供養する喜び

「懐徳堂300周年供養祭×徳が循環する未来の甦生シンポジウム×ブロックチェーン経済」が無事に終わり、多くの方々から御礼や感謝の声をいただきました。その一つに「供養する喜び」がありました。

もともとこの「供養」という言葉は、古代インド語の一種であるパーリ語では「pūjā (プージャ) 」が由来だと言われます。 この梵語は「尊敬する」や「崇拝する」という意味です。

今回の懐徳堂の甦生では、みんなで火鉢を囲んで車座になり供養祭での學びや氣づきと合わせて自分の尊敬する人や崇拝する人の話をしていただきました。

ある人は、祖父であったり、ある人は郷里の偉人や長老であったり、またある人は身近な友人であったり、先祖代々が宿っている自分であったりとその理由を語ってくださいました。またこれから300年先のことを考えてみんなで何を実践して変えていくのかを傾聴しあうことができました。

300年前に懐徳堂が創設したとき、その初代學主はそこで「人の道」を學びの中心に定めました。人の道とは何か、それは「徳」のことです。つまり私たちは徳を學ぶことで道を知り人と為るということでしょう。

ではその徳とは何かということです。

もともと「徳」という字は「直線」の「直」と「心」を組み合わせた「悳」と書き「まっすぐな心・すなおな心」を表していたといわれています。その後、「彳(ぎょうにんべん)」を加えて「まっすぐ正しい行い、真心の実践」のことを指すようになりました。

この徳というものは、自然でいえば最初から自然に備わっているものということです。海も山も空も、水も太陽も宇宙も私たちができる前から存在していたものです。一番最初は何か、それは最初から「あったもの」ということになります。この元々あったものをそのままに使えることほど仕合せなことはありません。

しかし人間は、三宅石庵が言うように現実に生れてきた後は気質の偏りや耳目の欲望によって人は自分の生まれつきの「道」を失ってしまうこともある。それらの刷り込みに流されずに自分自身に具わった徳を決して失わないのが「聖人」であると。

私たちは聖人というと、偉い人や立派な人のことを思い浮かべます。しかし実際にはは、この一生の中で最期まで徳を失わなかった人、徳を遣りきった人のことを指すように思います。

論語の中で孔子の弟子の曾子はこう言います。「吾(われ)、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」と。これは私の師匠でメンターの方も座右の銘にされています。

懐徳というのは、徳を心に深く省みるということです。これは内省によって徳を磨こう、改善によって徳を積もうとすることでもあります。

時代が変わっても、普遍的な道はいつまでも変わることはありません。道が無窮であるように徳もまた無窮ということでしょう。

供養を軸に徳が循環する未来の甦生やブロックチェーンの持つ経世済民の可能性などについて学び合いましたが徳に包まれそれぞれの道を明らかにする素晴らしい場になったこと心から感謝しています。

暮らしの中で如何に私たちは「当たり前」のことを丁寧に紡いでいけるのか。変革は常に小さいところ、弱いところ、一人からはじまります。

故 清水義晴氏の魂に供養のいのりを捧げたいと思います。

ありがとうございます。