學問の宝

私たちは何かを知ろうとするとき、どこかで借りてきた知識を持つのと自分の身体で体験して得ている知識とでは異なります。自分の体験からの知識であれば自分の身体と一体になっていますから自然に思い出すことができますし引き出しにいつも入っています。

しかしそれを誰かに借りたもので、自分の身体の外に置いていればそれがなくなったり繋がらなくなれば出てきません。このパソコンやインターネットとも似ていますが、データが破損したりインターネットにつながらなければ出てこないということです。

また知っているのと、実行してきて知ったのとではまた内容も異なります。経験から得た教訓は体に刻まれますが、ただ頭で理解しただけの教訓では真実味が起きません。しかし頭で理解したものを暗記しておけば、それが時間をかけているうちにある時点で色々な体験が重なり自分のものになるというものがあります。

論語の素読でったり、家訓の唱和であったり、理念の確認においても同じです。繰り返し繰り返しているうちに、磨かれて玉になるように少しずつ拭き掃除をしていくようにそのものの徳や正体に気づくというものです。

學問の醍醐味の一つはこの繰り返していくなかで突然ハッっと気づくという面白さです。まるで最初から知っていたことを思い出すような感覚、つまりは目が覚めるというような感覚を得られるのです。

目覚めというのは、何か、それは朦朧とした状態からはっきりと覚醒するということです。周囲に流されず、自分の道を発見し迷いがなくなることに似ています。この世の中をはじめ人は様々な誘惑があり迷います。特に目先の判断というのは、どちらがよいのかよく分からないものです。そういう時は、遠大な航路の先にある北極星や太陽などをみつめて歩んでいくのでしょう。

自分の身体の中に、どれだけ深い体験をするかはどれだけ時間をかけて労苦を惜しまずに學問に勤しんだかということが問われます。時間をかけて労苦を惜しまずに取り組んできたことは、その人にとっての學問の宝です。

先人たちの生き方を習いながら今でもその學問の豊かさを愉快に味わっていき子どもたちに伝承していきたいと思います。