もお菓子も、みんなでゆったりと食べて片付けます。その時々の気づきや振り返りや対話も大切にして脱線することばかり。一般的なオフィスとは対照的に時間がゆっくりと穏やかに流れます。

頭を使う仕事には、心はいらないという具合に都会での仕事は時間ばかりを優先してあれやこれやと短時間に詰め込みます。頭がいいことも一つの才能かもしれませんが、その頭が心を使うことは決してありません。頭は頭だけで完結しています。しかし心は頭を用いることができます。私たちは心が先で、そのあとにあらゆる能力を活かせるようになっています。その中心になっている、心が不在では何をしても「場」はできません。

そもそも「場」とは何かと私に聴かれると、私はいま取り組んでいるむかしの田んぼであったり、畑のことをたとえて話します。かれこれ15年ほど、自然農でお米も高菜も育ててきましたが今では田んぼや畑がちゃんと育って自然に育ちやすい場になっています。つまり「場が醸成された」ともいえます。

その場の醸成は、頭であれこれと時間を惜しんで仕事のようにやってきたわけではありません。むしろ、手間と暇ばかりをかけてお田植祭や新嘗祭など数々の祈り、また直来でみんなでお結びを食べたり笑いあったり予祝したりと楽しんできました。畑もギターを持ち込みライブをしたり、法螺貝を吹いてはご挨拶と祈りを続けました。そのうち、いい生物仲間たちが集まり今では肥料も農薬も何もしなくても自然にいいお米も高菜もできてきます。心を磨いて調えるいるうちに土が易変わったのです。もちろん、作業をしていないわけではありません。しかし先に心を用いてからやっているというだけです。ふざけたように仕事をしては、真剣に真心を籠めて今の暮らしを磨いてきただけです。

本来、私たちは「場」というものを観るとき何を観て果たして場と呼んでいるのでしょうか。私から見ると、世間では場と謳っていてもこれは場ではないなぁと思えるものがたくさんあります。否定するわけではなく場の中心をどこに置いているか、見た目だけで人が集まれば場ができるというのはそれは場の側面の一部の結果の話です。

私の思う本来の場は、「心の場」です。心の場とは、心を磨き、心を高め、心を研ぎ澄まし、心を豊かにし、心を和ませるものです。だからこそ、面倒だと思われても私はいちいち丁寧に暮らしフルネスを実践して場を一緒に磨いていこうとするのです。

場を磨くことは、自分の心を磨くことであり、自分の心を洗い清めていくことで場も清浄になっていくのです。これは随分むかしに仏陀の弟子の周利槃特がすでに実践をして背中で教えてくれている智慧の一つです。別に仏陀が偉いからではなく、心の穢れを祓うことで心を和ませることができるという場を掃除で実現した事実のお話ということでしょう。

智慧の素晴らしいのはやってみるとすぐに気付きます。しかし智慧をおざなりにしていく理由は簡単で「忙しい」からです。忙しい人に智慧はありません。つまり心を亡くすと智慧が用いることができないからです。亡くしてしまうと智慧が働かず、場ができませんのでまずは心を甦生させることから実践させるというのが私の場の流儀です。

明日の「300年供養祭」の「場」をみんなで調えますが、ご供養するのは心で行うものです。みんなで心を磨いていく善い場にしていきたいと思います。